アントニオ・ヴィヴァルディは17世紀・18世紀あたりの音楽の時代である「バロック時代」に活躍した作曲家の1人です。作曲家としての作品数は様々な楽器によって奏でられる協奏曲は500曲以上・芝居をしながら歌を歌うオペラは現在確認できるものだけで52曲・曲をいくつかの楽章に分けるソナタは73曲と多数の作曲を行っていたとされます。
また完成しないままの曲や紛失してしまった楽譜・さらには作曲家たちと共同で作ったとされる曲などを含めるとヴィヴァルディは生涯で800曲以上の作曲をしたとされています。

多数の曲を作る中でヴィヴァルディの名前はイタリアのみならずヨーロッパ全体に広まっていったようで作曲を依頼されたり、作曲したオペラが上演されたりと人気の作曲家になりました。さらにはローマ教皇の前でも曲を披露したとされ、その才能は他の音楽家たちも羨むほどでした。
しかし全てが順風満帆だった訳ではなく晩年は支援してくれていた人が亡くなり、公演を開催出来なくなるなど金銭的にも厳しく、さらには戦争が始まり世間の音楽への関心が薄れたこともあり思うような活動は出来ませんでした。
それでも後世には多大な影響を与えており1955年に出された「四季」のレコードは現在までに2500万枚を超える売上になっています。
今回は現代でも有名な曲「四季」をはじめ多くの曲を残したアントニオ・ヴィヴァルディの才能に魅せられもっとヴィヴァルディの魅力を知ってもらいたいと思っている筆者が分かりやすく曲や生涯を年表にまとめていきます。
アントニオ・ヴィヴァルディとはどんな人物か
名前 | アントニオ・ヴィヴァルディ |
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誕生日 | 1678年3月4日 |
没日 | 1741年7月28日(63才) |
生地 | ヴェネツィア共和国・ヴェネツィア |
没地 | 神聖ローマ帝国・ウィーン |
埋葬場所 | ウィーンの貧民墓地 (後に取り壊され現在はウィーン工科大学の構内) |
アントニオ・ヴィヴァルディが影響を与えた人

作曲家としてのヴィヴァルディの才能は誰もが羨むほどのものでその影響を受けた人物がヨハン・ゼバスティアン・バッハでした。バッハはヴィヴァルディが作曲をした楽譜を持っていたほか、ヴィヴァルディの曲を自ら編曲していたとされています。
ドイツで活動していたバッハにとってイタリアで活動していたヴィヴァルディの曲は新たな音楽を知るきっかけにもなったと考えられ、ヴィヴァルディの曲、10曲を自分で編曲をし発表していることからもバッハはヴィヴァルディから多大な影響を受けたことが分かりますね。
アントニオ・ヴィヴァルディの生まれ
理容師として働いていたジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィヴァルディがカミッラ・カリッキヨという女性と結婚をし、長男として誕生したのがアントニオ・ヴィヴァルディです。

