クロード・ドビュッシーとはどんな人?生涯・年表まとめ【代表曲や功績、性格なども紹介】

ドビュッシーの功績

功績1「革命的な音楽技法を実践した」

ドビュッシーは規則にとらわれない作風が持ち味だった

ドビュッシーは西洋音楽の常識から外れた革命的な音楽技法を実践した作曲家でした。彼は20代前半の頃には既に規律や法則に縛られることを嫌い、独自の芸術観で音楽と向き合っていました。

19世紀の西洋音楽界には「和声」の法則が根付いていました。「和声」とは、高さの異なる複数の音が同時に響く音響現象です。そして、「和声」によって発生する様々な音を連結させて演奏し、音楽にするのが当時の一般的な西洋音楽でした。

しかし、彼はそのような基本的な形式をあえて無視し、不協和音ともいえる音を活用して作曲していたようです。その結果、彼の作品は規則的な律動にとらわれない新たな作風として、西洋音楽界に異色の存在として君臨したのです。

功績2「後世の音楽界に大きな影響を与えた」

偉大な音楽家として名を残してたドビュッシーは紙幣にも描かれた
出典:Wikipedia

19世紀から20世紀初頭にかけて活躍したドビュッシーは、20世紀で最も影響力のある音楽家の1人として知られています。彼の音楽は、西洋音楽だけでなくジャズやミニマル・ミュージック、ポップスなど様々な分野に影響を与えました。

西洋音楽の面においては、ハンガリーの民族音楽家であるバルトーク・ベーラやロシアの作曲家であるイーゴリ・ストラヴィンスキーに対して影響を与えました。ミニマル・ミュージックの分野においては、アメリカの作曲家であるスティーヴ・ライヒがドビュッシーの影響を受けています。

そして、ジャズの世界ではヨーロッパ初の偉大なジャズ・ミュージシャンとして知られるジャンゴ・ラインハルトが彼の影響を受けました。ポップス界では、1960年代後半のイギリスにおいて登場したジャンルであるプログレッシブ・ロックはドビュッシーの音楽の影響を強く受けていたようです。

ドビュッシーの名言

ドビュッシーの言葉からも天才性を感じる

言葉で表現できなくなったとき、『音楽』がはじまる

この言葉から、ドビュッシーの作曲家としての天才性を感じ取ることができます。彼の音楽は、言葉では表現できないほど美しい芸術なのです。

彼は新たな音楽の概念を切り開き、西洋音楽界に革命を起こしました。そして、彼は言葉で表現できる限界を超えた先にある音楽の新境地へと辿り着き、素晴らしい芸術を世に残したのです。

私はスペシャリストを好まない。私にとって自分を専門化することはそれだけ自分の宇宙を狭めることだ

この言葉からは、彼が常識や規則にとらわれない芸術観を持っていたことがわかります。彼は自分が専門的になればなるほど、同時に視野も狭めてしまうと考えていたようです。

このような考えもあり、彼は様々なジャンルの芸術家と多くの関わりを持つことで自身の芸術観に深みを与えていったのかもしれません。

クロード・ドビュッシーにまつわる逸話

逸話1「ドビュッシーは“秘密の騎士団”の総長だった?」

ハリウッド映画『ダ・ヴィンチ・コード』の原作を書いたダン・ブラウンによると、イエスキリストの聖杯を守っている騎士団の総長をドビュッシーが務めていた…という記録が残っているそうです。

これは実はイエスは十字架に掛けられて死んでおらず、弟子に救われてパレスチナへ行き、そこで結婚して子孫もいた…という秘密を守る軍団のこと。そもそもこの話自体がにわかには信じられない都市伝説なのですが、本当だとしたら物凄い大事な役回りを務めていたことになりますよね。

逸話2「ドビュッシーは2度も妻を自殺未遂に追い込んだ」

女性関係に奔放だったドビュッシー

これは都市伝説ではなく、紛れもない実話です。ドビュッシーは1人目の妻・ギャビーが居ながら浮気をし、ギャビーが浮気相手からドビュッシー宛の手紙を読んでしまったことで、自殺未遂を図ったとされています。

また、2人目の妻・リリーがいたときも、年上の女性・エンマとW不倫をし、あげくの果てに駆け落ちしています。それを知ったリリーはショックを受け、ピストルで自分を撃って自殺未遂。幸い急所を外して助かりましたが、女性関係に関してはかなり奔放であったことが伺えます。

クロード・ドビュッシーの早見年表

1862年
パリ近郊で産まれる

パリ近郊のサンジェルマンでドビュッシーは誕生しました。幼いころは引っ込み思案な性格だったと言われています。また、その後幼いうちにパリに引っ越し、経済的に貧しい状態で生活していたそうです。
1872年
パリ音楽院に入学する

ヨーロッパ最古の名門音楽学校「パリ音楽院」に最年少で入学。見事、国家奨学生にも選出され、優秀な成績だったことが分かっています。しかし、態度は最悪で、反抗期を迎えていたドビュッシーは教師に反発することもたびたびあったそう。
1884年
ローマ大賞を受賞

フランス芸術院という機関が主催する「ローマ賞コンクール」にドビュッシーは3度応募しています。絵画・彫刻・建築・音楽の4部門があり、大賞を受賞すれば家や学費無償などの特典がもらえるため、ドビュッシーは熱意をもって取り組みました。
1888年
カンタータ『選ばれた乙女』を提出

カンタータとは、「声楽のための楽曲」のことであり、オペラをもっと合唱や合奏を前面に押し出したような音楽ジャンル…と捉えて頂ければ大丈夫です。『選ばれた乙女』はそんなカンタータ作品でも世界的に有名な曲となっています。
1894年
『牧神の午後への前奏曲』を作曲する

フランス音楽界に革命をもたらしたと言われている名曲で、元々はマラルメ氏の詩『牧神の午後への前奏曲』を題材として作曲されています。
1899年
『3つの夜想曲』を完成させる

ドビュッシーの代表曲の1つです。管弦楽のための楽曲で、第一曲は『雲』、第二曲は『祭』、そして第三曲は女声合唱つきの『シレーヌ』です。
1905年
代表曲『海』を完成させる

ドビュッシーの管弦楽曲の中でも屈指の傑作と言われているのが、『海』です。ドビュッシーは幼少期から海に対して強いイマジネーションを感じていたことがわかっており、それがそのまま曲に乗り移ったような素晴らしい代表曲です。

1918年
直腸ガンが原因で亡くなる

直腸ガンが原因で亡くなっています。当時の妻・エンマによる献身的な支えや、2度にわたる手術、そして放射線治療も行われたものの、病状が回復することはありませんでした。
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