【遊牧の民】契丹とはどんな人々?歴史や文字、文化、遼についても解説

「契丹ってなに?」
「契丹は渤海や高麗、女真人と何が違うの?」
「契丹と中国はどんな関係?」

10世紀の契丹の版図

この記事にたどり着いたあなたは、このようにお考えではないでしょうか。契丹とは、モンゴル高原東部を拠点とし、モンゴル高原や中国東北部、北京周辺の燕雲十六州などを支配した遊牧民です。

広大な領土を支配した契丹は「キタイ帝国」ともよばれ、東アジア有数の強さを誇ります。契丹は中国の混乱に乗じて北京周辺の燕雲十六州を獲得しました。契丹はモンゴル高原などの遊牧民と燕雲十六州の漢人(中国人)を別の仕組みで統治する二重統治体制をとります。

中国王朝としてもふるまう必要が出たため、遼という中国風の国号も使用しました。この記事では契丹の起源や歴史、文化・風俗、契丹と中国の関係などについて解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

契丹とは

遊牧民の移動式住居ゲル

契丹の起源

1344年、中国を支配していた元王朝は契丹の歴史をまとめた『遼史』を編纂しました。これによると、契丹人は白馬にのった神人と青い牛の牛車にのった天女を祖先とし、彼らの子孫が契丹八部族であるとされます。

4世紀から8世紀にかけての契丹は中国王朝と戦っては敗れ、中国に従う中小部族の一つにすぎませんでした。

唐王朝に抑えられていた契丹は、9世紀になると少しずつ力をつけます。唐王朝の末期にあたる9世紀末には、周辺の部族を従え、万里の長城以北で最も強い力を持つようになりました。

耶律阿保機(やりつあぼき)による契丹統一

耶律阿保機は契丹人の有力氏族耶律氏の家に生まれました。907年に契丹の王である可汗に即位します。耶律阿保機は907年から911年にかけておきた反乱を鎮圧し、権力基盤を固めました。

国内を安定化させた耶律阿保機は916年に国号を契丹(キタイ)と定めます。このころから、遊牧民と定住農耕民を別々に治めるしくみがはじまったようです。

契丹の領土拡大

部族を統一した契丹にとって、一番の強敵は東の渤海です。渤海は唐王朝からも「海東の盛国」と認められるほど繁栄した国でした。 耶律阿保機は渤海とたびたび戦い、渤海を征服しました。二代皇帝の耶律堯骨(徳光)は中国の内紛に乗じて北京周辺の燕雲十六州を手に入れます。

さらに、契丹は朝鮮半島を支配していた高麗に対し5度も出兵し、一時は都の開京も占領します。しかし、高麗軍の激しい抵抗で損害が増したため、征服を断念しました。 こうして、遼はモンゴルや中国東北部、北京周辺の燕雲十六州を支配する大国に成長しました。

女真人が金を建国

完顔阿骨打

11世紀初め、遼は中国を統一した宋と戦い、澶淵の盟(せんえんのめい)とよばれる和約を結びました。これにより、毎年、宋から莫大な貢物を得るようになります。すると、遼の王族や貴族たちは贅沢になれ、次第に武備をおろそかにするようなりました。

遼の力が弱まると、中国東北部に住んでいた女真人が力をつけ始めます。1115年、完顔阿骨打(かんがんあぐだ)がそれまでバラバラだった女真人を統一し、金を建国します。武力に優れた金は、次第に遼を圧倒するようになりました。

宋と金による挟み撃ち

金に目を付けたのが遼に不利な条約を結ばされ、貢物を献上していた宋です。宋は金に遼を挟み撃ちにすることを提案します。 金を建国したてで、勢いに乗っている金は宋の提案を受け入れます。新進気鋭の金軍は弱体化した遼軍に各地で勝利します。宋軍は金と比べると弱く、あまり貢献できませんでした。

契丹の滅亡と西遼の建国

契丹滅亡後の東アジア世界

滅亡の危機にあった契丹の皇帝は天祚帝(てんそてい)といいます。天祚帝は非常に暗愚で、臣下の意見も聞き入れませんでした。1125年、金は衰退した遼にとどめを刺すべく進軍し、天祚帝を捉えました。これにより、遼は滅亡します。 滅亡寸前の混乱の中、後続の耶律大石は部下や親族を引き連れ西へと脱出します。中央アジアに入った耶律大石は、現地の王朝であるカラ=ハン朝を滅ぼし、カラ=キタイ(西遼)を建国しました。

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