出産当時、ヴィヴァルディはほとんど瀕死の状態であったとされ大変危険な状況でした。そのためキリスト教に入信するための儀式「洗礼」をすぐに行うことが出来なかったそうです。
幸い、2ヵ月後に洗礼を行うことはできましたが、先天的に患っていた喘息などもあり幼い頃から体は弱かったといいます。
アントニオ・ヴィヴァルディの死因は?
生涯のほとんどを作曲に費やし、多くの作曲依頼、オペラ公演などを作り上げていたヴィヴァルディですが実は晩年は悲しいものでした。
様々なオペラ公演を手がけていたものの人気は長くは続かず失敗、自分の大切な楽譜などを売りながらお金のやり繰りをしていたようですが徐々に体調を崩しがちになり1741年にウィーンの劇場宿舎で亡くなりました。
死因は内臓疾患と言われることもありますが実は詳しいことは未だ不明で謎の死を遂げているのです。しかも亡くなった次の日には貧しい人たちが入っていた墓地に埋葬されており決して有名作曲家とは思えない最期だったようです。
ヴィヴァルディの代表作・曲
四季
中学校で必ずと言っていいほど習うヴィヴァルディの「四季」は1725年に出された「和声と創意の試み」というヴァイオリンのために作られた協奏曲の一部分です。「和声と創意の試み」は12曲で構成されておりその中の第1番~第4番までのことを「四季」というのです。
それぞれ1番を「春」2番を「夏」3番を「秋」4番を「冬」としており各季節をイメージした曲となっているので季節によってガラリと雰囲気が変わるため聞いていてとても面白いですよ。
春
1番はじめに奏でられる「春」は四季の中でも1番有名なメロディーだといっても過言ではないくらいの音楽です。
「春」は小鳥が喜ぶように鳴いている様子や川が流れている様子、風の音さらには風に揺れる草原の音などをイメージした曲になっています。
時に嵐が訪れるなど曲の中にも物語があり聞いているだけで風景が思い浮かびますよ。そして曲の中でも特にヴァイオリンのソロは圧巻で感動します。
夏
春とはうってかわって「夏」はとても暗く怖いイメージの曲です。夏の暑さやけだるさを表現しているかと思えばいきなり嵐が来る様子に変化し動物たちが怖がっているような雰囲気になります。
さらに嵐が去った後の大地は育っていた草木がすべてなぎ倒されているようで夏はすべて悲壮感漂う音楽になっています。
これはヴィヴァルディが生まれ育った町ヴェネツィアでは夏に嵐が訪れることが多かったそうでヴィヴァルディ自身も夏にいいイメージがなかったのではないかと考えられているようです。
秋
「秋」といえば収穫ですよね。この曲でも収穫を祝う様子が表現されています。
お祝いに多くの人がお酒を飲み騒いでいる様子、お酒を飲んで皆が眠っていく様子と一連の宴の楽しさが表れている音楽です。
後半には冬に備えての狩りをする様子も表現されており人々の暮らしを描いた曲になっています。
冬
「冬」の音楽も多くの人が聞いたことのあるであろう曲です。
冬の寒さに凍えて歯を食いしばっている様子や冷たい風の様子を表現しています。特に歯ぎしりの様子はヴァイオリンの低い音で表現されていて聞いていると面白いですよ。
中盤からは暖かい家の中の様子を描いておりガラリと雰囲気が変わります。優雅なメロディーでなんとも平和な様子です。
そして最後はこの冬を乗り越えれば春がまた訪れるんだという我慢するような様子で曲が終わります。
「四季」というだけあって全ての季節を通して聞くと変化を感じながらも一連の流れとして聞くことができ圧倒されるような感覚になります。ぜひ聞いてみてください。
調和の霊感
調和の霊感は1711年に発表された協奏曲です。四季と同様12曲で構成されておりヴィヴァルディの協奏曲の中では1番最初に出された曲となっています。
この協奏曲の特徴は12曲で構成されているため、12番まであるのですが長調と短調が交互になるよう考えられています。
つまり1番が長調で2番が短調という風になっているので12番までコロコロと音楽のイメージが変化するのです。(ただし最後の12番は長調で終わらせたかったため11番は短調になっています。)
12曲ある協奏曲のほとんどがヴァイオリンのために作られておりヴィヴァルディのヴァイオリン好きが伺えますね。
フルート協奏曲集
1729年頃発表されたフルート協奏曲集は音楽で史上初めてのフルートのために作られた協奏曲です。音楽出版社からの依頼を受けて作られた協奏曲とされており6つの曲からなっています。
この曲は以前から作曲してあった曲をフルート用に編曲をして作られたようで実際に6つあるうちの5曲は原曲があることが確認されています。
タイトル通りフルートが軸となって奏でられる協奏曲ではヴェネツィアの風景が思い浮かぶように表現してる上、音色も美しくぜひ聞いていただきたい1曲です。
アントニオ・ヴィヴァルディは一体何がすごいのか?
すごさ1「協奏曲形式の楽章制を生み出した」
ヴィヴァルディは協奏曲の楽章制を生み出しました。それは「四季」でも活用されており春夏秋冬それぞれで第1楽章・第2楽章・第3楽章という風に分けられています。そのため「四季」は12曲もの曲から作られているのです。
楽章ごとに急-緩-急とテンポを変化させながら演奏することでそれぞれが別の曲であるかのような独立性が表現できるのでこの楽章制はヴィヴァルディのほかにも多くの作曲家が活用したとされています。
すごさ2.「リトルネロ形式を世に広めた」
リトルネロ形式とはバロック時代に流行した総奏と独奏を交互に演奏する音楽表現です。またそれぞれの曲調が違うのも特徴的な所でヴィヴァルディはこのリトルネロ形式というのを多くの作品で活用しています。
もともとヴィヴァルディよりも前に別の作曲家たちが活用していたリトルネロ形式ですが、ヴィヴァルディの楽曲で使用されたことでより多くの人に知れ渡ったとされてます。
アントニオ・ヴィヴァルディにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「ヴィヴァルディは数々の名演奏者を育てた」

