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【年表付】渋沢栄一とはどんな人?名言や子孫、会社や功績まとめ

明治維新を経済の面から支えた渋沢栄一。彼は埼玉県の田舎の農家出身ながらも、海外への渡航経験を経て大蔵省の役人となります。その後大蔵省を辞すわけですが、「第一国立銀行」と呼ばれる、日本で最初の銀行造りに携わり、完成した後はその銀行の頭取(銀行の代表者)となっています。

第一国立銀行以外にも様々な地方銀行や現在の三井住友銀行にも生涯で500もの企業に携わったと言われていますが、さらには現在でも有名な様々な企業創立にも貢献しています。

例えば、鉄道会社だけでも日本鉄道(現JR東日本)や秩父鉄道、京阪電気鉄道などの現在でも有名な会社や、日本郵船の前身である共同運輸会社、田園調布と呼ばれる高級住宅街を造り上げた田園都市株式会社などです。他にも多数存在しますが、どれも有名な企業ばかりです。

そんな活躍が評価され、歴史に名を残す偉人となった渋沢栄一ですが、2024年度に「1万円札の顔」となることが近頃発表されました。1984年に聖徳太子から福沢諭吉になって以来、40年ぶりの変更となります。

流通経済において必要不可欠な1万円札。普段使っている我々日本人として彼の功績を知らないわけにはいきません。この記事を読んで少しでも渋沢栄一の魅力を知り、2024年度から堂々と1万円札を使っていきましょう。

今回は、資本主義社会の仕組みに興味を持ち調べていくうちに、渋沢栄一の偉業に頭を上げられなくなってしまった筆者が紹介します。

渋沢栄一とはどんな人か?

名前渋沢栄一
誕生日1840年3月16日
没日1931年11月11日
生地武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島村)
没地東京都
埋葬場所谷中霊園(東京都台東区谷中7-5)
職業幕臣・実業家・慈善家・官僚・教育者
配偶者渋沢千代
渋沢市郎右衛門元助
エイ

渋沢栄一の生まれは?

起業家であり「近代日本経済の父」といわれる渋沢栄一ですが、彼は現在の埼玉県深谷市の農家に生まれました。大蔵省にも勤め、何百社もの企業創立に貢献したという実績があるにも関わらず、生まれは一般の農家。幼いころは家業である藍玉の製造・販売・養蚕を手伝っていたといいます。

しかし彼の実家は農家といっても当時では比較的大きな農家でした。父親から学問を習い、7歳になると尾高惇忠という論語学者のもとへ本格的な学問を習いにいきます。しかしそれでも一般の農民から日本の経済を代表する人物に成りあがったのは、やはり彼の努力の賜物であると言えるでしょう。

渋沢栄一は江戸時代生まれですが、尾高惇忠の思想や様々な学問を習った結果として、「尊皇攘夷論」を論ずるようになります。尊皇攘夷論は当時としては比較的過激な思想でありますので、彼の性格も過激な性格であったと言われています。

ちなみにその思想により、彼は討幕のために「高崎城を乗っ取る」という計画を企てたこともありました。これは高崎城で武器を調達して横浜の異人館を襲撃しようとしたとのことですが、あまりに激しい考えであったために尊王攘夷論者からも非難を浴びたそうです。かなり過激な性格だったのですね。

渋沢栄一の残した功績は?

近代日本経済の父と呼ばれた渋沢栄一。彼は500以上の企業設立、600以上の教育・社会事業の運営に貢献しています。大蔵官僚を経験した実業家として、明治維新における日本経済・教育の基軸を築き上げました。

また、日本初の銀行(第一国立銀行)の設立・運営にも大蔵官僚として、退官後は頭取として大きく貢献しています。企業にも銀行にも社会事業にも貢献した人物は日本の歴史を見ても彼しかいません。

渋沢栄一の家族や子孫にはどんな人物がいる?

渋沢栄一は女性事情に豪快であったようで、正妻である千代との子(嫡出子)の他にも何人もの子女がいました。もちろん嫡出子は渋沢栄一一族の名誉に関わる者ですから、長女歌子・二女琴子はそれぞれ法学者の穂積陳重・大蔵大臣の阪谷芳郎に嫁いでいます。三女愛子は澁澤倉庫会長や第一銀行頭取を務めた明石照男に嫁ぎました。

また、長男篤二は伯爵・橋本実梁の娘敦子を妻に持ち、澁澤倉庫の会長を務めました。ちなみに彼は長男ですが、家督は継ぐことができませんでした。これには諸説ありますが、実業家というより芸術肌であったために、廃嫡としたとの説が濃厚です。

長男以外にも二男武之助は石川島飛行機製作所の2代目社長、三男正雄は石川島飛行機製作所初代社長、四男秀雄は東京宝塚劇場会長や東宝取締役会長を務めました。

渋沢栄一が新一万札の顔になる理由とは?

