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大谷吉継の生涯・歴史年表まとめ【病気の真相や三成との関係も解説】

大谷吉継は、戦国時代中期~後期にかけて活躍した戦国武将です。

現代において、あまり名の知られた武将ではありませんが、歴史ドラマやゲーム好きの方には「よく石田三成の近くにいる、白い頭巾を被った武将」と言えば、心当たりのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

彼のエピソードは、ドラマでの描かれ方同様に、石田三成と関係するエピソードが多く、中でも“秀吉主催の茶会”のエピソードは、彼らの友情を示すエピソードとして、歴史好きの間では有名なエピソードとなっています。

常に白い頭巾をかぶっているという異装や、三成との友情のエピソードが有名な吉継ですが、彼自身にまつわるエピソードや、彼自身の人柄や功績については、あまり一般に知られているとは言えません。

しかし、歴史好きとして有名な俳優の東出昌大さんなどを筆頭に、戦国時代好きの間では人気のある武将であり、多くのコアなファンを持つ武将でもあります。

この記事では、そんなコアな歴史ファンたちを魅了してやまない、大谷吉継と言う人物について、深掘りしていきたいと思います。

※この記事では読みやすさの観点から、大谷吉継を示す呼称は「吉継」で統一させていただきます。ご留意ください。

目次

大谷吉継ってどんな人?

名前大谷吉継
通称大谷平馬
大谷紀之介
大谷刑部
大谷吉隆
誕生日1559年もしくは1565年
生地不明
没日1600年10月21日
(慶長5年9月15日)
没地関ケ原・山中村藤川台
配偶者不明
(子はあるため存在したはずだが、記録なし)
埋葬場所不明
墓所福井県敦賀町永賞寺
岐阜県関ケ原町
滋賀県米原市

大谷吉継の出生は?

吉継の出生について、と言うよりも吉継の前半生については、そのことごとくが謎に包まれています。単純な出生地や出生年ですら見解が分かれている状況で、特に彼の幼いころのエピソードや幼名などの基本情報は、全くと言っていいほど記録に残っていません。

吉継の母に関しては、東殿という高台院(秀吉の正室・ねね)の取次役であることが分かっていますが、父が誰であるのかについては多くの説が存在しています。代表的な物としては、近江の六角氏の家臣・大谷義房(おおたによしふさ)であるという説、豊後の大友氏の家臣・大谷盛治(おおたにもりはる)であるという説、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍であるという説が存在し、それぞれに今でも拮抗している状態にあります。そのため、「吉継の父は誰なのか?」という問題については、現在も研究が待たれている状態となっています。

2019年現在の通説としては、出生地は近江国、出生年は1565年と言う説が有力であり、それに伴って、六角氏の家臣である大谷義房の子と言う説が有力なようです。

大谷吉継の主君は?

大谷吉継は記録に残っている限り、生涯を豊臣家の家臣として過ごしました。

彼の名前が歴史の表舞台に登場するのは、秀吉の中国攻めの頃。中国攻めの際に馬廻り衆(うままわりしゅう、大将の親衛隊)として記載されている、“大谷平馬”の名前が、吉継を示す最初の記載であると言われています。

吉継はその後も秀吉の配下として、主に政治や経済の方面で活躍。豊臣政権下では“刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう、現在で言う法務大臣)”としての任命を受けており、頭の切れる人物であったことが伝わっています。

また、政治方面に優れた逸話が多い吉継ですが、軍略方面の才能も同様に優れていたらしく、秀吉は吉継に対して「一度100万の軍勢を預けて、吉継の自由に指揮をさせてみたい」と漏らしていたことが記録に残っています。

大谷吉継の同僚は?

吉継の同僚には、まさに豊臣家オールスターとも言うべき面々が揃っています。

治部少輔であり、後の西軍の中核である石田三成。賤ケ岳の七本槍の一人であり、虎殺しの逸話が有名な加藤清正(かとうきよまさ)。清正同様に賤ケ岳の七本槍に名を連ねる槍の名手・福島正則(ふくしままさのり)。キリシタン大名の小西行長(こにしゆきなが)など、有能かつ個性的な面々が、吉継と同年代の同僚としては特に有名です。

もっとも、吉継と同年代の彼らはそれぞれに優秀な能力を持つ半面、とても我が強い人物が多く、あまり仲の良い関係ではなかったと伝わっています。理屈屋で冷徹な石田三成と、直情的で熱血漢な福島正則の不仲。古風な価値観を良しとする熱心な仏教徒の加藤清正と、革新的な価値観を良しとする熱心なキリスト教徒の小西行長の不仲に関しては、現在でも特に有名です。

しかし吉継には、同僚との不仲のエピソードはほとんど残っていません。それどころか、石田と小西のような文治派、加藤と福島のような武断派を問わず、多くの同僚たちから相談を受けるなど、その頭脳を頼りにされていたことが伝えられています。

同僚たちとの付き合いの中では、やはり石田三成との友情が有名であり、“茶会”のエピソードや“関ケ原直前”のエピソードなど、謀略渦巻く戦国時代に似合わない、清廉かつ感動的なエピソードが多く残っています。

それらのエピソードについては、後の項で詳しく解説させていただきます。

病気だった?大谷吉継の“白い頭巾”の意味は?

