ショパンの功績
功績1「ピアノの詩人と呼ばれるほど作品が情緒豊か」
ショパンの凄いところは、どんな曲をとっても必ず情緒豊かなメロディーが内包されているというところです。幻想即興曲にしても、英雄ポロネーズにしても、威勢の良い音楽の背景には必ず美しいメロディーが存在し、ワルツにしても、彼の豊かな感情がメロディーという形にのって演奏者に語りかけます。
それだけでなく、当時の音楽としては革新的な形式の曲や、半音階的和声法などを完璧に使いこなしたことで、それまでは単一的だった曲想の中に新たな感情を埋め込まれることとなりました。新しい曲調や各曲が内包する旋律の中に、ショパンがピアノの詩人と呼ばれる所以を見出すことができるのです。
功績2「7歳にしてピアノ曲を作曲」
7歳と言えば現在の我々日本人はようやく小学生になり、段々と自我が芽生え始める頃ですが、なんとショパンはその時期に2つのピアノ曲を作曲しているのです。2曲のうち『ポロネーズ ト短調』の方は出版もされ、当時彼のピアノ教師であったズヴヌィをも驚愕させることでその名は瞬く間に音楽界を席巻したと言います。
その後も彼は子供ながらに多くの曲を作曲することで、現在も尊敬されるショパンという名に着実に華を付けていったのです。
功績3「ピアニストとしても、作曲家としても有名」
ショパンの凄いところは、彼が作曲家だけでなくピアニストとしても有名であったというところにもあります。7歳の頃から公開演奏を行い、11歳にしてロシアの皇帝アレクサンドル1世の前で所謂御前演奏をもこなします。
また、ポーランド立憲王国の副王であったコンスタンチン・パヴロヴィチ氏の息子の遊び相手として度々招かれ、副王の御前でも演奏を披露したそうです。
ちなみに8歳で行った演奏会では「モーツァルトの再来」、15歳で行った演奏会では「ワルシャワで最高のピアニスト」と各地で絶賛され、子供ながらに当時の成人ピアニストを超える才能を持っていたのです。
ショパンの名言
A wrist is the bow for a pianist.
(手首はピアニストにとっての弓である。)
Only the sound the ear permits is music.
(自分の耳が許す音だけが音楽である。)
I say common sense, but this must be a very small element. Because it isn’t so strong to say so that common sense gets the idea by which I’m in addition to everything from the beginning.
(常識というが、これは非常に小さな要素に違いない。というのは常識がぼくの頭からすべてのほかの考えを引き出すほど強力なものではないのだから。)
Simplicity is the final achievement. After one has played a vast quantity of notes and more notes, it is simplicity that emerges as the crowning reward of art.
(シンプルさは最終的な目標です。 とてつもない膨大な量の曲を演奏したのち、その報酬としてシンプルさを手に入れることができるのです。)
I shall create a new world for myself.
(私は自分のための新しい世界を創造する。)
Man is never always happy, and very often only a brief period of happiness is granted him in this world; so why escape from this dream which cannot last long?
(人は決していつも幸せではない。幸せは大抵ほんの僅かな間だけもたらされる。この貴重な幸せをしっかり堪能しようではないか。)
ショパンにまつわる逸話
逸話1「”革命のエチュード”のエピソードは嘘?」
「革命のエチュード」は1831年に作曲された「練習曲作品10-12」の別名です。激しい旋律で非常に印象的な作品ですが、これが1830年から31年にかけておきたポーランド11月蜂起と結びつけられました。
そして、ショパンが作品にロシアに占領される祖国ポーランドでの革命に対する想いをぶつけたというエピソードがあります。
確かに、ショパンはポーランドを非常に愛していたといわれています。その彼ならば可能性があると考えられ、広く流布するエピソードとなりました。しかし、現在の研究ではポーランドの国粋主義者モーリッツ・カラソフスキーの創作であるとの説が有力です。感情としては思っていたかもしれませんが、この曲とは関係ないのではないでしょうか。
逸話2「ショパンの心臓は教会にあるって本当?」
ショパンの心臓はワルシャワにある聖十字架教会の柱に納められています。これは、彼が遺言によって心臓を祖国に返すよう望んだからでした。ショパンの心臓コニャック漬けにされ彼の姉であるルドヴィカの手によって聖十字架教会に安置されます。
第二次世界大戦中、ドイツ軍の攻撃によりワルシャワの街が破壊されたとき、聖十字架教会も壊されました。しかし、ショパンの心臓は奇跡的に破壊を免れます。そして、戦後に再建された聖十字架教会に再び納められました。この場所はショパンファンの”聖地”となり、今でも多くの人々が訪れています。
