アントニオ・ヴィヴァルディの生涯年表
1678年 – 0歳「アントニオ・ヴィヴァルディ誕生」
長男として生まれたヴィヴァルディ
理容師として働いていたジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィヴァルディがカミッラ・カリッキヨという女性と結婚をし、長男として誕生したのがアントニオ・ヴィヴァルディです。彼は9人兄弟でした。
出産当時、ヴィヴァルディはほとんど瀕死の状態であったとされ大変危険な状況でした。そのためキリスト教に入信するための儀式「洗礼」をすぐに行うことが出来なかったそうです。
幸い、2ヵ月後に洗礼を行うことはできましたが、先天的に患っていた喘息などもあり幼い頃から体は弱かったといいます。
また、兄弟の多くは生まれつき体が弱くわずか2才や3才で亡くなった兄弟も数人いたそうです。ヴィヴァルディ自身も生まれつき体が弱く喘息を患っていたとされ後に司祭となったときにも体調を理由にミサが出来ないなど仕事に支障をきたしていました。
父親譲りの才能を開花
父親のジョヴァンニ・バッティスタはイタリアのブレシアという都市で生まれています。
ブレシアはヴァイオリンの生産地としても有名でバッティスタも幼い頃からヴァイオリンに触れる機会があったとされており理容師の傍らヴァイオリニストとしても活動していました。
そのためヴィヴァルディも父親からヴァイオリンを習っていたようで親子で演奏をしていたという話もあります。またヴィヴァルディは父親と同じようにヴァイオリンの才能がありとても上手でした。
1703年 – 25歳「司祭になるもピエタ院で音楽教師になる」
司祭を目指し勉学に励んだ10代
10才で教会の付属学校に入ったヴィヴァルディは15才で剃髪し、25才で司祭となりました。そんな彼は父親からの遺伝で髪が赤かったことから周りに「赤毛の司祭」と呼ばれていたそうです。
しかし体は病弱で司祭の仕事であるミサの最中に喘息の発作を起こすことも度々あり、ミサを中止せざるを得ない状況になることが多々ありました。
そのため司祭になったわずか半年後にミサを行わなくても良いという判断をされています。
ピエタ院での生活
体が弱かったヴィヴァルディはキリスト教会が事業の一環として設立していた孤児院施設で音楽を教えていました。
もともとヴァイオリンを習っていた彼は音楽に詳しくこの頃から生徒たちのために曲を作り始めたとされています。
そしてヴィヴァルディの指導によりピエタ院の合奏団はみるみるうちに上達し、有名になっていきました。
1705年 – 27歳「トリオ・ソナタ集を発表」
「作品1」として初めて楽曲を発表
ヴィヴァルディは自身が作った楽曲を作品として12作品ほど音楽出版社から出していましたが、12作品あるうちの1つ目「トリオ・ソナタ集」をこの年発表し出版しました。
トリオ・ソナタはヴィヴァルディと同様イタリア出身で作曲家でありながらヴァイオリニストでもあったコレッリという人が作った音楽形式でヴィヴァルディも彼に大きく影響を受けて「トリオ・ソナタ集」を作ったとされます。
またこの「作品1」はイタリアの貴族のアンニーバレ=ガンバーラ伯に献上されています。
1713年 – 35歳「オペラ作り始める」
ピエタ院で音楽教師をしながらオペラを作り始める
音楽教師としてピエタ院で働く一方、ヴィヴァルディの作曲の才能は頭角を現し次第にヴィヴァルディは作曲家としても活動し始めました。
そして1713年初めてヴェネツィアのサンタンジェロ劇場でオペラ公演を開催しました。
オペラ公演で知名度を上げたヴィヴァルディはヨーロッパ各国で有名になっていき同じ作曲家のバッハもヴィヴァルディの楽譜を持っていたとされます。
1718年 – 40歳「宮廷楽長を勤めながらオペラ作曲に励む」
作曲家として制作に励んだヴィヴァルディ
ヴィヴァルディは1713年に1つ目のオペラを作ってからわずか5年で10作品のオペラを作るほど楽曲制作に励んでいました。そしてそれらの楽曲は主にイタリアの劇場で上演され、楽曲の良さから人気のある作曲家となりました。
しかし、人気になった一方でもともと聖職者という立場だったのにも関わらずオペラ公演を開催するなど商売として仕事をするのはいかがなものかという意見もあり世間での評価は割れることとなりました。
宮廷楽長に任命されたヴィヴァルディだが
数々のオペラ公演で知名度を上げたヴィヴァルディは当時イタリアで権威のあったヘッセン=ダルムシュタット方伯の宮廷楽長になりました。
また宮廷楽長として仕事を行っていたと同時にこの頃から旅行に出かけることも増えたとされています。
理由としては持病の喘息を改善するためとされていますが、その旅行には常に女性がいたこと。司祭なのにミサをしないこと。宮廷楽長としての仕事があまり出来ていなかったことからさらに評判は悪くなってしまったようです。
1723年 – 45歳「多くの有名な楽曲を作り上げた時」
ローマを訪れたヴィヴァルディ
