クロード・ドビュッシーとはどんな人?生涯・年表まとめ【代表曲や功績、性格なども紹介】

『クロード・ドビュッシー(1862年~1918年)』は、フランス生まれの作曲家です。伝統から大きく外れる自由な音階等を駆使して、19世紀初頭から20世紀前半にかけて世界的に活躍をしました。芸術家に例えると、「ピカソ」のようなオリジナリティあふれる人物だと言えます。

クロード・ドビュッシー

ドビュッシーは『海』『夜想曲』といった、世界的に有名な楽曲を多数世に送り出しました。しかし、有名とはいってもそれらの代表曲を聞いたことがない人は多いはずです。それもそのはずで、ドビュッシーの楽曲は「音楽に精通している人」の中で有名であり、かつ「音楽技法の革命者」であると捉えられているのです。

今回はそんな「ドビュッシーの凄さ」を、無知の状態から書籍等を読み漁り、ドビュッシーオタクと言えるまで勉強した筆者が解説していきます。

「印象派」などの専門用語は少なくして解説するので、たとえ「音楽のことが全くわからない!」という初心者であっても理解できるようになっています。ぜひ最後までご覧いただき、ドビュッシーの魅力を余すことなく抑えてみてください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

クロード・ドビュッシーとはどんな人物か

名前クロード・アシル・ドビュッシー
誕生日1862年8月22日
没日1918年3月25日
生地フランス サン・ジェルマン・アン・レー
没地フランス パリ16区
配偶者エンマ・バルダック
埋葬場所パッシー墓地

ドビュッシーの生涯をハイライト

フランスの作曲家ドビュッシー
出典:Wikipedia

まずはドビュッシーの生涯を簡単に解説しましょう。

1862年、パリ近郊のサンジェルマンで生まれたドビュッシーは、幼い頃より音楽の才能に溢れていました。そして、10歳の頃に歴史ある名門のパリ音楽院に入学します。

当初、彼はピアニストの道を目指していましたが、ピアノコンクールで賞を取ることができずに挫折してしまいました。この出来事をきっかけに、ドビュッシーはピアノと並行して挑戦していた作曲活動を本格化させていきます。

その後、ドビュッシーは年に1度行われる作曲家のコンクールであるローマ賞に挑戦していきます。そして、彼は3度目の挑戦にして初めてローマ大賞を受賞し、政府からの奨学金と留学する権利を与えられてローマへ留学しました。

ローマへ留学した頃のドビュッシーの肖像画
出典:Wikipedia

1889年、国民音楽協会に入会したドビュッシーは、新たな人脈や楽曲を発表する場を獲得します。そして、この頃に代表曲である「牧神の午後への前奏曲」や「3つの夜想曲」、「海」、「月の光」などの楽曲を制作しました。

晩年、パリで過ごしていたドビュッシーは大腸がんを患ってしまいます。その後、病気と闘いながらピアノの演奏や作曲活動を続けていきましたが、1918年の初旬には直腸がんを発症してしまい、同年3月25日に死去しました。

ドビュッシーは気難しい性格をしていた

内向的で気難しい性格をしていた

幼い頃から内向的で非社交的な性格だったドビュッシーは、パリ音楽院に入学した頃にはとても気難しい性格になっていたそうです。その結果、彼は教師や女性との関係において様々なトラブルを引き起こしていました。

当時、ドビュッシーは歴史あるパリ音楽院の伝統を破壊しかねない発言をしてしまうような問題児でした。彼は失礼な発言や文句を隠そうともせず、担当教師を非常に困らせていたようです。

また、彼は弁護士の人妻と8年間も交際した後に別れています。その後、様々な女性と関係を持ちますが、そのたびに自殺未遂騒動や不倫などの様々なトラブルを起こしてしまいました。最終的に、彼は恋人と共に多くの友人も失っていきました。

幼い頃から音楽の才能に溢れていた

ドビュッシーは幼い頃からピアノを始めていた

ドビュッシーは幼い頃から音楽の才能に溢れており、パリ音楽院において高度な音楽教育を受けながら少年時代を過ごしました。

当初ドビュッシーは叔母の影響でピアノを始めたことをきっかけに、音楽の道へ進むことを決めました。そして、10歳の頃にヨーロッパにおける最古の国立音楽学校であるパリ音楽院に入学します。