吉継と言えば、ドラマやゲームでも描かれる通り“顔全体を隠す白い頭巾”がトレードマークとなっています。硬めの眼帯がトレードマークの、いわゆる「独眼竜」伊達政宗(だてまさむね)や、“愛”の兜の直江兼続(なおえかねつぐ)など、インパクトのある見た目が多い戦国武将の中でも、ひときわ異彩を放つその容貌ですが、その容貌にはきちんとした意味がありました。

吉継は病に侵されており、それによって変化してしまったその姿を隠すために、白い頭巾で顔を覆っていたというのが、その異装の理由であるとされています。彼が罹患していた病は、通説としてはハンセン病。異説としては、組織が壊死して崩れるほどに末期の梅毒であるという説が有力です。

現在の通説であるハンセン病は、当時は「業病」と呼ばれ、前世の罪に対する報いとして罹患する病とされていました。そのため、病魔に侵された吉継への周囲の反応は、決して良いものではなく、辻斬り騒動があった際には「大谷が自分の治療のために辻斬りを行っている(業病は、自身の患部と同じ部位を食べることで治療することができると言われていた)」との噂を流され、その噂に心底から悩まされていたことも記録に残っています。

吉継の病の進行は歴史書の中からも読み取れ、1594年ごろの吉継の書状には、「目を病んでしまったため、自筆ではなく印によって失礼いたします」と言う旨の記載がある他、関ケ原の参陣の際には、もう自らの足で立つこともままならず、輿に乗って出陣し、鎧もほとんど意味を成さないほどに軽いものを着用していたと記録されています。

もっとも、「吉継が白い頭巾を着用していた」と言う記載は、正統とされる歴史書には存在しておらず、「白い頭巾で顔を隠した武将・大谷吉継」のイメージは、江戸時代中期ごろの逸話集によって植え付けられたものであるとされています。

また、現在の研究では「そもそも吉継はハンセン病ではなかったのではないか?」と言う説も存在しています。ハンセン病であること自体が、江戸時代の逸話集によって植え付けられたイメージであると言う説ですが、少なくとも吉継が「自筆で文書を書くことが困難なほどの視力の低下」や「輿に乗って出陣しなければならない程の手足の弱体化」を伴う病に侵されていたことは確かです。

大谷吉継と石田三成の関係は?

先述した通り、吉継と三成は同僚として、共に豊臣家に仕えました。しかし、ただのビジネスライクな同僚関係ではなく、共に近江出身(吉継に関しては異説あり)の秀吉旗下の武将であり、かつ共に政治経済の分野に長けた頭脳派の官僚であったことも手伝って、彼らの間には深い友情があったようです。

吉継と三成の友情を示すエピソードとしては、やはり彼らの友情の始まり、“茶会”のエピソードが最も有名でしょう。

1587年、大阪城で茶会が開かれました。当時の茶会は、一つの湯呑の茶を回し飲みするスタイルが一般的であり、出席していた者たちはその作法に従って茶を楽しんでいました。しかし、吉継に茶が回ったその時、事件が起こってしまいます。病に罹患していた吉継の顔から膿が垂れ、茶の中に落ちてしまったのです。集まっていた諸将は皆一様に嫌な顔をし、吉継はどうしていいのか分からず、湯呑を持ったまま固まってしまいます。

しかし、そんな中で立ち上がったのが三成でした。三成はふと立ち上がると、吉継から湯呑を奪いとり、一息に膿ごと中身を飲み干してからこう言ったのです。

喉が渇いていたので、全て飲み干してしまった。代わりの茶をもう一杯お願いしたい

そう言って、そのことを恩に着せるでも無く話しかけてくる三成に、吉継はいたく感激し、彼に対する強い友情を感じたと言われています。

吉継と三成はそのエピソードを機に、互いに言い合いができる親友となったらしく、1600年、打倒徳川のための挙兵を持ち掛けてきた三成に対し、吉継は「お前は横柄で人気がないから、挙兵するなら別の人物を大将にしろ」と率直に進言しています。

ともすれば大喧嘩にすらなりかねない、率直すぎる一言ですが、三成はそれを受け入れて、西軍の大将を毛利輝元に譲るなど、吉継の言葉に素直に従っています。また、吉継も西軍に勝ち目が無い事を理解しつつ、それでも西軍として関ケ原に参戦しています。吉継と家康も悪くない関係であったため、吉継は悩んだ末に、三成との友情を取ったのでしょう。

謀略渦巻く戦国末期の情勢の中での、この友情を示すエピソードは、現在でも多くのコアなファンを持つ吉継の人気を支えるエピソードとして有名です。

大谷吉継と徳川家康の関係は?

関ケ原の戦いでこそ、西軍として家康と戦って、戦場で壮絶な討死を遂げた吉継ですが、徳川家康との関係も、さほど悪いものではなかったことが伝わっています。

親友の三成は家康を何かと目の敵にしていましたが、吉継は逆に家康のことを「天下人としての器量を持つ人物」「信用するに足る御方」と高く評価していたようです。特に関ケ原の挙兵に際しては、それを持ち掛けてきた三成に対して「石高や兵力、武力や経験、人徳の差など、全てにおいてお前が徳川殿に勝てる要素がない」とまで言って三成を諌めた、と言う逸話も存在しています。

家康の方も、自信が天下を治めるにあたって、まずは秀吉子飼いの諸将の内、吉継を家臣として囲い込もうとするなど、吉継のことを大いに買っていたことを示すエピソードも残っています。

もしも吉継が、家康の誘いに乗って東軍として参戦していたとしたら……。吉継の性格上あり得ない仮定ではありますが、想像してみるのも面白いかもしれません。

大谷吉継の死因は?

