ルーベンスの絵の特徴
特徴1. イタリア美術の影響を受けている
ルーベンスは1600年から1608年までの8年間、古代美術から同時代の画家の作品を学ぶためにイタリアを訪れていました。このことはその後のルーベンスの作品に多大な影響を与えています。また、ルーベンスは当時「ピエトロ・パウロ・ルーベンス」とイタリア名で自身の名を署名するなど、イタリアで過ごすことを強く望んでいたようです。しかし1608年に母の体調悪化と政治情勢によって帰国、その後イタリアの地を訪れることはありませんでした。
1600年、古代と近代の巨匠の作品を現地で学ぶことを目的として、ルーベンスは推薦状を携えてイタリアへと向かった。最初に訪れたのはヴェネツィアで、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットらの絵画を目にしている。その後マントヴァへ向かい、マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガの宮廷に迎えられた。ヴェロネーゼとティントレットの色彩感覚と作品構成は、当時のルーベンスの作品に即座に影響を与え、後年になって円熟期を迎えたルーベンスの作品にはティツィアーノからの大きな影響が見られる。
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ルーベンスの父親はプロテスタントの法学者でしたが、父の死後にカトリック国であるスペインやイタリアで過ごしたため、ルーベンスが描く宗教画はカトリックの教義に基づいているのも特徴です。
特徴2. ふくよかな女性の描き方
ルーベンスの作品に登場する女性といえば、少女から成人女性まで皆ぶよぶよとした「メタボ体型」であることが特徴的です。
ルーベンスは肉感的でふくよかな女性を作品に描くことを好んだ。後世になってルーベンスが描いたような肢体の女性を「ルーベンス風」あるいは「ルーベンスの絵のようにふくよかな (Rubenesque)」と呼ぶことがあり、現代オランダ語ではこのような女性を意味する「Rubensiaans」という言葉が日常的に使用されている。 Wikipedia より
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当時は大きくて丸いお腹が女性の美と豊穣の証とされていたため(お腹を大きく膨らませるドレスが一時流行したほど)西洋の絵画には肉感的な女性はよく描かれています。それにしてもルーベンスが描く女性は「肉感的」を超えた質感であり、いささか極端な例であったようです。
ルーベンスの功績
功績1「多作な芸術家であり1500点以上の作品を残した」
大人気の芸術家であったルーベンスの下には、国内外から多くの依頼が殺到していました。驚くことに、その数は1500点以上と言われています。有名になるほど依頼も増えていったため、アントウェルペンに移住した後には、自前の工房で弟子や助手、画家の仲間たちと共同制作を行うこともありました。
彼の工房は「黄金の工房」と呼ばれており、アンソニー・ヴァン・ダイクやヤーコブ・ヨルダーンスなど、後に高名な画家となる人物を多く輩出しています。そのため、アントウェルペン派の画家の多くは、ルーベンスの影響を受けているのです。
また、「黄金の工房」では背景や静物、人物などをそれぞれの得意分野ごとに分担して制作していました。その中でも、ルーベンス本人が手がけた部分が多い作品は高い価値が付いたのです。
功績2「スペインの外交官としても活躍」
スペイン王女であるイサベルとの親交があり、彼女の宮廷画家として活躍していたルーベンスは、スペインの外交官として活動していたこともありました。7ヶ国語を操ることができたため、外交官としての役割を立派に果たしたのです。
特に、1627年から1630年にかけては、外交官としてネーデルラントとスペインを何度も往復し、両国の平和のために貢献しました。その結果、彼はスペイン王フェリペ4世とイングランド王チャールズ1世からナイトの爵位を授けられたのです。
「王の画家にして、画家の王」と呼ばれるルーベンスは、美術史上もっとも成功した画家とされています。その背景には、美術家としてだけでなく、外交官として築いた信頼や人脈があったのです。
功績3「オールド・マスターの1人として数えられている 」
ルーベンスは、オールド・マスターの1人として数えられています。オールド・マスターとは、18世紀以前にヨーロッパで活動し、十分な修練を積んで芸術家ギルドの親方を務めて独立した著名な画家たちを指す美術用語です。