旅行に行くことが多かったヴィヴァルディはこの年ローマを訪れていました。ローマを訪れた彼はオペラを3つほど上演したり、ローマ教皇の前で演奏をしたりとかなり充実した生活を送っていたそうです。
またピエタ院との関係も続いていましたが、あまりにも多忙なヴィヴァルディに配慮して
1.毎月2曲の楽曲をピエタ院に提供すること。
2.毎月2,3回リハーサルに参加すること。
3.旅行やオペラ公演でピエタ院に来れない場合は郵便で楽譜を送ること。
このわずか3つの条件を提示してヴィヴァルディとの関係を続けていました。
オペラ公演を行いながら新たな楽曲が誕生
1725年にローマを離れたヴィヴァルディはその後もヨーロッパ各国を巡りながらオペラ公演を積極的に行っていました。
その一方でヴィヴァルディの作品で1番有名だといっても過言ではない「四季」やヴァイオリンのための楽曲「チェートラ」などの曲が次々に発表されピエタ院のみならず多くの場所で演奏されました。
1737年 – 59歳「人気に陰りが出る」
流行が変わったイタリア
それまでヴィヴァルディが作っていたような楽曲が流行っていたイタリアでは次第にナポリ派と呼ばれるアレッサンドロ・スカルラッティやフランチェスコ・プロベンツァーレという作曲家たちが作ったとされる楽曲が流行し始めました。
その流行の移り変わりの上、オペラ公演をしている際トラブルが続いてしまいヴィヴァルディへの評価は下がってしまいます。
さらに旅行中には聖職者であるにも関わらずオペラ公演を行い収入を得ていることをよく思わない住人から町に入ることを断られることもあり思うように生活が出来なくなっていきました。
1741年 – 63歳「アントニオ・ヴィヴァルディ死去」
再びオペラ公演を行おうとするが
ヴェネツィアではすでにヴィヴァルディの楽曲は古いものとされていたため、彼はウィーンでオペラ公演を行おうとしていました。
そしてウィーンへ訪れる費用やオペラを行う費用を賄うため、自らが描いた楽譜を安く売り始めました。ある程度お金が貯まったヴィヴァルディはウィーンを目指しヴェネツィアを離れましたがここで予想しなかった悲劇が訪れます。
それは支援してくれていたカール6世が亡くなったこと。神聖ローマ帝国のローマ皇帝が亡くなったことでオーストリアでは1年間すべての興業を禁止としたのです。
そのためヴィヴァルディが計画していたウィーンでのオペラ公演は出来なくなりました。さらに皇帝が亡くなったため権力争いが始まり国民も音楽を楽しむことなど全くしなくなり、支援してくれる人もいなかったとされます。
望みがなくなったヴィヴァルディは体調を崩す
ウィーンでオペラ公演を行うという夢も叶わなかったヴィヴァルディは徐々に体調を崩し始め1741年7月28日劇場の宿舎で63才で亡くなりました。
亡くなった際の詳しい状況も不明な上、埋葬された場所も貧しい人たちが入っていた場所だったということからかなり寂しい最期を迎えたとされています。
しかし多くの楽曲を作りピエタ院を支えたこと、バッハをはじめ作曲家たちに大きく影響を与えたこと、現代の私たちが未だなおヴィヴァルディの楽曲を聞けることなどヴィヴァルディの残した功績は非常に大きいものだと考えます。
アントニオ・ヴィヴァルディの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
伝記 世界の作曲家(1)ビバルディーバロック音楽を代表するイタリアの作曲家
ヴィヴァルディの生涯と作品について書かれている本です。この本は挿絵もきれいな上、とても分かりやすく書かれているので小学生でも読めるほど簡単にヴィヴァルディの生涯を知ることができます。
失われた手稿譜(ヴィヴァルディをめぐる物語)
タイトル通りヴィヴァルディの手稿譜をめぐる内容の本作はまるで小説のような進め方をします。そのため1つの物語として読むことができ、とても読み応えのある作品です。
ヴィヴァルディの最期はなぜあんなに貧しかったのか、晩年に手放した楽譜がなぜ現代にあるのか。謎を解き明かす本で面白いですよ。
おすすめの動画
ヴィヴァルディ 四季
ヴィヴァルディの作品の中で最も有名な楽曲だといっても過言ではない作品「四季」の演奏動画です。春夏秋冬を1度に聴くことができ、映像も見れるので具体的にどの楽器が使われているのかなど詳しく知ることができます。
ぜひ「四季」の音楽に圧倒されてみてください。
アントニオ・ヴィヴァルディについてのまとめ
本記事ではアントニオ・ヴィヴァルディの生涯と作曲について深く掘り下げましたがいかがだったでしょうか?
実はヴィヴァルディは当時の身分階級が貴族などの高い身分ではなく庶民だったため有名な楽曲を数々作ったのにも関わらず生涯についての記録があまり無いのです。
それでも少しずつ資料を集めていくとヴィヴァルディの作曲やオペラに注いでいた情熱やピエタ院での活躍などが分かりますよね。もし、これからヴィヴァルディの資料が新たに出てきたらより面白いと個人的には思います。
みなさんもぜひヴィヴァルディの楽曲を聞いて彼の素晴らしさを感じてみてはいかがでしょうか?