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フランダースの犬で有名な画家「ルーベンス」の代表作品や特徴、生涯まとめ

皆さんはルーベンスという画家をご存知でしょうか?彼は本名をピーテル・パウル・ルーベンスといい、今から300年以上も昔の時代に1500点以上もの多くの美術作品を生みだした人物です。ルーベンスはヨーロッパ各国の身分の高い人々のための絵も沢山描いているため、「王の画家にして画家の王」とも呼ばれました。

ルーベンスの肖像

また、「フランダースの犬」というイギリスの児童文学小説・および同名小説の日本のアニメ作品にルーベンスの作品が登場しました。劇中ではルーベンスの絵を前にした少年が「ああ、マリア様。僕はもう思い残すことはありません」という言葉を思わず漏らしてしまうシーンがあります。一見しただけで「もう死んでもいい」とまで思わせるほどの絵画のパワー、そしてルーベンスの作品の魅力とは一体どのようなものなのでしょうか?

普段はバロック時代を中心に音楽史解説を担当する筆者ですが、国立西洋美術館のルーベンス展に足を運んだ際の感動を思い出しながら、今回は皆さんにその魅力をお伝えしたいと思います。

ルーベンスとはどんな人?

名前ピーテル・パウル・ルーベンス
誕生日1577年6月28日
没日1640年5月30日
生地ヴェストファーレン、ジーゲン
(現在のドイツ)
没地スペイン領ネーデルラント
アントウェルペン
(現在のベルギー)
配偶者イザベラ・ブラント(1609-1626)
エレーヌ・フールマン(1630-1640)
埋葬場所聖ヤコブ教会

ルーベンスの幼少期は?

ルーベンスは職業画家として成功し、また人文主義学者・外交官としても活躍して華々しい人生を送りました。しかし、意外にも幼少期には苦労が多かったようです。

彼の父・ヤン・ルーベンスはプロテスタントの法律家で、妻・マリアと共にプロテスタント迫害のためにスペインからドイツに逃れたのちにピーテル・パウル・ルーベンスが誕生しました。しかし1587年に父が亡くなったのち、父の故郷・アントウェルペンでルーベンスは敬虔なカトリック教徒として育ちます。ルーベンスの作風にはカトリックであることの宗教的影響が強いといわれています。

ルーベンスの故郷アントウェルペン

1590年・ルーベンス13歳の頃、### フィリップ・フォン・ラレング伯未亡人のマルグレーテ・ド・リーニュの下へ小姓として預けられます。このことがきっかけでルーベンスに絵画の才能があることが発覚し、本格的な教育を受けることになりました。しかし、そもそもルーベンスが小姓に出された理由は、父の死後に母・マリアが
生活に困窮していたためでした。

その後はイタリアへ留学し、画家として順調に大成していったルーベンスですが、老いた母親に対して経済的な支援を惜しまなかったといわれています。

ルーベンスが活躍した時代の特徴は?

美術史的にいうと、ルーベンスはバロック時代という時代の画家です。まずはバロック美術の特徴について、簡単にご説明したいと思います。

バロック時代にあたる16世紀から17世紀のヨーロッパは、ルネサンス運動と宗教改革が盛んであり、またコペルニクスによって地動説が唱えられるなど、これまで教会(カトリック教会)の支配が強かった西洋社会が人文主義に目覚めようとしているエネルギッシュな時代でした。

ルーベンス「ペルセウスとアンドロメダ」

時代の躍動感は美術や建築にも表れており、バロック美術はルネサンス美術の均衡の取れた静謐な美しさから発展してドラマティックな人物のポージングや、筋骨隆々の男性の肉体美、また女性は豊かな肉付きで描かれるなど、劇画的な肉体表現も大きな特徴です。また17世紀にフランスのルイ13世が絶対王政を確立し、教会の権威より世俗の権力者である宮廷の力が強くなると、美術品なども王侯貴族が好む華やかな作品が求められるようになりました。

ルーベンスの作品もまさにバロックらしいドラマチックさと華やかに満ちています。ルーベンスの作品や作風については、後ほどまた詳しくご説明したいと思います。

「見る聖書」だった?「フランダースの犬」でみる宗教画のパワー

宗教画は見る聖書として人々に語りかけた

ルーベンスはギリシア神話や聖書に関する絵を沢山残しました。ルーベンスの作品に限らず西洋の絵画にはそのような宗教画が沢山ありますが、それはどうしてなのでしょうか?

