クロード・ドビュッシーとはどんな人?生涯・年表まとめ【代表曲や功績、性格なども紹介】

クロード・ドビュッシーの生涯年表

1862年 – 0歳「パリ近郊で生まれる」

本名「クロード・アシル・ドビュッシー」が誕生

 パリに観光施設として残されたドビュッシーの生家

1862年の8月22日、パリ近郊の町サン・ジェルマン・アン・レイ38番地でドビュッシーは産まれました。ドビュッシーの家は決して裕福ではなく、小さな陶芸店を営んでいたそうです。ただ、その商売もうまくいかず、幼いうちに都市であるパリへと引っ越しています。

兄妹はドビュッシーを含めて5人。妹が1人と、弟が3人で、ドビュッシーは長男になります。しかし、残念ながら若くして一番下の弟は亡くなっています。

生まれた時から「額が少し突き出ている」という異風な風貌をしており、それが成長するに従って目立ってきたことから、前髪を降ろして隠そうとしていたそう。性格もその特異な見た目が影響してか、非常に引っ込み事案だったと言われいます。

ドビュッシーを音楽の世界へと導いた人物とは?

ピアノ教室が彼と音楽との出会いだった

1870年にフランスとプロイセンの間に戦争が勃発すると、フランスは降伏し休戦協定を結びます。しかしフランス国民は諦めることなく、ドビュッシーの父などを含め抵抗軍を作りました。しかし、父マニュエルは捕まってしまい、1年間の牢獄暮らしとなっています。

この結果働き手を失ったドビュッシー一家は親戚に助けられ、叔母のクレマンティーヌが住むカンヌで一緒に過ごしました。このクレマンティーヌ叔母さんがドビュッシーをピアノ教室に連れていき、音楽への道を拓いたと言われています。

1872年 – 10歳「パリ音楽院に入学」

才能がありながら、扱いづらい生徒に…

人間関係でうまくいかないことも

ドビュッシーは最年少の10歳で国家奨学生という特待生に選ばれるほど、才能を買われて名門「パリ音楽院」に入学しました。在学中にはいくつもの賞を受賞し、その才能はメキメキと頭角を表していったとされています。

しかし、ドビュッシーを教えた教授は口を揃えて、「ドビュッシーは内気で無愛想だった。そのくせピアノを前にすると物凄い勢いで鍵盤を叩き、乱暴とすら思える熱っぽい弾き方をするのが印象的」と語っています。音楽に対する情熱だけでなんとか学んでいたような生徒だったと推測できますね。

反抗的な態度を取りつつ、圧倒的な速度で吸収する学生生活

ドビュッシーは11歳から13歳ごろまで毎年のようにピアノコンクールで優秀賞を受賞し、自らの才能を見せつけるように成長していきました。しかし、15歳になると反抗期を迎え、それが影響してか途端に賞を受賞できなくなってしまいます。

それでもドビュッシーは伴奏のクラスに入り、先生と激論を戦わせながらもメキメキと成長。その甲斐あってか修了コンクールでは見事一等賞をとり、有名作曲家ギロー氏が教授を務める上級クラスへと進んでいます。

1884年 – 22歳「ローマ大賞を受賞」

フランス芸術院主催「ローマ大賞」の音楽部門で大賞受賞

執念で受賞を勝ち取ったドビュッシー

伝統ある機関『フランス芸術院』が主催する超大型の芸術コンクール「ローマ賞コンクール」にドビュッシーは3度も挑戦しています。挑戦の理由は「ローマ丘にある別荘を借りられる」「学費・滞在費の全額が免除」という豪華な特典があったからです。

1883年に惜しくも次席の第二大賞を受賞し、その後3度目の挑戦でエドゥアール・ギナンの「蕩児」を題材に独自のカンタータを作曲(カンタータの解説は後ほど)。これを受賞される傾向に寄せて努力した結果、見事に大賞を受賞し22歳の若さでローマへと旅立っています。

当時のドビュッシーに影響を与えた「バニエ夫人」の存在 ドビュッシーが20歳の頃、様々な縁があって声楽塾でアマチュア歌手として活躍していた「マリー・ブランシュ・バニエ夫人」と知り合います。彼女は若いドビュッシーの庇護者となり、アパートの一室を作業場に貸し出していたそうです。

そんな優しくて大人な女性バニエ夫人にドビュッシーは惚れてしまい、20曲以上を彼女に提供しています。バニエ夫人を想っての作曲はドビュッシーにインスピレーションを与えたそうで、若かりし頃の作曲意欲は恋愛が無ければ成り立たなかったとすらいえるかもしれません。

1888年 – 26歳「カンタータ『選ばれた乙女』を提出する」

カンタータ『選ばれた乙女』とは?

