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【年表付】チンギス・ハンとはどんな人?子孫や名言、漫画まとめ

人類史上最大の帝国の礎を築いた英雄、チンギスハン。抗争が絶えなかったモンゴルの遊牧民を一代で統一し、強力な軍隊を率いて中国・中央アジア・西アジアで征服活動を展開しました。彼が築き上げたモンゴル帝国は息子たちに受け継がれ、最盛期にはユーラシア大陸の大部分を支配する空前絶後の帝国になりました。現在のモンゴルでは、国民的英雄として尊敬を集めていますね。

チンギスハン(本名テムジン)はモンゴルの有力な武将の息子として生まれましたが、9歳の時に父を殺され勢力は解体、モンゴルの荒野で貧しい生活を強いられました。成長してからも敵対勢力に新妻を奪われるなど苦難の連続でした。しかし、持ち前の行動力とカリスマ性で急速に勢力を拡大し、ついにはモンゴル統一の偉業を成し遂げるのです。

今回は、世界史の教科書でモンゴル帝国の地図を見て驚愕、以降マイペースにチンギスハンの情報収集にあたっている筆者がお送りします。

チンギスハンとはどんな人か

名前チンギスハン(成吉思汁)(本名:テムジン)
誕生日1162年5月31日?
没日1227年8月25日
生地デリウン・ボルタグ(現在のモンゴル国ヘンティー県ダダル郡?)
没地六盤山涼殿峡(現在の寧夏回族自治区固原市涇源県)
配偶者ルテ、クラン、イェスイ、岐国公主、イェスゲン
埋葬場所不明

チンギスハンの父親は?

チンギスハンの父親のイェスゲイは、部族の長を務める実力者でした。英雄を意味する「バアトル」の称号を持ち、持ち前の武勇で勢力を拡大していきます。ちなみに、チンギスハンの本名「テムジン」は、父イェスゲイが捕虜とした敵の将軍テムジン・ウゲにちなんだものです。ちょっと不思議な感覚ですが、当時のモンゴルには、産後の母親が初めて遭ったものの名前を付ける風習があったそうです。戦いとの切れぬ縁を感じますね…。

しかし、テムジンが9歳の時に、敵対するタタール族に父親を毒殺されてしまいます。イェスゲイに従っていた家臣は次々と離れ、テムジンは母と幼い弟妹とともに困窮した生活を送ることになりました。後に帝王となる彼の前半生は決して恵まれたものではなかったのです。ただ、この時の体験が、後の十戸制の確立など血縁関係にとらわれない制度改革に結びつくのです。

チンギスハンのライバルは?

チンギスハンにはジャムカというライバルがいました。もともとは盟友とも呼べる存在で、テムジンがメルキト族に妻ボルテを人質に取られた時も、協力して救出を手伝ったこともありました。このメルキト族との戦いで、テムジンは大いに名をあげることになります。

しかし、テムジンが勢力を拡大すると両者は反目するようになり、やがて戦争に発展します。当初はジャムカが優勢でしたが、十三翼の戦いでテムジン軍の捕虜を釜茹での刑に処すなど残酷な面が目立ち、人心を失ってしまいます。こうして、ジャムカの元を離れた部族をテムジンが取り込んで勢力を拡大、形勢は逆転しました。両者はその後も戦いを続けましたが、1205年、遂にテムジンはジャムカを倒しました。元朝秘史によれば、部下の裏切りによって捕虜となったジャムカをテムジンは旧交を思って助命しようとしましたが、ジャムカはこれを拒否、自ら死を選んだといいます(ちなみに、ジャムカを裏切った部下たちは、主君を裏切ったとしてテムジンの逆鱗に触れ、その場で斬刑に処されました)。

ドラマチックな抗争劇ですね…。しかし、捕虜に対する処遇を誤って人心を失ったジャムカは、中国のの覇王・項羽を想起させます。現在のモンゴル国内では、どのような評判なのでしょうか…?

チンギスハンの妃は?

チンギスハンには多くの妃がいたことでも知られ、一説では500人を超えていたそう。ただ、彼女たちの多くは戦利品として奪ったもので、全員が後宮にいたわけでないようです。

チンギスハンの主な妃は4人で、正后がコンギラト族のボルテという女性です。10歳の時に父親の紹介で当時9歳のテムジンと婚約(正式な結婚は成人後)しましたが、結婚してまもなくメルキト族の襲撃で略奪されてしまいます。テムジンはのちのライバルであるジャムカと協力してボルテを救出に成功しました。ただ、ボルテは、テムジンとジャムカの決裂を早くから予見していたといわれています。

ボルテをはじめ4人の妃たちは、妻としての役割だけではなく、それぞれの領地を与えられていました。さらに、チンギスの資産管理、他の后妃たちの管理も担っていました。

チンギスハンの子孫は?