その目的の一つには、庶民などの幅広い層に聖書の教えを広めるために作成されたという目的があります。昔の識字率はとても低く、文字を読むことができるのはほんの一握りの知識階級のみでした。ですので、文字が読めない庶民にも聖書の内容や教えを伝えるために教会が画家に依頼して宗教画を描かせたのです。

ルーベンス「聖母被昇天」

庶民にとっても教会の中で美しい絵を見ることは、聖書の世界さながらの「神の世界」を見ることと同じでした。「フランダースの犬」のラストシーンで、画家を目指す少年・ネロがルーベンスの絵を見て「僕はもう死んでもいい」とまで思ったのは、不遇の少年がその絵によって神のいる世界を見たからなのかも知れません。

また、ルーベンスの時代ともなると宗教画は単なる布教道具に止まらず、画家の魂の込もった芸術作品となっていました。画家を目指していた少年にとって、「画家の王」といわれたルーベンスの最高傑作である「十字架降架」や「聖母被昇天」の迫力や美しさはまさに天にも昇るほどの衝撃だったのではないのでしょうか。

ルーベンスの名言は?

手を伸ばしその窪んだ肉体を撫でるため、私は大きな丸みを帯びた女性の尻を描く。

若い乙女を描くのは、思うままにはしゃぎまわるのと似ている。最高のリフレッシュメントだ。

私は地味で孤独な男さ。古いブラシをもって神にインスピレーションを求めるだけのね。

すべての子どもは創造の心を持っているものだ。人生のごみがしばしば伝染することでその心を滅ぼし、魂をみじめなものにしてしまう。

白色は絵には毒である。ハイライトにのみ使いなさい。

私の情熱は天からのもので、地上の沈痛からではない。

ルーベンスの代表作品

パリスの審判

引用元:Wikipedia

ギリシア神話の一場面である「パリスの審判」のシーンを描いた絵画です。粗末な衣服をまとった羊飼い・パリスのもとに美しい三姉妹の女神が降臨し、「この中で誰が一番美しいか」と彼に判別させるシーンです。女神たちは自らの美貌を誇示するだけではなく、様々な賄賂を持ちかけてパリスにアピールします。

結局「この世で美しい女を妻に与える」という約束をした女神・アフロディーテをパリスは選び、スパルタ王の妃を奪い取ります。そして「トロイア戦争」を引き起こしてしまうのです。戦のきっかけとなるこの劇的なシーンは様々な画家によって描かれた人気の題材でもあり、ルーベンスも3度にわたって「パリスの審判」を描いています。

サムソンとデリラ

旧約聖書の「サムソンとデリラ」の有名なエピソードを絵画にしたものです。怪力男のサムソンが娼婦・デリラに「髪を切ると力が弱くなってしまう」という自身の秘密を明かしてしまい、他部族のペリシテ人に髪を切られてしまうというシーンを描いています。

ドラマチックな構成や陰影は、当時のイタリアで活躍していたカラヴァッジョの影響を受けています。ルーベンスは画家として独立した後はイタリアに留学し、古代の美術やルネサンス芸術、また同時代の画家について熱心に研究していました。

十字架昇架(キリスト昇架)

新約聖書のクライマックスである「イエスの磔刑」を描いた絵は沢山ありますが、この絵は「今まさに十字架に括り付けられようとしている」イエスを描いた躍動感のある絵です。いわゆる「観音開き」になっている3翼の祭壇画であり、普段は中央部分のパネルのみが表示、日曜の礼拝では左右のパネルが開かれます。

キリストの姿は古代彫刻の「ラオコーン像」に影響をうけ、またキリストに死刑を執行しようとする筋骨隆々の男たちの描写はミケランジェロの影響を受けているといわれています。

十字架降架(キリスト降架)

こちらは磔刑で命を落としたイエス・キリストを8人の男女が降ろす図となっており、十字架昇架(キリスト昇架)と構造が対になっています。観音開きになっている点も同じで、中央パネルには脇腹から血を流す痛々しいキリストの姿が描かれています。

先述した「フランダースの犬」において、主人公のネロはこの「十字架昇架」と「十字架降架」を鑑賞したいと切望していました。

聖母被昇天

引用元:Wikipedia

聖母マリアが現世での生を終える際に天国へ昇天した、というカトリック教会の教義を絵に表したもので、バロック時代に多く描かれた題材の絵です。ルーベンスもこの題材で3点の作品を手がけています。

ベルギーのアントワープにある聖母大聖堂に、「十字架昇架」「十字架降架」と共に収蔵されており、アニメ版の「フランダースの犬」では、聖母被昇天の絵に吸い込まれるような主人公のクライマックスシーンで有名になりました。

