渋沢栄一はどんな人?何をした?功績や性格、逸話まで簡単に解説

渋沢栄一の逸話

逸話1:14歳で商売の才が開花

14歳にして商売の才能に目覚めた渋沢栄一

渋沢栄一は、14歳にして商売の才能に目覚めました。幼い頃から家業である藍玉の製造・販売・養蚕を手伝っていた栄一はある時、父の不在に代わって藍の葉の買い付けを任されます。

大量に摘まれた藍の葉を前に、栄一はたぐいまれなる選別能力を発揮。良質な藍の葉を買い付ける姿に、農家の人々はたいそう驚きました。

初の買い付けを見事にやってのけた栄一は、これを機に商売の楽しさを実感。藍の目利き名人だった父の仕事を、普段からよく観察していたのが功を奏したのでしょう。

当時父が家を空けなければ、栄一の才能は目覚めていなかったかもしれません。後に実業家として470社もの企業創設に関わった渋沢栄一の功績は、この逸話なくして語れないでしょう。

逸話2:国政参加の大望を抱くきっかけとなった代官との衝突

国政参加の大望を抱くきっかけとなった代官との衝突

代官との衝突をきっかけに、渋沢栄一は国政参加の大望を抱きました。

17歳になった栄一は、父に代わり課された御用金(ごようきん)を払いに代官の元を訪れます。理不尽な要求のうえ傲慢な態度を取る大官に疑念を抱いた栄一は、御用金の支払いを拒否。当時、絶対とされていた大官の命令に背いたのです。

腹を立てた代官は、栄一に農民の身分を侮辱するような言葉を浴びせます。「学問を修め商売に励んでも、農民であるだけでこんな扱いを受けるのか」と、栄一は胸が張り裂けるほどの怒りと悔しさを感じました。

この代官との衝突は、栄一に身分制度に対する強い疑念と反感を生み出しただけでなく、後に武士となり国政参加する大望の火種となる思想を抱くきっかけとなったのです。

※御用金(ごようきん):幕府や藩が財政を補うため農民や商人に臨時で課した金

渋沢栄一にまつわる都市伝説

都市伝説1:渋沢栄一はフリーメイソンだった?

活動内容が不明な秘密結社
フリーメイソン

渋沢栄一はフリーメイソンの一員だったのではないか、という都市伝説があります。フリーメイソンとは公式サイト上は「世界最古・最大の友愛団体の1つ」となっているものの、活動の詳細が不明な秘密結社のことを指します。

1717年に英国で発足した結社ですが、日本人初のフリーメイソンは坂本龍馬であったとも、岩崎弥太郎や伊藤博文もフリーメイソンであったのではともいわれています。彼らの影響を多少なりとも受けている渋沢もフリーメイソンであったのはないでしょうか。

都市伝説2:渋沢栄一は土方歳三と会っていた?

新選組副長・土方歳三

尊王攘夷論者であり、一橋慶喜に仕えていた渋沢栄一ですが、実は新選組との関わりももっていたようです。ともに長州の過激派浪士を捕縛しに行ったことがあり、しかもそのときに土方歳三が渋沢栄一の護衛をしていたといわれています。渋沢と土方歳三の意外な関係です。

渋沢栄一の生涯年表

1840年 – 0歳「渋沢栄一誕生」

生地・現在の深谷駅前にある渋沢栄一の像

渋沢栄一、武蔵国に生まれる

渋沢栄一は1840年2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村の農家に生まれました。幼名は栄二郎。渋沢家は代々藍玉の製造販売から養蚕、米、野菜の生産など幅広く営む豪農と呼ばれる一族であり、その家の長男として生まれたのです。

1840年といえば日本はまだ江戸時代。武士が台頭していた時代です。海外ではアヘン戦争が勃発したりと、世界情勢も著しく変化していく時代でした。

1858年 – 19歳「尾高千代と結婚」

尾高千代と結婚

師匠・尾高惇忠の妹、千代と結婚

1858年、19歳で渋沢栄二郎は尾高惇忠の妹である尾高千代と結婚しました。尾高惇忠といえば、渋沢が幼少の頃から四書五経や「日本外史」を教えてくれた師匠です。その妹と結婚するわけですから、よっぽど彼が勉学に優れ、尾高も認める秀才であったのでしょう。

ちなみにこのとき、渋沢栄一郎と名を改めました。この時代、普通の農民は名を改めることがなく、幼名変更は士族階級などにしか見受けられないのですが、渋沢は結婚を機に改名します。それほど身の入った結婚だったのでしょう。

1861年 – 22歳「江戸に出て海保漁村の門下生となる」

乗っ取り計画のあった高崎城跡

海保漁村の門下生になり、儒学を学ぶ

海保漁村は、江戸時代に発展した朱子学の考証学派で有名な儒学者です。彼は徳川300年屈指の大儒学者と呼び名は高かったのですが、その生涯を庶民教育に徹したことで知られています。そんな有名な儒学者の下に通うという強い意志をもっていたことからも、渋沢栄一の真面目な性格がうかがえます。