大谷吉継の最期は、関ケ原の戦いでの壮絶な討死でした。

吉継が関ケ原の戦いで布陣したのは、山中村の藤川台。西軍の本陣と、小早川軍が布陣する松尾山の、ちょうど中間に当たる地点でした。このことから、吉継は当初より小早川秀秋の裏切りを警戒していたことが分かります。

吉継の予想通り、小早川軍が西軍を裏切って大谷軍に攻めかかると、それを予期していた吉継は直属の兵600人を用いて撃退。攻め寄せる小早川軍は1万5千人程だったとも言われており、兵力差は単純計算でも20倍以上。それを一度は跳ね返し、あまつさえ小早川軍を後退までさせているのですから、吉継の指揮が冴えわたっていたことに、疑いを挟む余地はないでしょう。

しかし吉継が予想できたのは、小早川の裏切りまで。小早川に追従するように、大谷軍の周囲に布陣していた諸将が次々と謀反することまでは、さすがの吉継も読み切れなかったようです。謀反を起こした軍勢に囲まれる中、大谷軍は奮戦するも、四方から押し寄せる軍勢を捌ききることはできず、ついに壊滅。吉継はその場で腹を切って自害し、その首は家臣である湯浅五助(ゆあさごすけ)によって、東軍に発見されることが無いように隠されて埋められたとされています。

大谷軍が壊滅し、吉継が自害したことによって、関ケ原の戦局は一気に東軍優勢に。吉継の死が引き金となって西軍の敗北に繋がっていったことからも、彼の存在が西軍、ひいては三成にとって、どれほど大きなものだったかが分かります。

辞世の句は「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」。これは関ケ原の戦い直前に、仲間から惜別の言葉として贈られた「君がため 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっており、情に厚く、教養のある吉継の人柄が伺える辞世の句となっています。

大谷吉継の名言は?

金のみで人は動くにあらず

関ケ原の挙兵を持ち掛けてきた三成に対し、大谷が放ったとされる苦言。政治の才能はあったが、人徳はなく頑迷だった三成に対し、率直に放たれた諫言です。率直に悪い点を言い合える彼らの友情を感じるとともに、現在の我々――特に、部下を持つ身の方々には心に留め置いてほしい名言だと思います。

大谷吉継にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1 大谷吉継の最期の言葉

先述の通り、関ケ原で壮絶な討死を遂げ、その生涯に幕を下ろした大谷吉継ですが、その最期の言葉も中々に壮絶なものであったと伝えられています。

辞世の句を詠み、腹を切った吉継は、介錯されるまでのほんの少しの間に小早川秀秋の陣を睨みつけ、「三年の間に必ずや祟ってやる」と怒りを露にしたと伝わっています。

その言葉を受けた小早川秀秋は、関ケ原の戦いから2年後の12月に突如として死亡。21歳と言う若さでの急死であったうえ、晩年の秀秋は気が触れてしまっていたという説がある事も手伝って、その早逝が吉継の祟りであるという説は、現在でもまことしやかに囁かれるほどに信ぴょう性が高いものとなっています。

都市伝説・武勇伝2 大谷吉継と真田幸村の関係

並みいる戦国武将の中でも、特に人気の高い武将の一人である真田幸村。そんな彼と吉継には、実は中々に深い関係があることをご存じでしょうか?

その関係と言うのは、なんと義理の親子。吉継の娘である竹林院は、幸村の正室となっている人物なのです。

竹林院と幸村の結婚は、真田家を豊臣勢力に引き込みたい秀吉の意向による政略結婚だったようですが、幸村と竹林院の夫婦仲は、それほど悪くなかったと記録されています。

吉継の娘である竹林院は、幸村のエピソードの中でも有名な、九度山への幽閉に際しても同行して共に幽閉されており、彼女は幸村と共に苦しい生活を経験しつつ、九度山で二人の息子を生んでいます。また、現在でも長野県の名産品として知られる“真田紐”を考案したのは、他でもない竹林院であるという説も存在しています。

また、病身の吉継も、度々草津の温泉地に出向いて湯治をしていたと記録されています。そして何を隠そう、吉継が湯治に訪れていたころの草津を治めていたのは真田家。そのような関係性があったからこそ、吉継は安心して療養できる湯治場として、度々草津を訪れていたのかもしれません。

ドラマやゲームでは、あまりメイン所を張ることが無い吉継ですが、石田三成や真田幸村など、多くの人気武将の影に控えるエピソードが残っています。それらのエピソードを知ってからドラマやゲームに触れると、また違った見え方があるかもしれません。

大谷吉継の年表を簡単にまとめると?

1559or1565年
誕生
生年や父親に関しては不明点が多いですが、1559年もしくは1565年に誕生しました。生地についても、近江説と豊後説が存在し、現在も研究による解明が待たれています。
1573年頃
織田家に仕官。秀吉の小姓に
1573年ごろに織田家に仕官し、出世頭であった羽柴秀吉の小姓として仕えることになります。同じころには石田三成や福島正則も秀吉に仕え始めており、この頃の面々が後の豊臣政権を支えるオールスターとなるのです。
1577年
中国攻めに従軍
中国攻めにおいて、秀吉の馬廻り衆(現在で言う親衛隊)として、福島正則らと共に従軍。この時の記録では、「大谷平馬」として記録されており、この「平馬」が吉継であると言われています。馬廻り衆は、武芸に秀でたものが選抜されるエリートだったこともあり、秀吉が吉継に対して期待をかけていたことが分かります。
1582年
備中高松城攻め
中国攻めの総仕上げである備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)攻めにも、吉継は秀吉の馬廻り衆として従軍。しかし本能寺の変が起き、主家である織田家が滅亡。吉継は以降も秀吉に仕え、彼の天下取りのために尽くします。
1583年
賤ケ岳の戦い
秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)の間に、賤ケ岳の戦いが勃発。実質的な信長の跡目争いでしたが、吉継は秀吉陣営として参戦。長浜城主である柴田勝豊(しばたかつとよ)を調略する戦果を挙げました。
1585年
紀州征伐と改宗
紀州征伐では、増田長盛と共に2000人の兵を率いて参戦。抵抗を続ける杉本荒法師(すごもとあらほうし)を討ち取る武功を上げたことが記録されています。

