大谷吉継は、戦国時代中期~後期にかけて活躍した戦国武将です。生まれた日や場所などは明確には判明しておらず、謎に包まれた部分の多い武将ですが、石田三成の盟友として良く知られています。
ただし石田三成の盟友という側面があまりに強く、大谷吉継がどのような人生を歩んできたのかは知らない方も多いのではないでしょうか。
実は大谷吉継は、関ヶ原の戦いで裏切った小早川秀秋を呪い殺したとも言われており、意外と面白いエピソードがたくさんあります。
今回はそんな石田三成の盟友で謎の多き戦国武将、大谷吉継の生涯や人物像について紹介していきます。では早速「石田三成の隣にいる人」だけでは済まされない、大谷吉継の壮絶な人生を見ていきましょう。
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
大谷吉継はどんな人物か?
名前 | 大谷吉継 |
---|---|
通称 | 大谷平馬 大谷紀之介 大谷刑部 大谷吉隆 |
誕生日 | 1559年もしくは1565年 |
生地 | 不明 |
没日 | 1600年10月21日 (慶長5年9月15日) |
没地 | 関ケ原・山中村藤川台 |
配偶者 | 不明 (子はあるため存在したはずだが、記録なし) |
埋葬場所 | 不明 |
墓所 | 福井県敦賀町永賞寺 岐阜県関ケ原町 滋賀県米原市 |
大谷吉継の生涯をハイライト
冒頭でも紹介したように、大谷吉継の出生は謎に包まれていますが、1573年ごろから織田家に仕官し、豊臣秀吉の小姓として仕えるようになったと記録されています。
織田家が滅亡した本能寺の変以後も、豊臣秀吉に仕えて数々の戦いで活躍します。その後、豊臣秀吉が1592年に朝鮮出兵を行い石田三成と共に朝鮮へ行きますが、その頃から失明しかけるほどに病気が悪化したそうです。
ほどなくして病気は回復しますが、1598年に豊臣秀吉が死亡したため、大谷吉継は徳川家康にもとで働き始めました。しかし1600年、親友の石田三成が徳川家康を討つことを決め、大谷吉継も共に戦うことになります。
その関ヶ原の戦いにて、小早川秀秋の裏切りにあった大谷吉継の部隊は壊滅し、最後は切腹しこの世を去りました。
大谷吉継の家紋は2つある
もともと大谷吉継の家紋は「違い鷹の羽」の家紋でしたが、その後「対い蝶」の家紋になっています。つまり大谷吉継の家紋は2種類あります。
1586年、豊臣秀吉が従一位・関白になったことをきっかけに、吉継は刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)に任命され、この際に「対い蝶」に変えたといわれています。刑部少輔は現在の法務大臣に近い役職で罪人の囚禁・裁判・判決などを行っていました。
蝶は、不滅を表すシンボルとして多くの武家に使用されました。「対い蝶」が家紋の武将は他には北条早雲があげられます。
大谷吉継の主君や同僚はだれ?
大谷吉継の主君は豊臣家
大谷吉継は記録に残っている限り、生涯を豊臣家の家臣として過ごしました。
彼の名前が歴史の表舞台に登場するのは、秀吉の中国攻めの頃。中国攻めの際に馬廻り衆(うままわりしゅう、大将の親衛隊)として記載されている、“大谷平馬”の名前が、吉継を示す最初の記載であると言われています。
吉継はその後も秀吉の配下として、主に政治や経済の方面で活躍。豊臣政権下では“刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう、現在で言う法務大臣)”としての任命を受けており、頭の切れる人物であったことが伝わっています。
また、政治方面に優れた逸話が多い吉継ですが、軍略方面の才能も同様に優れていたらしく、秀吉は吉継に対して「一度100万の軍勢を預けて、吉継の自由に指揮をさせてみたい」と漏らしていたことが記録に残っています。
大谷吉継の同僚は優秀な人物ばかり
吉継の同僚には、まさに豊臣家オールスターとも言うべき面々が揃っています。
治部少輔であり、後の西軍の中核である石田三成。賤ケ岳の七本槍の一人であり、虎殺しの逸話が有名な加藤清正(かとうきよまさ)。清正同様に賤ケ岳の七本槍に名を連ねる槍の名手・福島正則(ふくしままさのり)。キリシタン大名の小西行長(こにしゆきなが)など、有能かつ個性的な面々が、吉継と同年代の同僚としては特に有名です。
もっとも、吉継と同年代の彼らはそれぞれに優秀な能力を持つ半面、とても我が強い人物が多く、あまり仲の良い関係ではなかったと伝わっています。理屈屋で冷徹な石田三成と、直情的で熱血漢な福島正則の不仲。古風な価値観を良しとする熱心な仏教徒の加藤清正と、革新的な価値観を良しとする熱心なキリスト教徒の小西行長の不仲に関しては、現在でも特に有名です。
しかし吉継には、同僚との不仲のエピソードはほとんど残っていません。それどころか、石田と小西のような文治派、加藤と福島のような武断派を問わず、多くの同僚たちから相談を受けるなど、その頭脳を頼りにされていたことが伝えられています。