もともと司祭だったヴィヴァルディですが体が弱かったためピエタ院という孤児施設で音楽を教えていました。
ピエタ院では才能のある女子には熱心に音楽を教えており、ヴィヴァルディ自身も施設にいる子たちのために作った曲が多かったそうです。
ヴィヴァルディの指導力は非常に高くヴァイオリンの神童と言われるほど知名度の高かったアンナ・マリーアもヴィヴァルディの弟子だったようです。
この他にも多くの演奏者を輩出したため、貴族たちからも注目される音楽教育だったとされ次第に孤児院施設だけでなく音楽教育の場所にもなったとされています。
都市伝説・武勇伝2「ピエタ院にいた時間は短かった?」
ヴィヴァルディの生涯を語る上で必ず出てくるのがピエタ院です。彼は音楽教師としてピエタ院と契約していましたが、その契約内容はなんとも自由なものだったようです。
実際の契約内容は、
- 1.毎月2曲の楽曲をピエタ院に提供すること。
- 2.毎月2,3回リハーサルに参加すること。
- 3.旅行やオペラ公演でピエタ院に来れない場合は郵便で楽譜を送ること。
約束はこの3つだけだったそうでヴィヴァルディは基本的には自由に音楽活動ができたとされています。実際、中年期のヴィヴァルディはオペラの上演にのめり込んでいたためピエタ院にはほとんどいなかったのではないかという考えもあります。
それでもピエタ院が比較的自由な生活を保障してでも契約していたことからヴィヴァルディがとても才能のある人間だったことを証明していますね。
アントニオ・ヴィヴァルディの略歴年表
アントニオ・ヴィヴァルディの具体年表
1678年 – 0歳「アントニオ・ヴィヴァルディ誕生」
長男として生まれたヴィヴァルディ
父であるジョヴァンニ・バッティスタと母のカミッラ・カリッキヨとの間に長男として誕生したアントニオ・ヴィヴァルディですが彼は9人兄弟でした。
しかし兄弟の多くは生まれつき体が弱くわずか2才や3才で亡くなった兄弟も数人いたそうです。ヴィヴァルディ自身も生まれつき体が弱く喘息を患っていたとされ後に司祭となったときにも体調を理由にミサが出来ないなど仕事に支障をきたしていました。
父親譲りの才能を開花

父親のジョヴァンニ・バッティスタはイタリアのブレシアという都市で生まれています。
ブレシアはヴァイオリンの生産地としても有名でバッティスタも幼い頃からヴァイオリンに触れる機会があったとされており理容師の傍らヴァイオリニストとしても活動していました。
そのためヴィヴァルディも父親からヴァイオリンを習っていたようで親子で演奏をしていたという話もあります。またヴィヴァルディは父親と同じようにヴァイオリンの才能がありとても上手でした。
1703年 – 25歳「司祭になるもピエタ院で音楽教師になる」
司祭を目指し勉学に励んだ10代
10才で教会の付属学校に入ったヴィヴァルディは15才で剃髪し、25才で司祭となりました。そんな彼は父親からの遺伝で髪が赤かったことから周りに「赤毛の司祭」と呼ばれていたそうです。
しかし体は病弱で司祭の仕事であるミサの最中に喘息の発作を起こすことも度々あり、ミサを中止せざるを得ない状況になることが多々ありました。
そのため司祭になったわずか半年後にミサを行わなくても良いという判断をされています。
ピエタ院での生活