また、このとき北辰一刀流の千葉栄次郎の道場にも入門しました。剣術修行の傍ら勤皇浪士と交友を結びます。ちなみにこの北辰一刀流はおもに竹刀と防具を用いた打ち込み稽古を中心とする流派で、現代剣道を築いた流派としても知られています。

道場入門から2年後、討幕計画を目論む

北辰一刀流の道場に入門してから、渋沢は勤皇浪士たちと深く関わることで徐々に尊皇攘夷の思想に目覚めていきます。それが爆発したのが1863年。彼は高崎城を乗っ取って武器を奪い、長州と連携して幕府を倒すという過激な計画を立てます。

しかし、尾高惇忠の弟・長七郎の懸命な説得により計画は中止となりました。討幕のために高崎城を乗っ取って武器を奪うという計画を立てたところを見ると、渋沢はかなり過激な思想をもっていたようです。

1863年 – 24歳「一橋慶喜に仕える」

一橋(徳川)慶喜

一橋家領内の警備巡回

渋沢栄一は上記のような過激な計画を目論んだことで親族に迷惑がかからないよう、父から勘当を受けた体裁を取って京都に出ます。しかし八月十八日の政変直後であったために、以前より親交のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙で一橋慶喜に仕えることとなりました。

仕えるといっても身辺の世話ではなく、あくまで一橋家の警備を行っていました。農兵の募集にも携わったといいます。

慶喜が将軍となり、海外渡航を経験する

1866年に慶喜が将軍となると、渋沢栄一は幕臣となりました。そしてパリ万国博覧会に将軍の名代として出席する徳川昭武の随員として海外渡航を経験します。各地で先進国の産業・文化を直に見て、彼はそれからの仕事の糧としたのでしょう。

1868年5月、大政奉還にともなって新政府から帰国の命令が下ります。1868年9月にマルセイユを出発し、11月に横浜港に帰国しました。

1869年 – 30歳「大蔵省入省」

大隈重信

大蔵官僚としての功績

渋沢栄一は帰国後すぐに静岡に商法会所という金融商社を設立しますが、大隈重信に海外渡航の経験を買われ、大蔵省に入省することとなりました。大蔵省といえば、現在の財務省。財政を管理する国家機関に大隈重信という偉人の推薦で入省したのです。

彼はここで民部省改正掛を率いて改革案の企画や立案をしたり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に尽力しました。大蔵官僚としても、近代日本経済の礎を造り上げたのです。

大蔵官僚退官

しかし、その大蔵官僚としての仕事も長続きはしませんでした。入省からわずか4年後の1873年、予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立し、事実上大蔵省を率いていた井上薫と共に退官してしまいます。

ちなみに1873年といえば、征韓論争が過激となっていた時代です。征韓論が否決されると、征韓論者であった西郷隆盛や板垣退助、江藤新平、副島種臣ら新政府の中枢を担っていた人々が一斉に下野した「明治六年の政変」の年としても知られています。この後に西郷隆盛は西南戦争を起こすのです。

1873年 – 34歳「第一国立銀行の頭取に」

第一国立銀行

第一国立銀行の頭取となる

大蔵官僚を退官した後まもなく、大蔵省時代に設立に貢献した第一国立銀行の頭取に就任しました。ここから彼は実業界に身を置くこととなります。この第一国立銀行は現在のみずほ銀行という大銀行ですから、やはり彼の功績は現在も形あるものとして残っているのです。

その後も実業家として様々な企業の設立に携わっていくこととなるのですが、一方で渋沢栄一は実業界の中でも最も社会活動に熱心な人であったといわれています。養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)の院長を務め、東京慈恵会や日本赤十字社などの設立にも関わりました。関東大震災後の復興においては大地震善後会の副会長となり、寄付金集めなどに奔走しました。

1876年 – 37歳「社会事業へ貢献」

現在の東京都健康長寿医療センター

東京府養育院の事務長に

それまでは主に実業界において企業の設立や教育機関の創立に貢献してきた渋沢栄一ですが、ここで東京府養育院の事務長となります。東京府養育院は明治維新による困窮者救済のために建てられた施設で、おもに行き倒れている人々や迷子、捨て子の救済を行っていました。

東京府養育院は現在「東京都健康長寿医療センター」となり、1952年以来知事直轄の事業所として東京都板橋区に本院を置いています。老人ホームや知的障碍者援護施設などの運営など多種多様な社会事業をしている独立行政法人です。ちなみに渋沢栄一は1885年、46歳の時に院長となりました。

1901年 – 62歳「女性教育へ貢献」

現在の日本女子大学

日本女子大学校を開校

現在は日本有数の女子大学として知られている日本女子大学ですが、その前身である日本女子大学校は渋沢栄一が開校しました。「女子に教育は必要ない」という風潮だった当時の日本の中で、女子のための教育機関を設立した渋沢栄一は大変な苦労をしたのでしょう。

しかし現在、数ある女子大学の礎として日本女子大学校を設立した渋沢栄一は、日本の女子教育の先駆者といっても過言ではないでしょう。その後も77歳で実業界を引退するまで多くの事業に貢献します。

1931年 – 92歳「大往生の生涯に幕を閉じる」

渋沢栄一記念館にある銅像

1931年、92歳という当時としては大往生の生涯に幕を閉じました。

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