ルーベンスの絵の特徴

特徴1. イタリア美術の影響を受けている

ルーベンスに影響を与えたイタリアルネサンス期の巨匠ティツィアーノ

ルーベンスは1600年から1608年までの8年間、古代美術から同時代の画家の作品を学ぶためにイタリアを訪れていました。このことはその後のルーベンスの作品に多大な影響を与えています。また、ルーベンスは当時「ピエトロ・パウロ・ルーベンス」とイタリア名で自身の名を署名するなど、イタリアで過ごすことを強く望んでいたようです。しかし1608年に母の体調悪化と政治情勢によって帰国、その後イタリアの地を訪れることはありませんでした。

1600年、古代と近代の巨匠の作品を現地で学ぶことを目的として、ルーベンスは推薦状を携えてイタリアへと向かった。最初に訪れたのはヴェネツィアで、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットらの絵画を目にしている。その後マントヴァへ向かい、マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガの宮廷に迎えられた。ヴェロネーゼとティントレットの色彩感覚と作品構成は、当時のルーベンスの作品に即座に影響を与え、後年になって円熟期を迎えたルーベンスの作品にはティツィアーノからの大きな影響が見られる。

Wikipedia

ルーベンスの父親はプロテスタントの法学者でしたが、父の死後にカトリック国であるスペインやイタリアで過ごしたため、ルーベンスが描く宗教画はカトリックの教義に基づいているのも特徴です。

特徴2. ふくよかな女性の描き方

ルーベンス「四大陸」

ルーベンスの作品に登場する女性といえば、少女から成人女性まで皆ぶよぶよとした「メタボ体型」であることが特徴的です。

ルーベンスは肉感的でふくよかな女性を作品に描くことを好んだ。後世になってルーベンスが描いたような肢体の女性を「ルーベンス風」あるいは「ルーベンスの絵のようにふくよかな (Rubenesque)」と呼ぶことがあり、現代オランダ語ではこのような女性を意味する「Rubensiaans」という言葉が日常的に使用されている。 Wikipedia より

Wikipedia

当時は大きくて丸いお腹が女性の美と豊穣の証とされていたため(お腹を大きく膨らませるドレスが一時流行したほど)西洋の絵画には肉感的な女性はよく描かれています。それにしてもルーベンスが描く女性は「肉感的」を超えた質感であり、いささか極端な例であったようです。

ルーベンスの一体何がすごいのか?

すごさ1「1500点以上?圧倒的な作品数がすごい!」

工房で効率的に絵画を仕上げていた

ルーベンスは大人気の画家でしたので、常に絵の注文が殺到していました。流石に一人で全て制作するには無理があるため、大きな工房を作って数人で制作していたといわれています。

「黄金の工房」と呼ばれたその工房にはヴァン・ダイクやヨルダーンスなど後に高名な画家になる人物も勤めており、数人の若い画家がデッサンしたものをルーベンスが仕上げたり、背景や静物、人物など得意分野を分担して描いたりなどしていました。絵画の値段は、ルーベンス本人が手がけた部分が多いほど高くなったようです。

今でいうと有名漫画家とそのアシスタントのような関係だったようですね。このような制作環境を整備し、ルーベンスは同時代では比類なく多作の画家となりました。

すごさ2.「外交官兼画家?ルーベンスの経歴がすごい!」

ルーベンスの妻イザベラ・ブラント

ルーベンスは生涯スペイン大公妃・イサベルとの親交がありました。次第にスペイン宮廷の宮廷画家として活躍するだけではなく、7ヶ国語を駆使して外交官としての役割も果たすようになったのです。また、宮廷のコネクションによって、ルーベンスはアウトウェルペンの有力者であったヤン・ブラントの娘・イザベル・ブラントと結婚しました。

ルーベンスは「王の画家にして、画家の王」と呼ばれる通り、「美術史上もっとも成功した画家」として有名です。人好きする性格が宮廷や貴族たちにも愛され、画家として、外交官として成功した彼は経済的にも大変裕福だったようです。またルーベンスが残した家族の肖像画の優しい美しさが表すように、家庭も円満であったようです。

ルーベンスにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「宮廷には逆らえなかった?マリー・ド・メディシスの生涯」

ルーベンス「マリー・ド・メディシスの生涯」

フランス王アンリ4世の王妃・マリー・ド・メディシスが自分の生涯を残したいと考え、ルーベンスに21作の連作絵画の制作を依頼しました。この依頼は、ルーベンスにとってはとても辛い仕事だったようです。

その理由の一つとして、このマリー・ド・メディシスという王妃は政略結婚と王の出産(ルイ13世)以外、人生において大きな功績がありませんでした。しかも彼女はいくつか政治的な不祥事を起こしており、それをそのまま絵にする訳にもいきません。結局ルーベンスは、自身が持つ神話の知識などの古典的な教養をフル活用する作戦に出ました。王妃の日常をそれらになぞらえるような形で美化し、繊細で優雅な美術作品に仕上げたのです。また、制作にあたってはルーベンス本人が人物を描くことを条件にされ、工房の弟子たちには背景などの細かい点しか任せることができなかったともいわれています。