体が弱かったヴィヴァルディはキリスト教会が事業の一環として設立していた孤児院施設で音楽を教えていました。
もともとヴァイオリンを習っていた彼は音楽に詳しくこの頃から生徒たちのために曲を作り始めたとされています。
そしてヴィヴァルディの指導によりピエタ院の合奏団はみるみるうちに上達し、有名になっていきました。
1705年 – 27歳「トリオ・ソナタ集を発表」
「作品1」として初めて楽曲を発表
ヴィヴァルディは自身が作った楽曲を作品として12作品ほど音楽出版社から出していましたが、12作品あるうちの1つ目「トリオ・ソナタ集」をこの年発表し出版しました。

トリオ・ソナタはヴィヴァルディと同様イタリア出身で作曲家でありながらヴァイオリニストでもあったコレッリという人が作った音楽形式でヴィヴァルディも彼に大きく影響を受けて「トリオ・ソナタ集」を作ったとされます。
またこの「作品1」はイタリアの貴族のアンニーバレ=ガンバーラ伯に献上されています。
1713年 – 35歳「オペラ作り始める」
ピエタ院で音楽教師をしながらオペラを作り始める
音楽教師としてピエタ院で働く一方、ヴィヴァルディの作曲の才能は頭角を現し次第にヴィヴァルディは作曲家としても活動し始めました。
そして1713年初めてヴェネツィアのサンタンジェロ劇場でオペラ公演を開催しました。
オペラ公演で知名度を上げたヴィヴァルディはヨーロッパ各国で有名になっていき同じ作曲家のバッハもヴィヴァルディの楽譜を持っていたとされます。
1718年 – 40歳「宮廷楽長を勤めながらオペラ作曲に励む」
作曲家として制作に励んだヴィヴァルディ

ヴィヴァルディは1713年に1つ目のオペラを作ってからわずか5年で10作品のオペラを作るほど楽曲制作に励んでいました。そしてそれらの楽曲は主にイタリアの劇場で上演され、楽曲の良さから人気のある作曲家となりました。
しかし、人気になった一方でもともと聖職者という立場だったのにも関わらずオペラ公演を開催するなど商売として仕事をするのはいかがなものかという意見もあり世間での評価は割れることとなりました。
宮廷楽長に任命されたヴィヴァルディだが
数々のオペラ公演で知名度を上げたヴィヴァルディは当時イタリアで権威のあったヘッセン=ダルムシュタット方伯の宮廷楽長になりました。
また宮廷楽長として仕事を行っていたと同時にこの頃から旅行に出かけることも増えたとされています。
理由としては持病の喘息を改善するためとされていますが、その旅行には常に女性がいたこと。司祭なのにミサをしないこと。宮廷楽長としての仕事があまり出来ていなかったことからさらに評判は悪くなってしまったようです。
1723年 – 45歳「多くの有名な楽曲を作り上げた時」
ローマを訪れたヴィヴァルディ

旅行に行くことが多かったヴィヴァルディはこの年ローマを訪れていました。ローマを訪れた彼はオペラを3つほど上演したり、ローマ教皇の前で演奏をしたりとかなり充実した生活を送っていたそうです。
またピエタ院との関係も続いていましたが、あまりにも多忙なヴィヴァルディに配慮して
1.毎月2曲の楽曲をピエタ院に提供すること。
2.毎月2,3回リハーサルに参加すること。
3.旅行やオペラ公演でピエタ院に来れない場合は郵便で楽譜を送ること。
このわずか3つの条件を提示してヴィヴァルディとの関係を続けていました。
オペラ公演を行いながら新たな楽曲が誕生
1725年にローマを離れたヴィヴァルディはその後もヨーロッパ各国を巡りながらオペラ公演を積極的に行っていました。
その一方でヴィヴァルディの作品で1番有名だといっても過言ではない「四季」やヴァイオリンのための楽曲「チェートラ」などの曲が次々に発表されピエタ院のみならず多くの場所で演奏されました。
1737年 – 59歳「人気に陰りが出る」
流行が変わったイタリア

