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【遊牧の民】契丹とはどんな人々?歴史や文字、文化、遼についても解説

「契丹ってなに?」
「契丹は渤海や高麗、女真人と何が違うの?」
「契丹と中国はどんな関係?」

10世紀の契丹の版図

この記事にたどり着いたあなたは、このようにお考えではないでしょうか。契丹とは、モンゴル高原東部を拠点とし、モンゴル高原や中国東北部、北京周辺の燕雲十六州などを支配した遊牧民です。

広大な領土を支配した契丹は「キタイ帝国」ともよばれ、東アジア有数の強さを誇ります。契丹は中国の混乱に乗じて北京周辺の燕雲十六州を獲得しました。契丹はモンゴル高原などの遊牧民と燕雲十六州の漢人(中国人)を別の仕組みで統治する二重統治体制をとります。

中国王朝としてもふるまう必要が出たため、遼という中国風の国号も使用しました。この記事では契丹の起源や歴史、文化・風俗、契丹と中国の関係などについて解説します。

契丹とは

遊牧民の移動式住居ゲル

契丹の起源

1344年、中国を支配していた元王朝は契丹の歴史をまとめた『遼史』を編纂しました。これによると、契丹人は白馬にのった神人と青い牛の牛車にのった天女を祖先とし、彼らの子孫が契丹八部族であるとされます。

4世紀から8世紀にかけての契丹は中国王朝と戦っては敗れ、中国に従う中小部族の一つにすぎませんでした。

唐王朝に抑えられていた契丹は、9世紀になると少しずつ力をつけます。唐王朝の末期にあたる9世紀末には、周辺の部族を従え、万里の長城以北で最も強い力を持つようになりました。

耶律阿保機(やりつあぼき)による契丹統一

耶律阿保機は契丹人の有力氏族耶律氏の家に生まれました。907年に契丹の王である可汗に即位します。耶律阿保機は907年から911年にかけておきた反乱を鎮圧し、権力基盤を固めました。

国内を安定化させた耶律阿保機は916年に国号を契丹(キタイ)と定めます。このころから、遊牧民と定住農耕民を別々に治めるしくみがはじまったようです。

契丹の領土拡大

部族を統一した契丹にとって、一番の強敵は東の渤海です。渤海は唐王朝からも「海東の盛国」と認められるほど繁栄した国でした。 耶律阿保機は渤海とたびたび戦い、渤海を征服しました。二代皇帝の耶律堯骨(徳光)は中国の内紛に乗じて北京周辺の燕雲十六州を手に入れます。

さらに、契丹は朝鮮半島を支配していた高麗に対し5度も出兵し、一時は都の開京も占領します。しかし、高麗軍の激しい抵抗で損害が増したため、征服を断念しました。 こうして、遼はモンゴルや中国東北部、北京周辺の燕雲十六州を支配する大国に成長しました。

女真人が金を建国

完顔阿骨打

11世紀初め、遼は中国を統一した宋と戦い、澶淵の盟(せんえんのめい)とよばれる和約を結びました。これにより、毎年、宋から莫大な貢物を得るようになります。すると、遼の王族や貴族たちは贅沢になれ、次第に武備をおろそかにするようなりました。

遼の力が弱まると、中国東北部に住んでいた女真人が力をつけ始めます。1115年、完顔阿骨打(かんがんあぐだ)がそれまでバラバラだった女真人を統一し、金を建国します。武力に優れた金は、次第に遼を圧倒するようになりました。

宋と金による挟み撃ち

金に目を付けたのが遼に不利な条約を結ばされ、貢物を献上していた宋です。宋は金に遼を挟み撃ちにすることを提案します。 金を建国したてで、勢いに乗っている金は宋の提案を受け入れます。新進気鋭の金軍は弱体化した遼軍に各地で勝利します。宋軍は金と比べると弱く、あまり貢献できませんでした。

契丹の滅亡と西遼の建国

契丹滅亡後の東アジア世界

滅亡の危機にあった契丹の皇帝は天祚帝(てんそてい)といいます。天祚帝は非常に暗愚で、臣下の意見も聞き入れませんでした。1125年、金は衰退した遼にとどめを刺すべく進軍し、天祚帝を捉えました。これにより、遼は滅亡します。 滅亡寸前の混乱の中、後続の耶律大石は部下や親族を引き連れ西へと脱出します。中央アジアに入った耶律大石は、現地の王朝であるカラ=ハン朝を滅ぼし、カラ=キタイ(西遼)を建国しました。