最新の研究によれば、今も世界で1600万人がチンギスハン直系の子孫にあたるそうです。英レイセスター大学のマーク・ジョブリング教授らの研究チームがNatureで発表した論文によれば、現在のアジア人男性の約40%が、11人の「偉大な父」のいずれかの血脈を受け継いでいるといい、その偉大な父の筆頭こそがチンギスハンとのこと。多くの妃を抱え、生涯に100人以上の子どもを作ったと言われる彼の血は現代にも色濃く残っているようです。

血縁者は1600万人?チンギス・ハンの子孫とその功績を解説

チンギスハンの功績やすごさは?

すごさ1「空前絶後の大帝国の礎を築く」

チンギスハンの征服活動は、後の世界帝国モンゴルの礎となりました。その大きな第一歩こそ「モンゴル統一」でした。父の死後、頭角を現したテムジンは勢力を拡大、父の仇であるタタール族を倒したのち、宿敵ジャムカと組んだナイマン族、かつて妻ボルテをさらったメルキト族を滅ぼします。そして、父の親友トグリルの一族であるケレイト族を滅ぼし、ライバルのジャムカをも倒したことで、モンゴルの統一を果たしました(ここからチンギスハンと名前を変えました)。その後も、中国の西夏、中東のホラズムを滅ぼしていきます。

彼の死後、モンゴル帝国は息子たちに受け継がれ、最盛期には中国・朝鮮・トルコ・アフガニスタン・東欧地域まで支配する世界帝国となります。人口も1億人を超えていたといわれています。その後は、分裂を繰り返しながらも帝国は400年以上続いていくことになります。

すごさ2.「最強の軍隊を完成させる」

チンギスハンの覇業を支えたのは、モンゴル軍の圧倒的な武勇でした。彼らの強さはいかに生み出されたのでしょう。第一に、「千戸制」です。千戸制とは、十進法に基づく軍事・行政体制のことで、戦いの際には部隊を千人→百人→十人と分割し、各部隊の隊長を中央から派遣します。

それまでの遊牧民国家は、部族ごとの血縁関係で組織化されたため、部族内の結束は強いが、他の部族間では排外的になりやすい特徴がありました。そのため、国家が巨大になるほど統率が難しかったのです。そこで、チンギスは部族を一度解体し、千戸制に基づいて再編。千人隊長に一族や功臣を任命し、部族の騎馬隊を国家の軍隊として利用しました。チンギスハンは、遊牧民社会において、血のつながりを超えた中央集権体制を築いたのです。

また、モンゴル軍では兵士一人に対して数頭の馬が与えられ、兵士は馬を乗り換えながら行軍しました。さらに、馬上から射るのに適した小型の弓を備え、「てつはう」などの火薬も併用しました。モンゴル軍の統率力と機動力はこうして生み出されていったのです。

チンギスハンの名言

荒ぶる敵には、鷹の如くに

人間の最も大きな喜びは、敵を打ち負かし、これを眼前よりはらい、その持てるものを奪い、その身よりの者の顔を涙にぬらし、その馬に乗り、その妻や娘をおのれの腕に抱くことである。

我が身を治めるなら、我が心から修めよ。

次に来る旅人のために、泉を清く保て

チンギスハンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1 「チンギスハン=源義経!?」

チンギスハンの正体は、あの源義経ではないかという説があります。源義経といえば、軍事的才能で源平合戦の勝利に大いに貢献するものの、兄の頼朝に疎まれた挙句、死に追いやられた悲劇の将軍として知られています。しかし、実は義経は生き延びており、海を渡ってチンギスハンに成り代わったという話があるのです。

2人には多くの共通点が存在します。生きた時代もほぼ同じで背格好も似ており、また、チンギスはモンゴルで主流の小型の弓ではなく、大型の弓を使っていたそうです(日本では大型の弓が主流でした)。さらに、義経は「九郎義経」という別名がありますが、チンギスも「クロー」と呼ばれることがあったそう。チンギスハンの前半生があまり分かっていないことも説を裏付ける要素の一つです。

ただし、義経の首は兄の頼朝が自ら確認しており、墓も神奈川県藤沢に存在することから、一般的には「チンギスハン=源義経」説は都市伝説とされています。ただ、実に興味深いエピソードですね。