逸話3「”別れの曲”の曲名は映画名に由来 」
「別れの曲」は「練習曲作品10-3」の別名です。ヨーロッパでは「Tristesse(悲しみ)」という名で知られています。なぜ、日本語タイトルが「別れの曲」かというと、この曲が1934年のドイツ映画『別れの曲』で使われたからでした。
個人的には悲しみより別れの方がこの曲の雰囲気を顕している気がします。単なる悲しみを越えた惜別の情を感じたからですが、この辺りは聴く人の感性に拠るでしょう。ショパン自身は「一生のうち二度とこんなに美しい旋律を見つけることはできないだろう」と語ったといいます。
ショパンの生涯年表
1810年 – 0歳「ショパン誕生」
ショパン、ワルシャワ公国にて誕生
ショパンは1810年、ワルシャワ公国のジェラゾヴァ・ヴォラにて誕生しました。ワルシャワ公国はナポレオン・ボナパルトによって作られた公国で、1807年~1813年のわずか数年しか存在しない短命の国でした。
父親の名前はニコラ・ショパンといい、もともとはフランスのロレーヌに住んでいたフランス人で、ポーランドに越してきた後、1794年のコシチュシュコの蜂起でワルシャワの市民兵として副官まで昇格した人物でした。
父親も母親も姉も全員音楽に達者で、ショパンは生まれた時からピアノやフルートなどの美しい音色に囲まれて育ちました。ショパンの音楽人生は生まれた時から始まっていたのです。
誕生後間もなくワルシャワへ移住
父親が友人からの誘いに乗じ、ワルシャワ学院にてフランス語を教えるべく、ショパン一家はワルシャワへと移住しました。ワルシャワ学院は現在で言う中高一貫校のようなもので、サクソン宮殿という歴史豊かな宮殿の中にありました。
1810年以来一家もこの宮殿の中にある広い庭園の中に住むこととなりましたが、1817年に突然この宮殿が軍用地として徴収されることとなり、ショパン一家は隣接する建物で暮らすことになります。ちなみにショパンは1823年から1826年にかけてワルシャワ学院にも通っていました。
1816年 – 6歳「本格的な音楽教育がスタート」
ヴォイチェフ・ジヴヌィに音楽を教わる
ショパンは1816年からジヴヌィから音楽の指導を受け、1817年から本格的にピアノのレッスンを受けるようになりました。もともと母親や姉からピアノの指導を受けていたということもあり、上達が速くあっという間に実力はジヴヌィを超えてしまいます。
ちなみにショパンは実力こそジヴヌィより遥かに高かったのですが、後年ショパンはジヴヌィを高く評価しており、師匠を超えても尊敬を忘れない彼の心を見て取ることができます。
ポロネーズを2曲作曲
7歳で本格的にピアノを習い始めたショパンですが、なんと同じ年に2つのポロネーズを作曲します。『ポロネーズ ト短調』と『ポロネーズ 変ロ長調』の2曲ですが、前者は出版もされました。これらの作品はワルシャワの中で瞬く間に有名となり、既成の偉大なポロネーズに匹敵する程の人気があったといいます。ちなみにこの翌年、弱冠8歳でありながらワルシャワで演奏会をも開催しています。
1826年 – 16歳「ワルシャワ音楽院での修行をスタート」
ワルシャワ音楽院に入学
1826年、ショパンは父親の勧めでワルシャワ音楽院に入学します。現在のポーランドで最も権威のある音楽院であり、同時に最も規模の大きな音楽院です。現在はフレデリック・ショパン音楽アカデミーと呼ばれています。ショパンはこのアカデミーで3年間音楽を学びました。
ショパン、音楽院を首席で卒業
1829年、ショパンは晴れてこの音楽院を首席で卒業し、ピアニスト、そして作曲家としての人生をスタートさせます。3年間の在学中には休暇の際に様々な地へと赴いてその見聞も広めていったといい、この3年間の様々な経験が彼の音楽の深さに味を付けていったのでしょう。
卒業後ショパンはすぐに音楽の都ウィーンへと赴き、2回演奏会を開催して華やかなデビューを果たしました。多くの人からは好意的な評価を受けた彼の演奏でしたが、一方で、彼のピアノからは小さな音しか出なかったと文句を言う人も中にはいたといいます。
1835年 – 25歳「両親との最後の再会」
カルロヴィ・ヴァリにて両親と最後の再会
1835年、ショパンは生涯最後となる両親との再会を果たしました。以後昔から病弱であった彼は両親との再会を達成することができずにそのまま亡くなってしまいます。最期に立ち会った彼の家族は姉だけだったのです。
マリアに求婚
カルロヴィ・ヴァリで両親と会ったのち当時住んでいたパリへと戻る途中で、彼はワルシャワ時代に親交のあったポーランド人貴族のヴォジンスキ伯爵の娘マリアと出会い、恋に落ちます。当時彼女は16歳でしたが、ショパンが求婚してくると受け入れ、事実上の婚約状態となりました。
しかし、マリアの母親は一旦認めたもののショパンの健康状態の悪さを知ると婚約破棄を促し、婚約延期の後結局ヴォジンスキ家がショパンに婚約破棄を申し出ました。彼は従うことしかできず、マリアからもらったバラの花、そしてマリアと彼女の母親からもらった手紙を紙包みにまとめ、その上に「Moja bieda」(我が哀しみ)と欠いたと言います。この失恋への想いは彼の大作『ワルツ 変イ長調』の中に現れており、現在でもこの曲は『別れのワルツ』との名で有名です。
マリアとの婚約破談後、1938年にショパンはジョルジュ・サンドとの名で知られるフランスの文筆家と出会い、恋に落ちます。しかし結局結婚まではいかず、1847年に2人は分かれてしまいました。
1844年 – 34歳「インフルエンザにかかる」