選ばれた乙女を作曲する

そもそもカンタータとは、「声楽のための楽曲」であり、オペラよりも合唱・合奏要素の強いジャンルです。当時パリで作曲活動にいそしんでいたドビュッシーによって作られたのが「選ばれた乙女」で、国民音楽協会での演奏会で初演されています。

当時のドビュッシーはパリのカフェに足しげく通っていたことが明らかになっており、富裕層や芸術家のたまり場であるカフェでイマジネーションを膨らませていたそう。当時はまだ貧しかったものの、こうした環境で一流階級と交流出来たからこそ、ドビュッシーの音楽は成長していったと考えられます。

不朽の名作『月の光』などを作曲する

この頃のドビュッシーは沢山の楽曲を作っており、「ボードレールの5つの詩」、ピアノ曲「小組曲」「2つのアラベスク」などを次々に書いていました。その中でも最高傑作とされているのが『月の光』という楽曲です。

これはピアノ曲『ベルガマスク組曲』という作品に含まれている楽曲で、優しく切ない楽曲として非常に有名です。日本でも1970年代に「みんなの歌」でテレビ披露され、注目を集めました。

1894年 – 22歳「『牧神の午後への前奏曲』を完成させる」

『牧神の午後への前奏曲』が大成功をおさめる

演奏会で大成功を収める

ドビュッシーの音楽観に新境地を切り拓いた『牧神の午後への前奏曲』の初演が披露され、これが観客から大絶賛を受けます。ワーグナーなど従来の音楽的技法をより柔軟に、かつ大胆にアレンジした斬新なメロディーは衝撃的で、演奏会では掟破りのアンコールが起こったほどでした。

ただ、あまりに前衛的な音楽は批評家にとって猜疑的な作品で、ある批評家は「ドビュッシーは音楽のリズムとメロディーを壊している」と批判しています。それでも現代音楽のベースにはドビュッシーの技法が多く使われていることから、結果的にドビュッシーが本曲で革命を起こしたことがわかりますね。

最初の妻・ロジェと婚約するも…

大成功を収めたこの頃、多くの芸術家が集うサロンにドビュッシーは参加するようになり、そこで出会った女性歌手テレーズ・ロジェと親しい関係に。そのままドビュッシーはロジェにプロポーズし、婚約関係となりました。

ただ、実はこの頃ドビュッシーには恋人のギャビーという女性がおり、それが早々に発覚したことで2人はあっさり破談。その後ギャビーとの仲も、ドビュッシーの浮気が原因で解消しています。

1905年 – 43歳「代表曲『海』を完成させる」

海への愛着から代表曲『海』を完成させる

愛着のある「海」をテーマに作曲

ドビュッシーは幼少期に叔母の家に滞在していたころから、海に対して強い愛着を持ち続けていたと言います。実際ドビュッシー自身が、「嵐の海に囲まれていると、自分が生きてるってことを実感するよ」と話していたこともあり、思いの強さがわかります。

そんな『海』はドビュッシーの曲の中でも屈指の傑作と言われ、管弦楽曲の中ではトップクラスだとされています。まるで海面が強く、ときに弱く動くような抑揚…。そして刻々と変わる波のような音の動きが楽しめる曲であり、素人でも思わず感銘を受けるほどの素晴らしい名曲となっています。

元々W不倫がキッカケで駆け落ちした「エンマ」と結婚

ドビュッシーはリリーという女性と結婚していながら、銀行家の夫人であったエンマと駆け落ちをしています。それがキッカケでリリーは自殺未遂をしてしまい、非難されながらもドビュッシーはリリーと別れていました。

その後月日が経ち、1905年の10月にエンマとの間に女の子の赤ちゃんが産まれます。これを機会にドビュッシーとエンマは正式に結婚。その喜びからか、この数年後に『映像』などの代表曲を生み出しています。