また、この時期より個人で発給する文書も出てき始め、「大谷紀之介」名義の文書が発給されています。

さらに、この時期にはキリスト教に改宗していたようで、宣教師のガスパール・コエリョに対して、果物と干し柿を贈っていることが記録に残されています。

1585年7月
刑部少輔に叙任
秀吉の関白就任に伴い、吉継も従五位下刑部少輔に叙任を受けることとなります。これによって彼の通称として「大谷刑部」が用いられるようになります。

また、この時期の吉継は自身の家紋を「違い鷹の羽」の家紋から、「対い蝶」の家紋に変更していますが、その理由については分かっていません。

更に9月ごろには、秀吉の有馬温泉湯治に、石田三成らとともに同行。秀吉の側近としての地位は、このあたりで固まってきたと言えそうです。

1586年
九州征伐
九州征伐では、兵站奉行に任ぜられた石田三成の指揮下で、主に文官として活躍しました。同じ年に三成が堺奉行に任じられた際も、その下で実務を担当しています。

また、この時期には大阪城下で辻斬りが発生。「大谷が自身の治療のために行っているのでは?」という噂が立っていたことが明らかになっているため、吉継の発病はこれよりも前の事だったと考えることができそうです。

1587年
大阪城の茶会
この年の大阪城の茶会において、吉継と三成の友情を決定づける事件が起こります。吉継の顔から滲んだ膿が茶の中に落ちてしまい、誰もが凍り付いてその茶に口を付けようとしない中、三成が一息にその茶を飲み干した、という有名なエピソードです。

詳しくは、「大谷吉継と石田三成の関係は?」の項や、後述する具体年表をご覧下さい。

1588年時点
奉行格に列席
この年に、毛利輝元(もうりてるもと)が上洛。輝元は上洛の際に、世話になったりあいさつ回りをした武将について、細かく記録していましたが、その中に石田三成、増田長盛と同列で、大谷吉継の名前が見られます。二人と同列に名が並べられていたため、この時点で吉継も、奉行に名を連ねていたことが分かります。
1589年
敦賀城2万石の城主に
この年、吉継は越前国(現在の福井と岐阜)の敦賀城(つるがじょう)を与えられ、城主となります。寺社への寄進や、地場産業の育成に積極的に取り組んだことが記録されており、領民からも「義理堅く、慈悲深い殿様」「命を賭してその恩に報いたいと思う」と、高く評価されていたことが伝わっています。
1590年
小田原、奥州に従軍。5万石を与えられる
秀吉の天下を決定づける大戦、小田原征伐や、その後の奥州仕置にも従軍。小田原城では忍城(おしじょう)攻略に参加し、忍城攻略の総大将を務めた三成の補佐に当たっています。

奥州仕置の際には、出羽国の検地を行った他、奥州の勢力、安東氏の家臣である蠣崎慶広(かきざきよしひろ)から相談を受け、蠣崎氏の独立と、豊臣家への臣従の執り成しを行ったことが記録されています。

また、奥州の検地からの帰還後には、大幅な加増を受け、いわゆる「敦賀5万石」の城主となりました。

1592年
朝鮮出兵(文禄の役)
朝鮮出兵(文禄の役)の際には、吉継は船奉行、軍監として秀吉に貢献。主に船舶の調達や物資輸送を手配する官僚として手腕を発揮し、手柄を上げています。

6月には、三成や増田長盛と共に自身も海を渡り、出兵した諸将の指導や報告のとりまとめ業務に当たった他、和平交渉のための使節と秀吉の面会を取り付けることも成功させました。

1594年
病状の悪化
前年に朝鮮出兵(文禄の役)がとん挫したこの年。吉継の病状は悪化し、娘である竹林院が嫁いだ真田家が治める、草津へと湯治に赴いています。

この頃の吉継は殆ど失明しかけていたようで、直江兼続に宛てた書状には、当時一般的だった花押による署名ではなく、印判で署名をすることに対する詫びと断わりの一文を見ることができます。

1598年
秀吉の死後、家康に接近
この年の8月に、主君である秀吉が死去。秀吉の死に際して、吉継は五大老の筆頭格だった家康に接近。家康と同じ五大老である前田利家(まえだとしいえ)と家康が険悪になり、徳川邸への襲撃が噂された際には、福島正則らと共に家康の警護に当たっています。
1599年
病状が若干の好転を見せる
吉継はこの年、神道家である神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)と共に女能を見物していたと記録されています。そのため、この時期は病状が好転しており、少なくとも失明は免れていたようです。
1600年7月
三成より、打倒家康の誘いを持ち掛けられる
この頃、家康は会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に謀反の疑いがあるとし、上杉討伐のために挙兵。