契丹人の文化や風俗

宋の時代に書かれた契丹人の絵

契丹人の髪型

契丹をはじめとするモンゴル周辺の遊牧民族の髪型は、頭髪の一部を残して剃り上げ、残りの髪の毛のみを伸ばす「辮髪(べんぱつ)」でした。一口に辮髪といっても民族や時代によって、どの部分を残すかはかなり異なっていました。契丹人の場合、頭頂部を大きく削ぎ落す髠髪(こんぱつ)でした。

契丹人の文字

中国周辺の異民族は、西方から伝わったアラム文字やソグド文字、中国の漢字などの影響を受け、民族ごとに独自の文字を生み出しました。契丹文字は主に漢字の参考にして作った文字です。建国者の耶律阿保機が創案したと伝えられます。契丹文字は表意文字と表音文字からなり、1600から1700文字が知られています。そのうち、読み方がわかっているのは180余でまだまだ未解読といってよいでしょう。

契丹と中国の関係

北宋周辺地図

中国の混乱に乗じ、燕雲十六州を獲得

燕雲十六州

唐の重臣朱全忠は、907年に唐を滅ぼし、後梁を建国しました。以後、979年に宋が中国を統一するまで、中国は分裂時代に入ります。この時代を五代十国時代といいました。このうち、華北にできた5つの王朝を五代と呼びます。後梁滅亡後、後唐が成立します。

936年、後唐の臣下だった石敬瑭(せきけいとう)は契丹に支援を求めました。契丹の支援を受けた石敬瑭は後晋を建国しました。後晋は建国支援の見返りに、現在の北京周辺地域である燕雲十六州を契丹に割譲し、毎年、貢物を献上すると約束します。

契丹が行った二重統治体制とは

燕雲十六州を獲得することで、領土の中に漢人農耕民を抱え込んだ契丹は、遊牧民と農耕民を別の仕組みで統治します。遊牧民に対しては以前からの部族制でコントロールし、農耕民に対しては中国風の州権制で統治します。

契丹人は遊牧民の制度を維持しながら、中国的な支配も取り入れました。このような支配の仕組みを二重統治体制といいます。二重統治体制は、金や元、清にも引き継がれました。漢民族の文化に同化せず、自分たちの独自性を維持した王朝を征服王朝と呼びます。

宋との戦いと澶淵の盟

趙匡胤

後周の節度使趙匡胤は960年に中国を統一し、宋を建国します。宋は五代十国の争乱を終わらせ、中国を統一しました。宋王朝にとって、契丹人が支配する燕雲十六州のみがいまだに回復できていない領土となります。宋は連年、契丹と戦いますが軍事力に優れる契丹に勝利することはできませんでした。

1004年、契丹の皇帝聖宗は大軍を率いて宋に侵攻し、宋の都開封に迫りました。同時に北西から西夏の侵攻も受けた宋は契丹と講和を結びます。これが、澶淵の盟です。澶淵の盟の内容は以下の通りです。

宋を兄、契丹(遼)を弟とし友好関係を結ぶこと
宋は毎年、銀10万両と絹20万匹を贈ること

これは、契丹にとって非常に有利な条件でした。しかし、この莫大な贈り物が契丹人を軟弱にし、金によって滅ぼされる原因となったのは何とも皮肉なことです。

契丹に関するまとめ

いかがだったでしょうか。契丹はモンゴル高原から中国東北部や北京周辺を支配した最初の征服王朝でした。中国風の国号である遼を名乗りながらも、完全に中国に同化しなかった点でそれまでの遊牧民とは違う存在となります。

一方、中国側からすれば燕雲十六州を契丹に奪われたままでは完全な中国統一とは言えず、宋王朝はたびたび奪還のため出兵しました。しかし、契丹の軍事力は強く、かえって契丹の侵攻を招き澶淵の盟を結びます。

契丹とはどんな国か、近隣の渤海や高麗、女真人と何が違うのか、中国と契丹の関係はどうだったのかなどについて「そうだったのか!」と思える時間を提供できたら幸いです。それでは、長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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