日本の紙幣に選ばれる人々は、やはり政治や経済・教育の面から日本の発展に貢献した人物が大多数を占めます。現在の紙幣には千円札は野口英世、五千円札は樋口一葉、一万円札は福沢諭吉の肖像が載っていることは言うまでもないですが、2024年度から千円札は北里柴三郎、五千円札は津田梅子、一万円札は渋沢栄一の肖像となります。

近代日本経済の父と呼ばれるほどの渋沢栄一ですから、渋沢以外の人物と比べてもまったく遜色なく、もはや今までの人物の中で最も日本への貢献度が高い、と言っても過言ではない人物ではないでしょうか。

渋沢栄一の名言は?

人は全て自主独立すべきものである。自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである。

全て形式に流れると精神が乏しくなる。何でも日々新たにという心がけが大事である。

一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが、処世上の第一要件である。

事業には信用が第一である。世間の信用を得るには、世間を信用することだ。個人も同じである。自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ。

たとえその事業が微々たるものであろうと、自分の利益は少額であろうと、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで仕事にあたることができる。

金儲けを品の悪いことのように考えるのは、根本的に間違っている。しかし儲けることに熱中しすぎると、品が悪くなるのもたしかである。金儲けにも品位を忘れぬようにしたい。

渋沢栄一は一体何がすごいのか?

すごさ1「渋沢栄一は農民出身だった」

渋沢栄一の凄さは、まず農民出身だという点にあります。農民と言っても比較的大きな農家で、父親も学問に優れ、7歳の時には尾高淳忠という実業家に学問の手ほどきを受けられるほど裕福であったのです。

また、渋沢栄一(幼名;栄二郎)自身も学問の傍ら、幼いころから父と共に信州や上州へ赴いて藍を売り歩いていたと言います。14歳の頃には独り立ちをし、単身で藍葉の仕入れに出かけるようになったと言いますから、実業家としての素質をここからも伺うことができます。

すごさ2.「大学の設立や教育事業にも貢献した」

渋沢栄一は企業の設立だけでなく、大学の設立や教育事業にも多大なる貢献をしています。例えば現在の一橋大学。当時は商法講習所と呼ばれ、実業界で活躍する人材を要請するための日本初の教育機関とされています。

また、現在の日本女子大学の前身である日本女子大学校の設立にも貢献し、校長も務めました。大学の設立以外にも社会事業にも貢献し、彼が生涯で関わった教育・社会事業の数は600以上にもなるそうです。

すごさ3.「実業家として500もの企業の設立に携わった 」

渋沢栄一の一番の凄さはここにあります。既にこの記事のなかで何度も触れていますが、500もの企業の設立に携わった実業家は日本を超えて世界に目を向けても彼しかいません。近代日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一の原点です。

しかもその設立した企業が今でも有名な企業というのも凄いところ。現在のみずほ銀行や東京海上日動火災保険、日本製紙、東急、帝国ホテル、東京証券取引所、サッポロホールディングス、キリンホールディングスなど多種多様です。

渋沢栄一にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「渋沢栄一はフリーメイソンだった?」

渋沢栄一はフリーメイソンだったのではないか、という都市伝説もあります。フリーメイソンとは公式サイト上は「世界最古・最大の友愛団体の1つ」となっているものの、活動の詳細が不明な秘密結社のことを指します。

1717年に英国で発足した結社ですが、日本人初のフリーメイソンは坂本龍馬であった、とも、岩崎弥太郎や伊藤博文もフリーメイソンであったのでは、とも様々な都市伝説があります。彼らの影響を多少なりとも受けている渋沢栄一もフリーメイソンであったのはないでしょうか。

都市伝説・武勇伝2「渋沢栄一は土方歳三と会っていた?」

尊王攘夷論者であり、一橋慶喜に仕えていた渋沢栄一ですが、実は新選組との関りも持っていたようで、ともに長州の過激派浪士の捕縛に赴いたことがあるそうです。しかもその時に土方歳三が渋沢栄一の護衛をしていたとか。土方歳三と渋沢栄一の意外な関係です。

渋沢栄一の略歴年表

1840年
渋沢栄一誕生

渋沢栄一は武蔵国榛沢郡血洗島村で、父渋沢市郎右衛門元助と母エイの長男として生まれます。比較裕福な農家でした。

1869年
大蔵省入省
1869年10月、海外渡航により培われた知識を大隈重信に買われて当時の大蔵省に入省します。
1873年
第一国立銀行頭取に就任
1873年に大蔵省を退官すると、官僚時代に設立に携わっていた第一国立銀行(現;みずほ銀行)の頭取に就任し、実業家としての人生をスタートさせます。