吉継もその挙兵に参加し、その道中で、三成が蟄居させられている佐和山城へ立ち寄ります。三成と家康を仲裁するため、三成の子を自軍に引き入れることを進言する吉継ですが、三成は吉継に対し、打倒家康のための挙兵を持ち掛けます。

「勝ち目がない」と反論する吉継でしたが、三成の固い決意に押される形で挙兵を承諾。以降大谷家は一族を上げて、西軍として行動を開始します。

1600年9月15日午前
関ケ原の戦い、開戦
天下分け目の大戦である関ケ原の戦いが勃発。

西軍として参戦した吉継は、関ケ原の西南部に位置する山中村の藤川台に布陣し、後方指揮官として軍の指揮に当たりました。

午前中は藤堂高虎(とうどうたかとら)、京極高知(きょうごくたかとも)の部隊と交戦し、奮戦。互いに一歩も引かない戦いを繰り広げました。

1600年9月15日午後
小早川秀秋の裏切りと、壮絶な最期
午前は西軍優勢だった関ケ原の戦いでしたが、午後、小早川秀秋の裏切りによって状況は一変。初めから小早川の裏切りを警戒し、小早川軍と西軍本陣を隔てるように陣取っていた大谷軍は、小早川軍と、それに呼応して裏切った勢力の猛攻撃を受けることになってしまいます。

奮戦する大谷軍でしたが、四方から押し寄せる数の暴力には勝つことができず壊滅。吉継は家臣である湯浅五助に、自身の首を隠すように頼んで切腹。関ケ原の戦場に、その命を散らしたのでした。

大谷吉継の年表を具体的にまとめると?

1559or1565年 – ??歳「大谷吉継、誕生」

後の義将、大谷吉継の誕生

1559年、もしくは1565年に、大谷吉継は誕生したとされています。現在は1565年生まれという説が有力となっていますが、確定的な証拠は見つかっていません。

彼の前半生はほとんど記録に残っておらず、母が高台院の取次役である、東殿と言う女性であるということ以外は、ほとんど何も情報がないのが現状です。

父親については、近江国の六角氏の旧臣である大谷義房であるという説が現在の通説となっていますが、豊後の国の大友氏の家臣である大谷盛治であるという説や、青蓮院門跡坊官である大谷泰珍であるという説も根強く残っているため、現在でも確定的なことはわかっていない状態となっています。そのため、吉継の生地についても、近江説と豊後説が混在しており、現在でも議論の対象となっています。

幼名に関しては「紀之介」とする説が多いですが、記録そのものに幼名は残っておらず、「大谷紀之介」の名義は吉継が後に公的な文書で使用した名前でもあるため、幼名と考えるには不自然さも残っています。

ともかく、吉継の前半生についての記録は全くと言っていい程残っておらず、彼の幼年期が謎に包まれていることは確かです。吉継の名が広く知られるきっかけとなるのは、織田家の出世頭である、羽柴秀吉に仕官した後の事。それにはまだ、長い時間が必要でした。

1573年頃 – ??歳「織田家に仕官。羽柴秀吉の小姓として使える」

織田家に仕官。羽柴秀吉の小姓に

1573年(天正元年)頃に、吉継は秀吉の小姓として取り立てられたと言われています。明確な年に関しては分かっていませんが、歴史書に「秀吉公が長浜城に在城されている頃に見出された」と記載されているため、1573年~1575年ごろに仕官したとする説が有力です。

吉継の仕官については、同郷の近江出身であり、一足早く秀吉に仕えていた石田三成からの推薦があったとも言われていますが、真相は定かではありません。三成が秀吉に仕え始めた正確な年もわかっていないため、吉継と三成の友情エピソードから生じた、作り話の可能性が高いでしょう。

この時期の秀吉の下には、前述の石田三成を筆頭に、数多の武勲で名を残す福島正則、加藤清正と言った優秀な若武者たちが揃っていました。彼らは皆、秀吉肝いりの家臣たちとして、後の豊臣政権を支えるオールスターとなっていくのです。

1577年 – ??歳「秀吉の中国攻めに従軍」

中国攻めに馬廻り衆として従軍

この年、秀吉は中国攻めの総指揮官に任ぜられ、姫路城を拠点に中国制圧に乗り出しました。

吉継はこの時、秀吉の近くに控え、伝令や事務的な業務、決戦時の兵力を担当する馬廻り衆の一人として参戦。「大谷平馬」の名前で、歴史書に記載が残っています。これによって初めて、吉継は歴史上に名を表しました。

吉継以外の馬廻り衆は、先述の福島正則と加藤清正や、その二人同様、後に「賤ケ岳の七本槍」と称される脇坂安治(わきざかやすはる)などが名を連ねており、秀吉旗下の武将たちにとって、この頃の馬廻り衆が、いわば登竜門であったことがわかります。

そもそも馬廻り衆という役職自体が、文武に優れたものでなければ務まらない役職であったこともあり、秀吉が馬廻り衆の若手たち、ひいては吉継にも、大きく期待をかけていたことが伝わります。

1582年 – ??歳「備中高松城攻めと、本能寺の変」

備中高松城攻め

この年には中国攻めが佳境に入り、大一番である備中高松城攻めが勃発。吉継はこの時も、秀吉の馬廻り衆として参戦していました。

この頃の吉継に与えられた禄については諸説がありますが、150石か250石という説が有力です。しかし、明確に石高が記載された資料は存在しておらず、吉継がどの程度の石高を得ていたのかについては、詳しくは分かっていません。