その中には、ルーベンスに大きな影響を与えたルネサンス期の巨匠たちも含まれています。後世において、彼は若い頃に影響を受けたレオナルド・ダヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロなどの名だたる芸術家たちと肩を並べる存在となったのです。
他にも、オールド・マスターにはベラスケスやレンブラント、フェルメール、ゴヤなどの有名な芸術家が含まれています。また、この用語は人物だけでなく、作品を指す場合もあります。
ルーベンスの名言
若い乙女を描くのは、思うままにはしゃぎまわるのと似ている。最高のリフレッシュメントだ。
この言葉の背景には、若い女性の絵画を描くことが増えた時期である、ルーベンスの晩年における生活風景があります。1630年、最初の妻であるイザベラが死去した後、当時53歳だったルーベンスは16歳のエレーヌ・フールマンと再婚しました。
そして、彼は若き妻をモデルとした絵画を多く描いています。そのため、彼の晩年の作品には、神話や古代の彫像をモチーフとした肉感的な女性像を描いた作品が多く見られるのです。
彼にとって、若い女性の肉感的な絵画を描くことが最高の楽しみであったのかもしれません。彼は少年のような気持ちを晩年まで抱き続けていたのです。
白色は絵には毒である。ハイライトにのみ使いなさい。
この言葉は、ルーベンスの作品にみられる特徴をわかりやすく説明しています。
彼の作品は、非常に力強い絵画表現で描かれており、隅々まで緻密に描き込まれているのが魅力です。そして、彼は言葉の通り、光の表現以外に白色を使っていません。
雲や衣服などの着色にも自然な色や影を馴染ませており、重厚な芸術品となっているのです。このような徹底的なこだわりは、彼が高く評価された理由の1つかもしれません。
また、ルーベンスの他の名言もいくつか紹介しておきます。
手を伸ばしその窪んだ肉体を撫でるため、私は大きな丸みを帯びた女性の尻を描く。
私は地味で孤独な男さ。古いブラシをもって神にインスピレーションを求めるだけのね。
すべての子どもは創造の心を持っているものだ。人生のごみがしばしば伝染することでその心を滅ぼし、魂をみじめなものにしてしまう。
私の情熱は天からのもので、地上の沈痛からではない。
ルーベンスにまつわる逸話
逸話1「宮廷には逆らえなかった?マリー・ド・メディシスの生涯」
フランス王アンリ4世の王妃・マリー・ド・メディシスが自分の生涯を残したいと考え、ルーベンスに21作の連作絵画の制作を依頼しました。この依頼は、ルーベンスにとってはとても辛い仕事だったようです。
その理由の一つとして、このマリー・ド・メディシスという王妃は政略結婚と王の出産(ルイ13世)以外、人生において大きな功績がありませんでした。しかも彼女はいくつか政治的な不祥事を起こしており、それをそのまま絵にする訳にもいきません。
結局ルーベンスは、自身が持つ神話の知識などの古典的な教養をフル活用する作戦に出ました。王妃の日常をそれらになぞらえるような形で美化し、繊細で優雅な美術作品に仕上げたのです。
また、制作にあたってはルーベンス本人が人物を描くことを条件にされ、工房の弟子たちには背景などの細かい点しか任せることができなかったともいわれています。
王妃マリー本人はその後、絶対王政を確立した息子・ルイ13世によって国外に追放され、かつてルーベンスが暮らしていた邸宅で生涯を閉じました。
逸話2「多作であるが故?ボードレールによる痛烈なルーベンス批判?」
ルーベンスの死後から200年後、フランスの詩人であり批評家・ボードレールはルーベンスの作品を痛烈に批判します。その批判ぶりと言えば、「通俗の泉」(陳腐の泉とも)「帽子を被った下賤な男」など、とんでもない毒舌として有名です。
もちろんルーベンスは当時きってのエリートであり、深い教養によるインスピレーションで制作し、その作品に込められたメッセージなども同じくらいのエリートにしか通じないような知的なものでした。「通俗の泉」と称されるのは心外かもしれません。
19世紀となると、市民革命や産業革命によって庶民が豊かになり、今まで美術鑑賞などとは縁がなかった市民階級が美術や音楽に触れ親しむことができる時代となっていました。むしろボードレールの批判は、知識もなしに「ルーベンスだから」と手放しで賞賛する当時の鑑賞者に向けられた冷たい目線だったのかもしれませんね。