渋沢栄一の生涯具体年表

1840年 – 0歳「渋沢栄一誕生」

渋沢栄一、武蔵国に生まれる

渋沢栄一は1840年2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村の農家に生まれました。幼名は栄二郎。渋沢家は代々藍玉の製造販売から養蚕、米、野菜の生産など、豪農と呼ばれる一族であり、その家の長男として生まれたのです。

また、1840年と言えば日本はまだ江戸時代。武士が台頭していた時代です。海外ではアヘン戦争が勃発したりと、世界情勢も著しく変化していく時代でした。

1858年 – 19歳「尾高千代と結婚」

尾高惇忠の妹、千代と結婚

1858年、19歳の時に渋沢栄二郎は尾高惇忠の妹である尾高千代と結婚しました。尾高惇忠といえば幼少の頃から四書五経や「日本外史」を学んだ渋沢栄一の師匠。その妹と結婚するわけですから、よっぽど彼が勉学に優れ、尾高惇忠も認める文才であったのでしょう。

ちなみにこの時、渋沢栄一郎と名を改めました。この時代普通の農民は名を改めることがなく、士族階級などにしか殆ど見受けられない幼名変更ですが、渋沢栄二郎は結婚を機に改名します。それほど身の入った婚姻だったのでしょう。

1861年 – 22歳「江戸に出て海保漁村の門下生となる」

海保漁村の門下生になり、儒学を学ぶ

海保漁村と言えば、江戸時代に発展した朱子学の考証学派で有名な儒学者。彼は徳川300年屈指の大儒学者と呼び名は高かったのですが、その生涯を庶民教育に徹したことで知られています。そんな有名な儒学者の下に通うという強い意志を持っていたことからも、渋沢栄一の真面目な性格が伺えます。

また、この時北辰一刀流の千葉栄次郎の道場にも入門しました。剣術修行の傍ら勤皇浪士と交友を結びます。ちなみにこの北辰一刀流はおもに竹刀と防具を用いた打ち込み稽古を中心とする流派で、現代剣道を築いた流派としても知られています。

道場入門から2年後、討幕計画を目論む

北辰一刀流の道場に入門してからというものの、彼は勤皇浪士と深いかかわりあいを持ち、徐々に尊皇攘夷の思想に目覚めていきます。それが爆発したのが1863年。彼は高崎城を乗っ取って武器を奪い、長州と連携して幕府を倒すという過激な計画を立てます。

しかし、尾高惇忠の弟である尾高長七郎の懸命な説得により計画は中止となりました。高崎城を乗っ取って武器を奪い討幕するなんて、本当に彼は過激な思想を持っていたのです。

1863年 – 24歳「一橋慶喜に仕える」

一橋家領内の巡回

渋沢栄一は上記の様な過激な計画を目論んだことにより、親族に迷惑が掛からないよう、父から勘当を受けた体裁を取って京都に出ます。しかし八月十八日の政変直後であったために、以前より親交のあった一橋家家臣である平岡円四郎の推挙で一橋慶喜に仕えることとなりました。

仕えるといっても身辺の世話ではなく、あくまで一橋家の警備を行っていました。農兵の募集にも携わったと言います。

一橋慶喜が将軍となると海外渡航を経験する

1866年に慶喜が将軍となると、渋沢栄一は幕臣となりました。そしてパリ万国博覧会に将軍の名代として出席する徳川昭武の随員として海外渡航を経験します。各地で先進国の産業・文化を直に見て彼は以後の仕事の糧としたのでしょう。

1868年5月、大政奉還に伴って新政府から帰国の命令が下されます。1868年9月にマルセイユを出発し、11月に横浜港に帰国しました。

1869年 – 30歳「大蔵省入省」

大蔵官僚としての功績

渋沢栄一は帰国後すぐに静岡に商法会所を設立しますが、大隈重信に海外渡航の経験を買われ、大蔵省に入省することとなります。大蔵省と言えば、現在の財務省。金銭を牛耳る国家機関に大隈重信という偉人の推薦で入省したのです。

彼はここで民部省改正掛を率いて改革案の企画や立案をしたり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に尽力しました。大蔵官僚としても、近代日本経済の礎を造り上げたのです。

大蔵官僚退官

しかし、その大蔵官僚としての仕事も長続きはしませんでした。1869年に入省したわずか4年後の1873年、予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立し、事実上大蔵省を率いていた井上薫と共に体験してしまいます。

ちなみに1873年と言えば、征韓論争が過激となっていた時代。征韓論が否決されると、征韓論者であった西郷隆盛や板垣退助、江藤新平、副島種臣ら新政府の中枢を担っていた人々が一斉に下野した「明治六年の政変」の年としても知られています。この後に西郷隆盛は西南戦争を起こすのです。