本能寺の変が勃発

中国攻めが佳境に入る中、京都・本能寺にて突如として明智光秀が謀反。吉継にとっては主君よりも上の人物でもある、天下取りの第一勢力だった織田信長が討ち取られてしまいます。

これによって宙に浮いた信長の後継者の座を、秀吉は光秀を討った功績や、清須会議の結果によって得ることに。これにより秀吉は、名実ともに織田の後継者として台頭し始めます。

本能寺の変に際しての吉継の様子は資料には残っていませんが、吉継はこれ以降も秀吉に仕え続けています。

1583年 – ??歳「賤ケ岳の戦い」

羽柴秀吉VS柴田勝家、勃発

織田家の主導権を秀吉が握ることを快く思わない、信長の重臣だった猛将・柴田勝家は、この頃になると秀吉との対立を決定的なものに。

秀吉と勝家の対立は、ついに賤ケ岳の戦いへと発展してしまいます。

賤ケ岳の戦いの際の吉継は、主に調略の方面で活躍。長浜城を治める柴田勝豊を調略し、秀吉の勢力に引き入れるという戦果を挙げています。

「賤ケ岳の三振りの太刀」

吉継は賤ケ岳の戦いの際、槍働きでも多くの功績をあげ、石田三成と共に、「賤ケ岳の七本槍」と並び称される「賤ケ岳の三振りの太刀」と讃えられたとも言われています。しかし現在では、その信ぴょう性は疑問視されています。

歴史書に残る「賤ケ岳の三振りの太刀」は、石河兵助、伊木半七、桜井佐吉の3名。このうちの桜井佐吉の“佐吉”と言う名前が、石田三成の幼名と一致していたことから、三成が「三振りの太刀」であると歴史研究家たちが誤認。そこから、三成と仲の良かった吉継も合わせて、勘違いとして「三成と吉継が三振りの太刀に数えられた」という誤解が広まっていったようです。

とは言え、この2年後には「七本槍」の面々と並んで、従五位下刑部少輔に任命されていることから、吉継がこの数年の間に大きな功績をあげ、秀吉から高い評価を受けていたことは確かです。

1585年 – ??歳「紀州征伐と改宗。そして刑部少輔に」

紀州征伐

この年の吉継は、まずは秀吉の紀州征伐に従軍。同僚である増田長盛と共に2000人の兵を率いて参戦し、最後まで抵抗を続けた紀州の勢力の一人、杉本荒法師を槍で討ち取るという手柄を上げています。

また、この頃になると吉継は、秀吉配下の武将の中でもそれなりの地位を持つようになってきたらしく、「大谷紀之介」という名義での文書の発給が、度々みられるようになります。他にも、秀吉が伊勢長嶋への転居祝いのために、織田信雄(おだのぶかつ)のもとを訪れた際にも同行していたことが記録され、秀吉から信頼されていたことが伺えます。

キリスト教への改宗

吉継ファンにもあまり知られてはいませんが、この時期に吉継は一度、キリスト教に改宗しています。

後のバテレン追放令の際に咎められた旨の記録が無い事から、あくまで一時的な信仰であったようですが、少なくともこの時期に、キリスト教の宣教師と懇意にしていたことは確かなようです。

そのためか、宣教師のガスパール・コエリョが秀吉を訪問した際には、同じくキリシタンであり、宣教師の接待役を務めた安威了佐(あいりょうさ)と共に、ガスパールに対して果物と干し柿を贈っていたとの記録が残っています。

従五位下刑部少輔への叙任

7月には、秀吉が歴史上初めての武家関白に就任。

就任と同時に秀吉は諸大夫12人を置き、吉継はその中の従五位下刑部少輔に任じられることになりました。刑部少輔は、現在で言う法務大臣のような職掌であり、これによって吉継の通称「大谷刑部」が生まれることになります。

また、刑部少輔に任じられたのと時を同じくして、吉継は家紋を「違い鷹の羽」の家紋から「対い蝶」の家紋に変更しています。変更の理由については記録に残っていませんが、武家的で力強い「鷹の羽家紋」よりも、優雅で貴族的な「対い蝶家紋」の方が、自身の職性に合っていると判断したのかもしれません。

また、刑部少輔に任じられた2か月後の9月には、秀吉の有馬温泉湯治にも同行。吉継の秀吉の側近としての地位は、このあたりで固まってきたと言えそうです。

1586年 – ??歳「九州征伐に従軍し、文官として活躍」

九州征伐

この年に起こった島津氏と秀吉の戦、九州征伐において、吉継は兵站奉行に任じられた三成の下について活躍しました。

また、この年に三成が堺奉行に任じられた際も、吉継は三成の下で実務を担当。有能な文官として、三成を大いに助けたことが伝わっています。

大阪城下辻斬り事件

この年になると、大阪城下では辻斬りが頻発。「百人斬り」とすら恐れられたその辻斬りに関して、“ある噂”が流されたことで、吉継はたいそう悩まされることとなります。

その噂と言うのは、「大谷が自身の治療のために、辻斬りを起こしている」というもの。当時の価値観において、吉継が患っていたとされる業病(ハンセン病の事)は、「自身の患部と同じ部位を食べることで治療できる」と信じられていたために、このような噂が流されたのでしょう。もしかすると、病身でありながら秀吉から目を掛けられ、強い信頼を受ける吉継に対する嫉妬もあったのかもしれません。

吉継が病を患ったのが明確にいつなのかは記録に残っていませんが、この事件があったことを考えると、少なくとも1586年よりも前の段階で、吉継が病を患っていたことが分かります。