1918年 – 55歳「直腸ガンが原因で亡くなる」

ドビュッシーの晩年とは…

1910年頃から体調を崩し始めたドビュッシーは、成功者とはいえ家計が苦しかったため、ヨーロッパ各国を周り演奏をしてお金を稼いでいました。

この頃既に悪性腫瘍の初期症状が現れていたと言われていますが、それでも名声が頂点に達していたドビュッシーは制作活動・演奏旅行に精を出し、1913年には『前奏曲集第二巻』を完成させています。ドビュッシーは晩年もひたすら音楽と共に生きたのです。

必至の治療も虚しく、55歳で永眠

55歳の若さで病に倒れる

妻のエンマに支えられながら、ドビュッシーは2度の手術と放射線治療を受け、治療を本格化させていました。当時第一次世界大戦が勃発していたこともあり、ドビュッシーは苦しみながらもピアノ曲などを多数作曲し、戦死した若い兵士に捧げたとされています。

ただ必至の治療も虚しく、直腸ガンが原因でドビュッシーの体調は悪化。もはやベッドから起き上がることすら出来なくなり、そのまま55歳で亡くなっています。

クロード・ドビュッシーの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

ドビュッシー-作曲家・人と作品シリーズ-

ドビュッシー研究家がまとめた伝記や資料を元に、ドビュッシーの生涯をまとめています。付録も作品一覧や年表など豪華で、ドビュッシー初学者には最適の一冊となっています。

伝記-世界の作曲家-ドビュッシー―印象主義音楽をつくりあげたフランスの作曲家-

近代の作曲家をわかりやすく伝記にしてくれているシリーズで、中学生以上であれば確実に理解できるよう、平易な言葉でドビュッシーについて解説してくれています。有名楽曲の誕生秘話などもあるため、読んでいてワクワクする一冊です。

さよならドビュッシー

ドビュッシーとは直接関係ありませんが、日本ではかなり有名なミステリー小説。ドビュッシー好きでピアニストを目指す主人公が織りなすミステリー&スポコン的な物語は読む手が止まらないほど面白いので、堅苦しい伝記などが好きではない人はぜひ!

おすすめの動画

ドビュッシー ピアノ名曲集

タイトル通りドビュッシーのピアノ名曲を集めた音楽集で、『月の光』『夜想曲』『映像』などの最高傑作を全て聴くことができます。全部で2時間半以上の長い動画ですが、概要欄から曲ごとに選ぶこともできるので、ぜひ聴きたい曲を選んで楽しんでみてください。

交響曲《海》

ベルリンフィルハーモニー管弦楽団による、ドビュッシーの名曲『海』の演奏動画です。24分にわたる交響曲は、たとえ音楽初心者であっても聞き入ってしまう不思議な魅力があります。

おすすめの映画

ドビュッシー歌劇『ペレアスとメリザンド』

本記事では紹介しませんでしたが、ドビュッシーは「オペラ楽曲」にも大きく力を入れていました。様々な人間関係や恋愛感情がドロドロと複雑に絡み合うストーリーであり、ドビュッシーはこの登場人物たちに惹かれ、歌劇の楽曲提供をしたと言われています。

さよならドビュッシー

正直ドビュッシーとはタイトルにしか関わりのない邦画ですが、劇中で演奏されている他、シンプルにストーリー展開がハラハラドキドキの連続で面白いため、紹介させて頂きました。「このミステリーがすごい大賞」に輝いたミステリー小説で、DVD化もされています。

関連外部リンク

クロード・ドビュッシーについてのまとめ

クロード・ドビュッシーは、「現代音楽」を作った第一人者であり、従来の伝統的な音楽に一石を投じた革命的な存在だということが分かりました。実際に生涯を追ってみると、生まれつき天才肌だったのだと感じつつ、様々な人に支えられて音楽観を伸ばしていったことが理解できます。

『月の光』などはドビュッシー初心者であっても必ず一度は聴いたことのある名曲ですので、こういった馴染みのある楽曲からドビュッシーの魅力を知り、同時に他の作曲家も調べながら、「この人物はどんな特徴があるのかな?」と探ってみると、知識が深まると思います。

また、今回は専門的な用語をほとんど使わずに解説しました。ドビュッシーは音楽に知見のある方からすると、「ここがもっと面白いのに!」という箇所がまだまだ沢山あります。それをぜひ今回紹介した動画や書籍などから学んでみてくださいね!

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