1873年 – 34歳「第一国立銀行の頭取に」

第一国立銀行の頭取となる

大蔵官僚退官後まもなく、大蔵省時代に設立に貢献した第一国立銀行の頭取に就任しました。これ以後彼は実業界に身を置くこととなります。この第一国立銀行は現在のみずほ銀行という大銀行ですから、やはり彼の功績は現在も形あるものとして残っているのです。

その後も実業家として様々な企業の設立に携わっていくこととなるのですが、一方で渋沢栄一は実業界の中でも最も社会活動に熱心な人であったと言われています。養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)の院長を務め、東京慈恵会や日本赤十字社などの設立にも関わったといいます。関東大震災後の復興においては大地震善後会の副会長となり、寄付金集めなどに奔走しました。

1876年 – 37歳「社会事業へ貢献」

東京府養育院の事務長に

それまでは主に実業界において企業の設立や教育機関の創立に貢献してきた渋沢栄一ですが、ここで東京府養育院の事務長となります。東京養育院とは、明治維新による困窮者救済のために建てられた施設で、おもに行路病者や迷子、捨て子の救済を行っていました。

現在は1952年以来知事直轄の事業所として名を残し、東京都板橋区に本院を置いて老人ホームや知的障碍者援護施設など多種多様な社会事業を行っています。ちなみに渋沢栄一は1885年、46歳の時に院長となりました。

1901年 – 62歳「女性教育へ貢献」

日本女子大学校を開校

現在は日本有数の女子大学として知られている日本女子大学ですが、その前身である日本女子大学校は渋沢栄一が開校しました。「女子に教育は必要がない」という風潮だった当時の日本の中で、女子のための教育機関を設立した渋沢栄一は大変な苦労をしたのでしょう。

しかし現在数多ある女子大学の礎として日本女子大学校を設立した渋沢栄一は、日本の女子教育の先駆者と言っても過言ではないでしょう。その後77歳に実業界を引退するまで多くの事業に貢献します。

1931年 – 92歳「大往生の生涯に幕を閉じる」

1931年、92歳という当時としては大往生の生涯に幕を閉じました。

渋沢栄一の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

現代語訳 論語と算盤(ちくま新書)

この本は渋沢栄一自身が著した「論語と算盤」を守屋淳が現代語に翻訳した本となっています。渋沢栄一が記した著書をそのまま現代語訳したものですから、彼の考えから生き方まで、全てがわかります。論語の初心本としても最適の本となっています。

渋沢栄一「論語」の読み方

こちらの本も渋沢栄一自身が著した本を現代語訳した書籍となっています。こちらの本は上記の「論語と算盤」よりも論語に重点を置いた著書で、実業家として、現代人として読むべき渋沢栄一の教えが事細かに記されています。人生の生き方を見つけるにも良い本ではないでしょうか。

渋沢栄一 100の訓言

こちらの本は題名の通り、渋沢栄一の訓言が記されています。実業家として成功を遂げた彼の言葉には1つ1つに深い意味があり、現代人が考えるべき、今の日本だからこそ考えるべき事柄に言及されています。特にビジネスマンに読んで頂きたい書籍です。

おすすめの動画

中田敦彦史上No.1書籍!渋沢栄一「論語と算盤」~日本主義の父が語る成功哲学~

この動画は有名なお笑いタレントであり実業家でもある中田敦彦氏が「論語と算盤」について感想、解説をしている動画となっています。そのまま読めば難しい著書を簡潔にわかりやすく解説しているので、一度読んだ人にとっても、読んだことのない人にとっても最適です。

おすすめドラマ

青天を衝け

NHKにて毎年放送されている大河ドラマですが、2021年1月から渋沢栄一を主人公にした物語がスタートします。新デザインの紙幣を取り入れるこの時期、これを観て渋沢栄一の思想や生涯に想いを馳せるのもいいのではないでしょうか。

関連外部リンク

渋沢栄一についてのまとめ

「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一。彼は埼玉県の農民から成り上がって大蔵省で活躍し、さらには生涯で500もの企業の創立に携わりました。明治維新で政府も国民も混乱している中で、彼は海外渡航により得た経験と知識を最大限に活用しながら自分の信念を生涯貫き通したのです。

その思想・信条は現代日本に生きる我々にも学ぶものがあり、令和という新しい時代に一歩踏み入れた今、そして、2024年度から新紙幣として渋沢栄一の肖像の載った1万円札が流通すると発表された今、激しく移り行く時間から少し離れ、先人の言葉に耳を傾けるのも良いのではないでしょうか。

彼について学べば、実業に関する知識はもちろんのこと、論語に関する知識も増やすことができます。人生に疲れた時にふと彼の書籍を読んでみてはいかがでしょうか。