1587年 – ??歳「大阪城の茶会にて、石田三成と友情を結ぶ」

大阪城の茶会

この年に秀吉が主催した、大阪城での茶会は、吉継の運命に対する重要な転機となりました。このエピソードが無ければ、吉継の運命は180度変わっていたかもしれません。

当時の茶会では、一つの湯呑に一杯の茶を淹れ、それを参加者全員で回し呑むスタイルが一般的でした。この時の茶会でも、このスタイルが取られたのですが、吉継が茶を飲む番になって、ある事件が起こってしまいます。

病身の吉継がお茶を飲もうとした際に、彼の鼻から膿が一滴、お茶の中に落ちてしまったのです。現在は感染性が無いと結論付けられているハンセン病ですが、当時は感染性のある病だと信じられていたために、場は一瞬で凍り付いてしまいます。

吉継自身もどうしていいか分からず、次の列席者に湯呑を回すこともできないまま固まっていると、ある一人の人物がおもむろに立ち上がり、吉継から湯呑を奪い取って一息に飲み干してしまったのです。

誰もが唖然とする中、その男――石田三成は、何事もなかったようにこう言ってのけました。

「余りに喉が渇いていたので、一口だけのつもりが全て飲み干してしまった。すまないが、代わりの茶をもう一杯お願いしたい」

そう言ってのけ、恩に着せる様子もなく話しかけてくる三成に、吉継はいたく感激し、彼に対する強い友情を感じたと伝えられています。

この時の三成との友情こそが、コアなファンを持つ吉継の人気の秘訣、そして吉継と三成の関ケ原の逸話へと繋がっていくのです。

1588年 – ??歳「奉行格へ名を連ねていたことが記録される」

毛利輝元による記録

この年、後に西軍の総大将となる毛利輝元が上洛。輝元は上洛にあたって、世話になったりあいさつ回りをしたりした、豊臣恩顧の武将や大名たちの名前や、彼らに対するお礼の品々についてを詳細に記録しており、その中には吉継の名前もありました。

その記録の中で吉継は、当時の時点で奉行に名を連ねていた三成と同列に名が記載されていました。そのため、吉継はこの時点で、三成と同列である奉行レベルの職掌についていたことがわかっています。

1589年 – ??歳「敦賀城主として、2万石を与えられる」

敦賀城主として、2万石の大名に

この年に、これまでの働きが認められたのか、吉継は越前国敦賀群の敦賀城を与えられ、大名に名を連ねることとなります。

元々文官として優秀な人物であった吉継は、統治政策にも才能を発揮。混み合っていた町割りを、川を境界線とした「川西、川中、川東」の3つにわけることを皮切りに、様々な統治政策を行いました。

敦賀は北方からくる荷物の集積地であったことから、吉継は敦賀の海運業者を支配体制に取り込み、敦賀の海運や港を自身の支配下に。自身が陣頭指揮を執って海運業の効率化をはかった他、港を利用した大谷水軍を結成し、北方の勢力に対するけん制の役割も果たしました。

また、敦賀の刀鍛冶一族に対して免税を行うなど、地場産業の育成に取り組んだことや、寺社や仏閣への寄進を積極的に行っていたことも記録されています。

そんな吉継の敦賀統治は、領民からの評判もとても良かったようで、「義理深く、慈悲深い殿様」「命を懸けてこのご恩に報いたいと思う」など、吉継の統治政策や人柄に対する賞賛の文書が残っています。また、大谷家は家中の統制も取れていたようで、「よく訓練され、北方へのけん制の意を果たすことが日常のようにできている」と絶賛されている記録が残っています。

1590年 – ??歳「小田原攻め、奥州仕置き、そして大規模な加増」

小田原攻めに参戦。三成らと共に忍城攻略に当たる

この年の吉継は、これまでと比べて大規模に動き回ることとなりました。

この年にまず起こったのは、事実上秀吉の天下を決する決戦となった小田原攻め。吉継はこの時、石田三成、長束正家(なつかまさいえ)、真田昌幸(さなだまさゆき)らと組んで、小田原城の支城、忍城(おしじょう)の攻略に当たりました。

彼らは忍城に対して水攻めを行いましたが、結局忍城を陥落させることができず、先に小田原城が落ちたことで終戦。

三成の戦下手を示すエピソードとして語られることも多い忍城攻めですが、これは三成や吉継ら、豊臣方の諸将が悪いというよりも、忍城自体が堅牢な城であったことに原因があると見るべきでしょう。

この忍城攻めについては、和田竜氏の小説作品『のぼうの城』で詳しく、かつ面白く描かれています。

奥州仕置きに従軍。出羽国の検地に当たる

小田原征伐から間を置かず、吉継は奥州仕置きにも同行。吉継はこの時、出羽国(現在の山形県、秋田県)の検地を担当しています。検地の際に、抵抗した農民を代官が切り殺したことがきっかけとなり、一揆が発生する事件も起こりましたが、吉継はこの一揆を、上杉景勝(うえすぎかげかつ)から支援を受けて鎮圧しています。

検地の他にも、奥州の勢力である安東氏の家臣、蠣崎慶広から相談を受け、蠣崎氏の独立の承認と、それに伴う秀吉への臣従の執り成しを行いました。蠣崎氏は後に蝦夷地のアイヌとの交渉を担当することになり、現在の北海道が日本に併合されるきっかけを作ることとなります。