この学校は世界的にもトップレベルの音楽学校であり、卒業はかなり難しいと言われていました。しかし、そのような伝統と歴史ある学校においてドビュッシーは「最年少の国家奨学生」に選ばれていました。彼は10歳の頃より天才的な音楽センスを持っていたのです。

音楽以外のジャンルからインスピレーションを受けた

ドビュッシーは音楽以外の芸術家と親交があった

ドビュッシーは音楽以外の様々なジャンルの芸術からインスピレーション受けて作曲活動を行っていました。特に、彼はロセッティやホイスラーなどの画家と関係が深かったようです。

幼少期から音楽的な才能に恵まれていたドビュッシーは、学生時代より音楽界における新境地を開拓したいという気持ちを強く抱いていました。そのため、彼は新たな視点を持つために、音楽家だけでなく画家などの芸術家との交流を大切にしていたようです。

音楽以外のジャンルから吸収した新たな芸術観は、ドビュッシーの音楽観に大きな影響を与えました。その結果、彼の楽曲はそれまでの西洋音楽とは一風変わった作風として有名になっていきました。

スキャンダルが多く、「W不倫」をしていた…?

恋多き男の一面を持つドビュッシー

ドビュッシーは「スキャンダルが多い」ということでも非常に有名です。ドビュッシーは結婚しているにもかかわらず、裕福な銀行家の夫人エンマに恋をし、音楽という共通の話題を通して親しくなったそう。

同い年の2人はそのまま駆け落ちし、イギリスのジャージー島という島のホテルに滞在し、2か月以上を2人きりで過ごしました。ちなみに、ドビュッシーの妻リリーはこの駆け落ちのショックから自殺未遂をはかっており、それが要因で強い批判を受けています。

ドイツの音楽家「ワーグナー」から強い影響を受けた

ドビュッシーは若いころ、19世紀に活躍した世界的な音楽家「ワーグナー」から強い影響を受けたと言われています。ちなみにワーグナーは「オペラ楽曲」の中の『ロマン派歌劇』と呼ばれるジャンルの頂点に位置する人物です。

ドビュッシーを始め多くの作曲家に影響を与えたとされており、ワーグナー自身がオペラ楽曲界の革命児であったとも言われていることから、伝統に左右されない強い姿勢に感銘を受けたのだと考えられています。

ドビュッシーの死因はがんだった

晩年は病に苦しんだ

ドビュッシーは「直腸がん」で亡くなっています。1915年に手術を受け、翌年には放射線治療と2回目の手術を受けますが、晩年はかなり身体を弱らせながら仕事をしていたそうです。

その後ますます身体が弱っていったドビュッシーは、1917年の終わりにはベッドから出られない寝たきりの状態になったそう。友人のピアニストが演奏するなど多くの見舞い人に慕われましたが、結局1918年の3月にパリで息を引き取っています。

ドビュッシーの代表作

選ばれた乙女(1888年)

ソプラノ・アルトの独唱と、女声合唱、および管弦楽のために作曲されました。『祝福された乙女』という絵画から着想を得ていると言われています。

月の光(1890年)

「月の光」は、ドビュッシーの楽曲の中で最も有名な曲の1つとされています。この楽曲は1890年頃に作曲されており、ドビュッシーの楽曲の中では比較的初期の作品になります。

アラベスク(1891年)

「アラベスク」は、1888年から作曲されたピアノ曲です。この楽曲は2曲によって構成されており、ロマン派音楽の傾向である三部形式となっています。

牧神の午後への前奏曲(1894年)

慕っていた詩人マラルメの『牧神の午後』に感銘を受けて作曲された楽曲です。

(3つの)夜想曲(1900年)

管弦楽曲であり、『雲』『祭』『シレーヌ』という3つから成る組曲です。傑作の1つとなっています。

海(1905年)

ドビュッシーが幼少期から海に強い愛着を抱いていたことから作曲しました。波のような静けさと、動きが感じられる楽曲です。

映像(1906年)

不倫騒動や離婚の時期に作られたピアノ楽曲で、全4集あります。先ほど紹介した『海』の要素が盛り込まれているとも言われています。

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