「チンギスハンってどんな人?」
「チンギスハンがつくったモンゴル帝国とは?」
「チンギスハンと源義経は同一人物?」
この記事をご覧のあなたはそのような疑問をお持ちではないでしょうか?チンギスハンはモンゴル高原の諸部族を統一し、周辺諸国を瞬く間に平定してモンゴル帝国を建設した人物です。
彼は配下の遊牧民を「千戸制」で再編成し強力な軍団とする一方、「ヤサ」という法律を定め広大なモンゴル帝国を統治しました。偉大な業績を上げたチンギスハンは現代のモンゴル国でも英雄として尊敬されています。
また、チンギスハンは、ほぼ同じ時期に生きた源義経と同一人物だとする説や彼を葬った墓がいまだに見つかっていないなど有名な割に多くの謎に包まれた人物でもあります。
今回はチンギスハンの生涯や彼の妃、子孫、彼が築いた広大なモンゴル帝国や彼が作り上げた千戸制という軍事制度、チンギスハンにまつわる伝説などについてわかりやすくまとめます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
チンギスハンはどんな人物か
名前 | チンギスハン(成吉思汁)(本名:テムジン) |
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誕生日 | 1162年5月31日? |
没日 | 1227年8月25日 |
生地 | デリウン・ボルタグ(現在のモンゴル国ヘンティー県ダダル郡?) |
没地 | 六盤山涼殿峡(現在の寧夏回族自治区固原市涇源県) |
配偶者 | ルテ、クラン、イェスイ、岐国公主、イェスゲン |
埋葬場所 | 不明 |
チンギスハンの生涯をハイライト
チンギスハンは1162年に生まれました。父のイェスゲイはバアトル(勇者)の称号を持つモンゴル族の有力者です。
父から「テムジン」という名を与えられたチンギスハンは、コングラト族の一員であるデイ・セチェンの娘、ボルテと婚約しその家にとどまります。
1171年、父のイェスゲイがタタル族に毒殺されるとイェスゲイの部族は崩壊。テムジンは母のホエルンと自分の兄弟だけというどん底の状態から部族の立て直しを図りました。
窮地に陥ったテムジンは、父の盟友だったトグリル・ハンの力を借りて敵対していたメルキト族に勝利し、モンゴル族の中で一目置かれる存在に成長します。勢力拡大の最中、テムジンは親友のジャムカとの十三翼の戦いで敗北するなど挫折を経験しました。
しかし、テムジンの寛大な姿勢に共感する多くの人々は敗北後もなおテムジンに従います。
最終的に、テムジンはジャムカとの戦いに勝利。その後、敵となったトグリル・ハンとの戦いにも勝利し1206年に全モンゴルの君主「チンギスハン」になりました。
高原を統一したチンギスハンは中国の北半分を支配していた金やモンゴル高原の南に位置する西夏、現在のイラン方面を支配していたホラズム王国などのイスラーム勢力との戦いに勝利し勢力を拡大。モンゴル帝国を築き上げました。
そして、1227年の西夏遠征中にその生涯を閉じます。
チンギスハンの先祖は「蒼き狼」
チンギスハンの一代記が中心となったモンゴル帝国の歴史書『元朝秘史』でチンギスハンは「蒼き狼」の子孫であるとされました。モンゴル語では「ボルテ・チノ」といいます。
そもそも、蒼き狼はチンギスハンだけではなくモンゴル人全体の祖とされる伝説の獣でした。この「蒼」は青ではなく、灰色を意味します。そのため、厳密には「灰色の狼」とするのが正しいとされます。
日本では「蒼き狼」をタイトルに用いた小説やゲームが販売されたことから「蒼き狼」の呼び名がチンギスハンの別名として広く知られるようになりました。
部族の長である父親のもとで育ったチンギスハン
チンギスハンの父イェスゲイは、部族の長を務める実力者でした。英雄を意味する「バアトル」の称号を持ち、持ち前の武勇で勢力を拡大していきます。ちなみに、チンギスハンの本名「テムジン」は、父イェスゲイが捕虜とした敵の将軍テムジン・ウゲにちなんだものです。ちょっと不思議な感覚ですが、当時のモンゴルには、産後の母親が初めて遭ったものの名前を付ける風習があったそうです。戦いとの切れぬ縁を感じますね…。
しかし、テムジンが9歳の時に、敵対するタタール族に父親を毒殺されてしまいます。イェスゲイに従っていた家臣は次々と離れ、テムジンは母と幼い弟妹とともに困窮した生活を送ることになりました。後に帝王となる彼の前半生は決して恵まれたものではなかったのです。ただ、この時の体験が、後の十戸制の確立など血縁関係にとらわれない制度改革に結びつくのです。
チンギスハンの盟友ジャムカ
チンギスハンにはジャムカというライバルがいました。もともとは盟友とも呼べる存在で、テムジンがメルキト族に妻ボルテを人質に取られた時も、協力して救出を手伝ったこともありました。このメルキト族との戦いで、テムジンは大いに名をあげることになります。
しかし、テムジンが勢力を拡大すると両者は反目するようになり、やがて戦争に発展します。当初はジャムカが優勢でしたが、十三翼の戦いでテムジン軍の捕虜を釜茹での刑に処すなど残酷な面が目立ち、人心を失ってしまいます。こうして、ジャムカの元を離れた部族をテムジンが取り込んで勢力を拡大、形勢は逆転しました。両者はその後も戦いを続けましたが、1205年、遂にテムジンはジャムカを倒しました。元朝秘史によれば、部下の裏切りによって捕虜となったジャムカをテムジンは旧交を思って助命しようとしましたが、ジャムカはこれを拒否、自ら死を選んだといいます(ちなみに、ジャムカを裏切った部下たちは、主君を裏切ったとしてテムジンの逆鱗に触れ、その場で斬刑に処されました)。
ドラマチックな抗争劇ですね…。しかし、捕虜に対する処遇を誤って人心を失ったジャムカは、中国のの覇王・項羽を想起させます。現在のモンゴル国内では、どのような評判なのでしょうか…?