それまでヴィヴァルディが作っていたような楽曲が流行っていたイタリアでは次第にナポリ派と呼ばれるアレッサンドロ・スカルラッティやフランチェスコ・プロベンツァーレという作曲家たちが作ったとされる楽曲が流行し始めました。
その流行の移り変わりの上、オペラ公演をしている際トラブルが続いてしまいヴィヴァルディへの評価は下がってしまいます。
さらに旅行中には聖職者であるにも関わらずオペラ公演を行い収入を得ていることをよく思わない住人から町に入ることを断られることもあり思うように生活が出来なくなっていきました。
1741年 – 63歳「アントニオ・ヴィヴァルディ死去」
再びオペラ公演を行おうとするが
ヴェネツィアではすでにヴィヴァルディの楽曲は古いものとされていたため、彼はウィーンでオペラ公演を行おうとしていました。
そしてウィーンへ訪れる費用やオペラを行う費用を賄うため、自らが描いた楽譜を安く売り始めました。ある程度お金が貯まったヴィヴァルディはウィーンを目指しヴェネツィアを離れましたがここで予想しなかった悲劇が訪れます。
それは支援してくれていたカール6世が亡くなったこと。神聖ローマ帝国のローマ皇帝が亡くなったことでオーストリアでは1年間すべての興業を禁止としたのです。
そのためヴィヴァルディが計画していたウィーンでのオペラ公演は出来なくなりました。さらに皇帝が亡くなったため権力争いが始まり国民も音楽を楽しむことなど全くしなくなり、支援してくれる人もいなかったとされます。
望みがなくなったヴィヴァルディは体調を崩す

ウィーンでオペラ公演を行うという夢も叶わなかったヴィヴァルディは徐々に体調を崩し始め1741年7月28日劇場の宿舎で63才で亡くなりました。
亡くなった際の詳しい状況も不明な上、埋葬された場所も貧しい人たちが入っていた場所だったということからかなり寂しい最期を迎えたとされています。
しかし多くの楽曲を作りピエタ院を支えたこと、バッハをはじめ作曲家たちに大きく影響を与えたこと、現代の私たちが未だなおヴィヴァルディの楽曲を聞けることなどヴィヴァルディの残した功績は非常に大きいものだと考えます。
アントニオ・ヴィヴァルディの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
伝記 世界の作曲家(1)ビバルディーバロック音楽を代表するイタリアの作曲家
ヴィヴァルディの生涯と作品について書かれている本です。この本は挿絵もきれいな上、とても分かりやすく書かれているので小学生でも読めるほど簡単にヴィヴァルディの生涯を知ることができます。
失われた手稿譜(ヴィヴァルディをめぐる物語)
タイトル通りヴィヴァルディの手稿譜をめぐる内容の本作はまるで小説のような進め方をします。そのため1つの物語として読むことができ、とても読み応えのある作品です。
ヴィヴァルディの最期はなぜあんなに貧しかったのか、晩年に手放した楽譜がなぜ現代にあるのか。謎を解き明かす本で面白いですよ。
おすすめの動画
ヴィヴァルディ 四季
ヴィヴァルディの作品の中で最も有名な楽曲だといっても過言ではない作品「四季」の演奏動画です。春夏秋冬を1度に聴くことができ、映像も見れるので具体的にどの楽器が使われているのかなど詳しく知ることができます。
ぜひ「四季」の音楽に圧倒されてみてください。
アントニオ・ヴィヴァルディについてのまとめ
本記事ではアントニオ・ヴィヴァルディの生涯と作曲について深く掘り下げましたがいかがだったでしょうか?
実はヴィヴァルディは当時の身分階級が貴族などの高い身分ではなく庶民だったため有名な楽曲を数々作ったのにも関わらず生涯についての記録があまり無いのです。
それでも少しずつ資料を集めていくとヴィヴァルディの作曲やオペラに注いでいた情熱やピエタ院での活躍などが分かりますよね。もし、これからヴィヴァルディの資料が新たに出てきたらより面白いと個人的には思います。
みなさんもぜひヴィヴァルディの楽曲を聞いて彼の素晴らしさを感じてみてはいかがでしょうか?