ショパンは1844年にインフルエンザにかかりました。今でこそ薬の処方等で重病化することも死亡することも殆どない病気ではありますが、当時の医療技術では大変大きな病でした。もちろん幼いころから病弱であったショパンにとっては一大事で、これをきっかけに自分の体調を見つめなおす時期にかかります。
1848年 – 38歳「パリでの最後の演奏会」
1848年、ショパンは体調が芳しくない状況ながらもパリで最後となる演奏会を開催しました。その後はイギリスで演奏旅行を行いますが、同年10月頃に彼は遺言をしたためます。もう最期が近いことを彼自身悟っていたのでしょう。
1849年 – 39歳「ショパン永眠」
ショパン、フランスパリにて永眠
ショパンは1849年、39歳という若さでその短い人生に幕を閉じました。彼の死因については現在でも不明で、死亡診断書では肺結核とされていますが、彼が抱えていた病気は他の疾患ではなかったのではないかという説も存在し、様々な議論が交わされています。
彼の葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われましたが、準備に遅れが生じたために2週間も延期されたといいます。しかしそのおかげで遠方からも人々が集まることができるようになったために、至る所から文学人や貴族が参列したといいます。
ショパンの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
ショパン―200年の肖像
この本はその名の通りショパンの肖像画について記された本ではありますが、ショパンの生涯からショパンを取り囲む芸術作品、現在でもショパンの名を残す漫画やアニメ、ピアノコンクールまで、様々な観点からショパンを評価しています。まさにショパンを「目で楽しむ」といったところ。
[新装版]フレデリック・ショパン全仕事
この本は1つ1つの楽曲について作品番号順に、その曲ができた背景や周辺情報をあまり深堀せず解説しているものです。中にはあまり知られていない曲についても解説されているので、ある意味では辞書として、またある意味では伝記として用いることができる、そんな書籍です。
【24年11月最新】ショパンをよく知れるおすすめ本ランキングTOP7
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(Bunin)Chopin Polonaise Op.53
この動画は、ブーニンという世界的ピアニストがショパン国際ピアノコンクールで優勝した際の動画です。とても軽やかに、そしてコンクールという大舞台でも楽し気に弾く姿は世界中の音楽家たちに強い印象を与えました。彼は一般の世界通念から逸脱した個性的な演奏をするピアニストでも有名です。
Stanislav Bunin plays Chopin Piano Concerto no. 1, op. 11 – video 1985
こちらは上記のショパン国際ピアノコンクールと同じ年、ブーニンがワルシャワ・フィルハーモニーとショパンのピアノ協奏曲第1番を共演した際の動画です。ブーニンの情熱的なピアノ演奏に呼応するように、演奏の後半になるにつれてオーケストラの覇気が高まっていくのがわかります。
おすすめの映画
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この映画は『愛は哀しみに変わり、美しき旋律は永遠になる。』というテーマのもと、ショパンが生涯で最も愛したジョルジュ・サンドとの恋物語を、ショパンの数々の名曲にその価値を見出しながら描いた作品です。まさにショパン自身の生きざまを完璧に表現した名映画と言えます。
楽聖ショパン
こちらの映画はショパンの人生を、史実に忠実に即しながら描いた作品です。そのストーリー性はもちろんのこと、映画に出演している俳優たちの最高の熱演も相俟って、感動の涙なしには観ることのできない、そんな映画となっています。
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ショパンの数々のピアノ曲の中で最も威勢の良い曲と言っても過言ではないでしょう。優雅な時代と苦難の時代、そして栄光の時代と、ショパンの故郷ポーランドを『英雄』という名を借りて歌う曲です。ショパンの人生の苦しみを表現し、故郷への想いがこもった曲と言え、世界中のピアニストの憧れの曲となっています。
子犬のワルツ
子犬のワルツは、最も有名なショパンの名曲と言えるでしょう。ショパンの特徴的な曲調がよく曲の中に現れており、これぞショパンと世界中の人に言わしめるほどの曲です。ショパンの曲の中ではさほど難しくはなく、比較的取り組みやすい曲となっています。
関連外部リンク
ショパンについてのまとめ
世界中のピアニストが憧れ、尊敬するショパン。その人物像は、演奏家には良くあることながら病弱で早死にしてしまう程の比較的大人しい人物でした。
しかしその短い人生の中で、ピアノ曲を数多く世に排出。その天才的なピアノ技術や作曲技術が当時から世界中の人々に感動を与え、モーツァルトやベートーヴェンの比較対象になるほどの人物に成り上がったのです。
現在でもその存在が重宝されるショパンです。音楽に興味がなくとも、その名を残すコンクールや漫画・映画、彼の残した楽曲に耳を傾けてみてはいかがでしょうか。きっと当時のポーランドの苦難、病弱であったショパンの気持ちが理解できるはずです。
その感情・情熱を、現在を生きる我々が継承すれば、きっとショパンは穏やかに口元を緩めるでしょう。