チンギスハンを支えた4人の妃
チンギスハンには多くの妃がいたことでも知られ、一説では500人を超えていたそう。ただ、彼女たちの多くは戦利品として奪ったもので、全員が後宮にいたわけでないようです。
チンギスハンの主な妃は4人で、正后がコンギラト族のボルテという女性です。10歳の時に父親の紹介で当時9歳のテムジンと婚約(正式な結婚は成人後)しましたが、結婚してまもなくメルキト族の襲撃で略奪されてしまいます。テムジンはのちのライバルであるジャムカと協力してボルテを救出に成功しました。ただ、ボルテは、テムジンとジャムカの決裂を早くから予見していたといわれています。
ボルテをはじめ4人の妃たちは、妻としての役割だけではなく、それぞれの領地を与えられていました。さらに、チンギスの資産管理、他の后妃たちの管理も担っていました。
現代に1600万人もの子孫を残しているチンギスハン
最新の研究によれば、今も世界で1600万人がチンギスハン直系の子孫にあたるそうです。英レイセスター大学のマーク・ジョブリング教授らの研究チームがNatureで発表した論文によれば、現在のアジア人男性の約40%が、11人の「偉大な父」のいずれかの血脈を受け継いでいるといい、その偉大な父の筆頭こそがチンギスハンとのこと。多くの妃を抱え、生涯に100人以上の子どもを作ったと言われる彼の血は現代にも色濃く残っているようです。
チンギスハンの功績
功績1「空前絶後の大帝国の礎を築く」
チンギスハンの征服活動は、後の世界帝国モンゴルの礎となりました。その大きな第一歩こそ「モンゴル統一」でした。父の死後、頭角を現したテムジンは勢力を拡大、父の仇であるタタール族を倒したのち、宿敵ジャムカと組んだナイマン族、かつて妻ボルテをさらったメルキト族を滅ぼします。そして、父の親友トグリルの一族であるケレイト族を滅ぼし、ライバルのジャムカをも倒したことで、モンゴルの統一を果たしました(ここからチンギスハンと名前を変えました)。その後も、中国の西夏、中東のホラズムを滅ぼしていきます。
彼の死後、モンゴル帝国は息子たちに受け継がれ、最盛期には中国・朝鮮・トルコ・アフガニスタン・東欧地域まで支配する世界帝国となります。人口も1億人を超えていたといわれています。その後は、分裂を繰り返しながらも帝国は400年以上続いていくことになります。
功績2「最強の軍隊を完成させる」
チンギスハンの覇業を支えたのは、モンゴル軍の圧倒的な武勇でした。彼らの強さはいかに生み出されたのでしょう。第一に、「千戸制」です。千戸制とは、十進法に基づく軍事・行政体制のことで、戦いの際には部隊を千人→百人→十人と分割し、各部隊の隊長を中央から派遣します。
それまでの遊牧民国家は、部族ごとの血縁関係で組織化されたため、部族内の結束は強いが、他の部族間では排外的になりやすい特徴がありました。そのため、国家が巨大になるほど統率が難しかったのです。そこで、チンギスは部族を一度解体し、千戸制に基づいて再編。千人隊長に一族や功臣を任命し、部族の騎馬隊を国家の軍隊として利用しました。チンギスハンは、遊牧民社会において、血のつながりを超えた中央集権体制を築いたのです。
また、モンゴル軍では兵士一人に対して数頭の馬が与えられ、兵士は馬を乗り換えながら行軍しました。さらに、馬上から射るのに適した小型の弓を備え、「てつはう」などの火薬も併用しました。モンゴル軍の統率力と機動力はこうして生み出されていったのです。
功績3「ずば抜けていた人の目利き」
チンギスハンは人の目利きに優れた人物でした。その代表が「四狗」「四駿」とよばれた武将たちです。
「四狗」はジェベ、ジェルメ、スブタイ、クビライの四人です。彼らは戦いが始まると真っ先に敵に突入し敵を恐怖に陥れました。
「四駿」はボオルチュ、ムカリ、チラウン、ボロクルの四人です。彼らはチンギスハンの側にぴったりとくっつき、護衛の役目を果たします。
特にボオルチュはチンギスハンに初期から仕える人物で非常に信任が厚かったと伝えられます。
文官としては耶律楚材が有名です。もとは契丹の王族でしたが、契丹滅亡後は金に仕えていました。
チンギスハンが金を攻めた時、耶律楚材はモンゴル軍の捕虜となります。類まれな長身が目を引き、チンギスハンの部下となりました。
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チンギスハンの死後、耶律楚材は二代目大ハーンのオゴタイに仕えます。このとき、モンゴル人たちが征服した土地に住む農耕民を皆殺しにして土地を牧草地にしようとしました。
耶律楚材はそれを止め、農耕民から税をとることを提案。それを実行して大きな収入を上げました。
チンギスハンの名言
荒ぶる敵には、鷹の如くに
人間の最も大きな喜びは、敵を打ち負かし、これを眼前よりはらい、その持てるものを奪い、その身よりの者の顔を涙にぬらし、その馬に乗り、その妻や娘をおのれの腕に抱くことである。
我が身を治めるなら、我が心から修めよ。
次に来る旅人のために、泉を清く保て