王妃マリー本人はその後、絶対王政を確立した息子・ルイ13世によって国外に追放され、かつてルーベンスが暮らしていた邸宅で生涯を閉じました。

都市伝説・武勇伝2「多作であるが故?ボードレールによる痛烈なルーベンス批判?」

ルーベンスの死後から200年後、フランスの詩人であり批評家・ボードレールはルーベンスの作品を痛烈に批判します。その批判ぶりと言えば、「通俗の泉」(陳腐の泉とも)「帽子を被った下賤な男」など、とんでもない毒舌として有名です。

ボードレールはルーベンスを痛烈に批判した

もちろんルーベンスは当時きってのエリートであり、深い教養によるインスピレーションで制作し、その作品に込められたメッセージなども同じくらいのエリートにしか通じないような知的なものでした。「通俗の泉」と称されるのは心外かもしれません。

19世紀となると、市民革命や産業革命によって庶民が豊かになり、今まで美術鑑賞などとは縁がなかった市民階級が美術や音楽に触れ親しむことができる時代となっていました。むしろボードレールの批判は、知識もなしに「ルーベンスだから」と手放しで賞賛する当時の鑑賞者に向けられた冷たい目線だったのかもしれませんね。

ルーベンスの生涯歴史年表

1577年 – 0歳「ルーベンス誕生」

ドイツのジーゲンで生まれる

ピーテル・パウル・ルーベンスは1577年6月28日にドイツで生まれました。父親のヤン・ルーベンスはプロテスタントの法学者であり、スペイン領ネーデルラントのプロテスタント迫害のために夫婦でケルンに逃れ、ルーベンスが誕生しました。

1590年 – 13歳「貴族の小姓となり、教養を育む」

画家としての修行期間は8年、そのほかにも様々な教養・知識を得る

絵の修行を開始する

生活に困窮した母・マリアによってルーベンスは、フィリップ・フォン・ラレング伯未亡人のマルグレーテ・ド・リーニュの下へ小姓に出されることになります。このことによって絵画の才能が発覚し、アントウェルペンの画家組合、聖ルカ・ギルドへの入会を認められ、8年間画家として修行することになります。この頃は先人たちの作品研究および模写などを残していたようです。

1600年 – 23歳「画家として独立・そしてイタリア留学へ」

古代美術やルネサンス美術を学ぶ

ミケランジェロ「最後の審判」

ルーベンスが画家として独立してすぐ、マントヴァ公の援助を受けてイタリアへと留学します。目的は古代の彫刻などの美術、またダヴィンチやミケランジェロなどルネサンス時代の巨匠の作品を研究するためでした。

実際ルーベンスの作品にはイタリア美術の歴史的研究の影響及びカラバッジョなど当時イタリアで有名だった画家などの影響が見られます。

1610年 – 33歳「理想のマイホーム?自身のデザインした自宅に住む」

現在はミュージアムとして残るルーベンスの家

1608年にアントウェルペンに帰国したルーベンスは、外交官としての仕事もこなすようになりました。仕事ぶりや人柄を評価されて権力者の娘・イザベルと結婚すると、1610年に自身がデザインしたイタリア風の邸宅を建てます。
その自宅はアトリエを兼ねているだけではなく、多くの美術品や書物が所有されている豪邸でした。今でもこのルーベンスの家は博物館として訪れることができます。

ルーベンスの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

怖い絵 中野京子

西洋文化やオペラ研究などにも詳しい筆者による、一世を風靡した「怖い絵シリーズ」です。ルーベンス作品も取り上げられており、絵画に対する興味が湧いてきます。

アートのロジックを読み解く 西洋美術の楽しみ方

宗教画などは、どの人物がどこに描かれているかわからないことがありませんか?実は当時の人々は持ち物や様々なサインによってそれらを判別していました。このような基本的な西洋絵画の見方を文章ではなく図解で見ることができます。美術館に行く前の予習などにもおすすめの一冊です。

関連外部リンク

ルーベンスについてのまとめ

いかがでしたでしょうか?筆者は当初書籍からルーベンスの名前を知り、どちらかというとボードレールの批判を先に知りました。ルーベンスの世俗的な成功が真の芸術の深遠から遠く感じさせる、という意見も何となく納得できましたが、実際ルーベンスの作品を目にすると衝撃を受けてしまい、そのような批判も忘れてしまうほど感動してしまいました。

皆さんはルーベンスの作品は好きですか?もしご興味が湧きましたら実際に鑑賞し、またルーベンス自身がそうしたように様々な書籍に目を通し、知見を広めて奥深く味わって欲しいと思います。