源義経とチンギスハンは同一人物なのか?今でも語り継がれる疑惑を解明

都市伝説・武勇伝2 「チンギスハンの墓」

チンギスハンの墓の場所は今もわかっていません。彼の死は他国からの侵略を招くという理由で最高機密とされました。埋葬を目撃した者も全員殺害されたそうです。また、遊牧民の風習で、地面を平らにならして墓石を立てなかったので、正確な位置が判然としなくなってしまいました。

チンギスハンの墓の調査が現在も進んでおり、日本の研究チームも参加しています。しかし、墓をあばくことに反対する現地の人も多く、今なお調査は途中です。

チンギスハンの略歴年表

1162年?
テムジン、誕生

テムジン(鉄木仁)は、モンゴルの有力な部族の長イェスゲイの長男として生まれました。当時のモンゴルには歴史を記述する手段が伝わっていなかったため、テムジンの正確な生年は分かっていません。

1171年
父、イェスゲイ毒殺

父イェスゲイはタタール族の酒宴に参加しましたが、かつてイェスゲイに敗北したタタール族はその恨みから酒にひそかに毒を混ぜました。酒を飲んだイェスゲイの体調は急速に悪化し、ついに絶命します。父を失ったテムジンの家族は部下にも去られ、困窮した生活を送ることになります。

?年
メルキト族から妻を奪還する

テムジンは成人すると子供のころに婚約したボルテと結婚します。しかし、結婚して間もなくメルキト族に妻をさらわれてしまいます。テムジンは、親友のジャムカや父の友人のトグリルの協力もあって、メルキトを撃破し、妻を奪還しました。この戦いでテムジンは勢力を盛り返し、支配者として頭角を表すことになります。

1190?年
十三翼の戦い

勢力を拡大したテムジンはかつての盟友ジャムカと対立するようになります。やがて戦争に発展し、十三翼の戦いでは、ジャムカが勝利したと言われています。しかし、ジャムカは戦後の苛烈な処分で人望を失い、逆に敗れたテムジンは彼らを取り込んで勢力を拡大しました。

1196年
ウルジャ河の戦い

テムジンは父の親友であったケレイト族のトグリルとともに、中国北部の大国である金と同盟を締結、宿敵のタタール族に戦いを挑みます。戦いはモンゴル・ケレイト・金連合軍の勝利に終わり、テムジンは金朝の後ろ盾を得て、ますます勢力を拡大させていくのです。

このウルジャ河の戦いが、謎も多いチンギスハンの前半生の出来事のうち、外部の資料(「金史」)に登場する初めての出来事になります。

1203年
ケレイト族を壊滅させる

同盟関係にあったテムジンとケレイト族のトグリルですが、トグリルの息子イルカ・セングンはテムジンを嫌い、父に対して同盟を解消するように讒言を繰り返していました。

1203年、息子の讒言に乗ってしまったトグリルはついにテムジンを急襲しますが、テムジンの反撃にあって大敗します。トグリルは殺され、イルカ・セングンも処刑されました。こうして、ケレイト族はテムジンの手に落ちたのでした。

1206年
モンゴル統一、チンギスハンの誕生

1205年にライバルのジャムカを倒したことで、全てのモンゴルの部族がテムジンの支配下に入りました。

1206年に、テムジンは一族や功臣を集めてクリルタイ(政治会議の意)を開き、モンゴル帝国を開き、自らをチンギスハンと称しました。「チンギス」の意は、はっきりと分かってはいません(海、最強の~など諸説あり)が、「ハン」は「王の中の王」という意味です。皇帝となったチンギスハンは、領地を功臣や一族に分配し、千戸制を敷いて軍事態勢を整えていきました。

1211年
金への遠征を開始する

帝国建設後にチンギスハンは中国遠征の準備を開始し、1211年に金との開戦に踏み切りました。モンゴル軍は金軍を次々と破り、一度和議も結ぶものの、1215年には金の拠点燕京を陥落させました。

その後も遠征は継続し、チンギスハン死後の1234年に2代目のオゴタイハンによって金は征服されました。

1220年

チンギスハンは、ホラズムに送った通商使節が虐殺されたことに激怒し、自ら20万の大軍を率いて中央アジア遠征に乗り出します。サマルカンドなどの中心都市次々と征服し、抵抗した街は徹底的に破壊されました。

1227年
西夏を滅ぼす

すでにモンゴルの臣下となっていた西夏の皇帝ですが、ホラズム遠征の援軍を拒否し、金との反モン
ゴル同盟を締結していました。

これを知ったチンギスハンは西夏への遠征を開始し、黄河で30万を超える西夏軍を撃破、この時点で西夏は壊滅しました。1227年に投降した皇帝が殺害され、西夏は滅亡しました。