同僚たちとの付き合いの中では、やはり石田三成との友情が有名であり、“茶会”のエピソードや“関ケ原直前”のエピソードなど、謀略渦巻く戦国時代に似合わない、清廉かつ感動的なエピソードが多く残っています。
それらのエピソードについては、後の項で詳しく解説させていただきます。
病気だった?大谷吉継の“白い頭巾”の意味
吉継と言えば、ドラマやゲームでも描かれる通り“顔全体を隠す白い頭巾”がトレードマークとなっています。硬めの眼帯がトレードマークの、いわゆる「独眼竜」伊達政宗(だてまさむね)や、“愛”の兜の直江兼続(なおえかねつぐ)など、インパクトのある見た目が多い戦国武将の中でも、ひときわ異彩を放つその容貌ですが、その容貌にはきちんとした意味がありました。
吉継は病に侵されており、それによって変化してしまったその姿を隠すために、白い頭巾で顔を覆っていたというのが、その異装の理由であるとされています。彼が罹患していた病は、通説としてはハンセン病。異説としては、組織が壊死して崩れるほどに末期の梅毒であるという説が有力です。
吉継の病の進行は歴史書の中からも読み取れ、1594年ごろの吉継の書状には、「目を病んでしまったため、自筆ではなく印によって失礼いたします」と言う旨の記載がある他、関ケ原の参陣の際には、もう自らの足で立つこともままならず、輿に乗って出陣し、鎧もほとんど意味を成さないほどに軽いものを着用していたと記録されています。
大谷吉継の子孫・津田捨蔵は幕末時代に会津藩士として活躍
幕末時代に会津藩士として活躍した津田捨蔵は、大谷吉継の子孫と言われています。津田捨蔵は会津戦争に備えて会津藩が組織した部隊・白虎隊の一員として活躍しましたが、1863年、飯盛山にて自刃しました。
現在も飯盛山には津田捨蔵含む自刃した16人の合同墓があります。2007年のテレビドラマ「白虎隊」では斉藤祥太が津田捨蔵を演じています。
大谷吉継の死因は?
大谷吉継の最期は、関ケ原の戦いでの壮絶な討死でした。
吉継が関ケ原の戦いで布陣したのは、山中村の藤川台。西軍の本陣と、小早川軍が布陣する松尾山の、ちょうど中間に当たる地点でした。このことから、吉継は当初より小早川秀秋の裏切りを警戒していたことが分かります。
吉継の予想通り、小早川軍が西軍を裏切って大谷軍に攻めかかると、それを予期していた吉継は直属の兵600人を用いて撃退。攻め寄せる小早川軍は1万5千人程だったとも言われており、兵力差は単純計算でも20倍以上。それを一度は跳ね返し、あまつさえ小早川軍を後退までさせているのですから、吉継の指揮が冴えわたっていたことに、疑いを挟む余地はないでしょう。
しかし吉継が予想できたのは、小早川の裏切りまで。小早川に追従するように、大谷軍の周囲に布陣していた諸将が次々と謀反することまでは、さすがの吉継も読み切れなかったようです。謀反を起こした軍勢に囲まれる中、大谷軍は奮戦するも、四方から押し寄せる軍勢を捌ききることはできず、ついに壊滅。吉継はその場で腹を切って自害し、その首は家臣である湯浅五助(ゆあさごすけ)によって、東軍に発見されることが無いように隠されて埋められたとされています。
大谷軍が壊滅し、吉継が自害したことによって、関ケ原の戦局は一気に東軍優勢に。吉継の死が引き金となって西軍の敗北に繋がっていったことからも、彼の存在が西軍、ひいては三成にとって、どれほど大きなものだったかが分かります。
辞世の句は「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」。これは関ケ原の戦い直前に、仲間から惜別の言葉として贈られた「君がため 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっており、情に厚く、教養のある吉継の人柄が伺える辞世の句となっています。
大谷吉継の功績
功績1「秀吉の家臣として数多くの戦果をあげる」
大谷吉継は豊臣秀吉の家臣として、数多くの戦場で戦い抜き、戦果をあげていきました。
備中高松城攻め、賤ケ岳の戦い、九州征伐、小田原征伐などなど、豊臣秀吉が行った大きな戦いには必ずといってもいいほど参戦し、豊臣秀吉の天下統一に大きく貢献しました。
豊臣政権下で刑部少輔に任命されていることから、豊臣秀吉からもかなり大きな信頼を受けていたと考えられます。
功績2「関ヶ原の戦いでは石田三成とともに戦い抜く」
大谷吉継は「関ヶ原の戦い」では石田三成と共に戦い抜きました。結果として小早川秀秋の裏切りに合い、自ら命を断ちますが、負けると分かっていながら石田三成との友情を優先して参戦した、というエピソードは今でも多くの人に愛されています。
また大谷吉継は「関ヶ原の戦い」でも持ち前の頭の良さを使って、東軍を翻弄したともいわれています。小早川秀秋の裏切りが無ければ「関ヶ原の戦い」は大谷吉継の力で勝っていたのかもしれません。