1227年
チンギスハン、死す

西夏遠征のさなか、チンギスハンは病に倒れ危篤に陥ります。その最期は、西夏皇帝を殺すように命じ、金を滅ぼす計画を打ち明けて亡くなったそうです。

チンギスハンの具体年表

1196年 – 35歳?「ウルジャ河の戦い」

モンゴルの重大なターニングポイント

1196年のウルジャ河の戦いで、テムジンは金朝とケレイト族と結んで、父の仇敵タタール族を倒しました。この戦いは、テムジンとモンゴルにとって大きな分岐点となった戦いでした。ポイントは2つ、①タタールの弱体化②金との同盟です。

実は、金とタタールは当初同盟関係でした。しかし、戦利品の分配をめぐって関係が悪化し、タタールは金の領土を侵略。金は、タタールの対処と、モンゴルにおける新たなパートナーを探すことになったのです。そこに目を付けたのがテムジンです。この時のテムジンはまだまだ弱小勢力でしたが、金との同盟締結に成功し、さらにケレイト族も金と同盟し、金=モンゴル=ケレイト連合軍が成立したのです。

連合軍に敗れたタタールは急速に衰退していきます(1202年にテムジンによってほぼ壊滅)。一方、弱小勢力だったテムジンは、強国 金の後ろ盾を得てモンゴルの覇者へと飛躍を遂げたのです。

宿敵タタールとの決戦は「代理戦争」?

モンゴルの命運を決したこの戦いは「金と西遼の代理戦争」とも言われています。少し時代をさかのぼりましょう。10世紀からモンゴルを間接的に支配していたのは、契丹人の遼朝でした。しかし、1125年に遼が女真族の金に滅ぼされると、一部の契丹人は耶律大石を中心に西遼を建国。この金と西遼の対立がモンゴルに強い影響力を及ぼしていたため、この時代のモンゴルの部族間抗争は金と西遼の代理戦争でもあったのです。

当初のタタール-金の同盟関係は、この背景によるものです。また、トグリル率いるケレイト族は元々西遼派の部族でしたが、内乱が発生した際に援助が得られなかったことを不満に思い、金に寝返ってテムジンとともにウルジャ河の戦いに参加しました。

さらに戦後、テムジンは金をバックに勢力を拡大しましたが、西遼派の部族はジャムカをリーダーに据えて抗戦。両者のライバル関係は、大国のライバル関係を意味していました。

1227年 – 65歳?「チンギスハン、死す」

後継者をめぐるドラマ

チンギスハンは、三男のオゴタイを後継者に指名しています。モンゴルは、長男が後継者になる習慣はありませんが、オゴタイが後継者となるまでには、息子たちの複雑な物語がありました。

チンギスの長男ジュチには、出生に関する複雑な事情がありました。ジュチは、母のボルテがメルキト族にさらわれ、テムジンに奪還された後に生まれました。よって、ジュチはメルキト族との子ではないのかと疑われることに。特に次男のオゴタイとは険悪な仲で、出生の事情をめぐって対立することもありました。そんな兄たちをいつもなだめていたのが三男のオゴタイでした。

最終的に、チンギスハンは温厚な性格で兄弟のまとめ役でもあったオゴタイを後継者に指名したのです。ちなみに、ジュチは1225年にチンギスより先に病死しています。晩年は父との関係も悪化し、ジュチの討伐も検討されましたが、病死の報を受けたチンギスは大変悲しんだそうです。

オゴタイハンの即位後…

2代目の皇帝となったオゴタイは父の統一事業を継続します。1234年に父の悲願であった金の征服を成し遂げ、1236年にはジュチの子であるバトゥにヨーロッパ遠征を命じ、キエフ公国を壊滅させました。さらに、1241年のリーグニッツ(ワールシュタット)の戦いでドイツ・ポーランド連合軍を破りましたが、オゴタイ自身の死によって遠征は終了しました。

内政面では、駅伝制を全国に敷いて広大な帝国の情報伝達を加速させました。また、首都のカラコルムが建設されたのもオゴタイの時代です。ただ、オゴタイの長男のグユクとバトゥが不和となるなど、一族の対立が生まれた時代でもありました。実際に、グユクが3代目の皇帝になると、両者は内戦寸前の状況にまで悪化しましたが、グユクが急死したことで事なきを得ました。

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チンギスハーン

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チンギスハンについてのまとめ

巨大帝国の礎を一代で築いてしまった英雄、チンギスハン。その強さは、彼自身のタフさに加え、結果にこだわる合理性によるものだと感じました。似たキャラで言うと織田信長でしょうか…。ただし、彼との違いは後継者選びに失敗しなかったこと。オゴタイに帝国を任せたことで、モンゴルは自滅することなく真の世界帝国へと成長していったのでした。