「敦賀5万石」への大規模な加増

小田原と奥州での大仕事を終え、敦賀へと帰還した吉継は、秀吉から大規模な加増を受けることになります。

加増された石高は2万6千石ほどと、前年度と比べて倍以上に上昇。いわゆる敦賀5万石の領主となった吉継は、以降も優れた統治政策を行い、領民たちから親しまれたようです。

1592年 – ??歳「船奉行として朝鮮出兵に貢献」

文禄の役

この年の4月ごろに、秀吉の朝鮮出兵の第一陣である文禄の役が勃発。吉継は船奉行に任じられ、出兵のための船舶の調達や、物資の手配、物資輸送の経路作成などの裏方業務で活躍しました。

また、この年の6月には三成や増田長盛らと共に、吉継自身も朝鮮に渡り、朝鮮で戦に当たる諸将に対する指導や、現地での報告を取りまとめる業務に当たっていたことが記録されています。

朝鮮での戦局が混沌とし、明との和平が求められるようになった際も、吉継は三成らと共に明からの和平交渉の使者を伴って一時帰国。翌年の5月に、秀吉と使者の面会を取り付けることに成功しています。

1594年 – ??歳「病状の悪化により、半ば失明の危機に」

病状の悪化により、草津へ湯治に出向く

前年に文禄の役がとん挫したこの年、吉継の患っていた病状は悪化。彼は娘が嫁いだ真田家が治める草津へと、湯治に出向いています。

この頃は特に目を患っていたようで、10月に直江兼続に宛てた「目を病んでしまったため、自筆ではなく印によって失礼いたします」と、自身の病状を書き記した書状が残っています。

また、この3年後に再び起こる朝鮮出兵、慶長の役の参加者にも吉継の名前はなく、吉継の病状が、最早戦に耐えられないほどに進行していたことが分かります。

慶長の役の頃には、吉継の病状を心配した秀吉から直々に訪問を受けていた記録や、祝い事の行事に吉継が病身をおして姿を見せると、秀吉は彼を大いに労い、菓子を与えていたことも記録されています。

秀吉から吉継に対する信頼は、たとえ吉継が病に侵されていようとも変わっていない事や、彼の病状を案じる秀吉の親心のようなものが感じられるエピソードです。

1598年 – ??歳「秀吉の死去に伴い、家康に接近」

秀吉の死去

この年、天下の覇者であった秀吉が死去。これにより、豊臣政権内部は混沌とした様相を呈することとなっていきます。

この時の吉継は、秀吉存命時の政権の中でも、五大老として強い権力を握っていた徳川家康に接近。前田利家による家康暗殺計画の噂があがった際には、福島正則や加藤清正らと共に、家康の警護の任についています。

その後も吉継は、度々持ち上がる家康暗殺計画の噂に対する対応や、秀吉の死によって生じた宇喜田家中の紛争の調停などを担当。秀吉を失って混乱する政局を治めるべく、秀吉旗下の重臣として、各所を走り回ることとなりました。

1599年 – ??歳「病状が若干好転。失明を免れる」

神龍院梵舜と共に、女能を見物

吉継はこの年、神道家である神龍院梵舜と共に、女能を見物していたとの記録が残されています。

1594年ごろには、自筆で書状を書くことすら難しい状況だった吉継ですが、この時期は女能を見物することができるほどに、病状が好転していたことが分かります。

しかしこの年の政局としては、三成と家康の対立の激化や、それに伴う三成の蟄居。家康による豊臣恩顧の武将たちへの懐柔工作など、1年後に迫る決戦への動きが、各所で続々と見え始めていました。

1600年 – ??歳「関ケ原の戦い」

三成より挙兵を持ち掛けられる

7月、家康は「会津の上杉景勝に謀反の疑いがある」と布告。次の天下人が家康であると読んでいた吉継は、その布告に従って3000の兵を率い、敦賀を発ちました。

会津へと向かう道中、家康との政争に敗れた三成が蟄居させられている佐和山城を訪れた吉継は、三成の嫡男である石田重家(いしだしげいえ)を大谷軍に同行させることを持ち掛けます。三成の嫡男を家康の布告に従う大谷軍に同行させることで、家康と三成の仲を取り持とうとしたのでしょう。

しかし三成はその提案を拒否し、吉継に「打倒家康のために兵を挙げないか」と持ち掛けます。

当時の家康の権力は絶大であり、次期天下人は殆ど家康に決まったも同然の状況。吉継は「石高や兵力、武力や経験、人徳の差など、全てにおいてお前が徳川殿に勝てる要素がない」とまで言って、思いとどまるように三成を説得します。

しかし三成の決意は固く、吉継はそんな三成の熱意に打たれ、根負けする形で、打倒家康のための挙兵を承諾。三成に対しての率直な説得からも分かるように、敗戦を予測したうえで、それでも三成への義理を優先した選択でした。

そうして三成に与することになった吉継は、会津への出兵を取りやめて敦賀近辺で暗躍。越前や加賀の諸大名を調略し、西軍に引き込むことに成功したほか、その吉継を押さえるべく挙兵した、東軍の前田利長に対して「西軍が優勢」「大谷の水軍が、加賀を落とすために海路を北上中」とフェイクの情報を流すことで撤退に追い込むなど、関ケ原本戦以前に多くの活躍を見せました。

「大谷吉隆」

この頃の吉継は、「大谷吉隆(おおたによしたか)」と名を改めたとも伝わっています。改名の理由については、「「吉継」であると、三好氏の滅亡の原因となった「三好義継」と名が続くため不吉である」と考えたから、という説が有力です。

しかし、現存する古文書において「大谷吉隆」名義で記された文書は存在しておらず、本当に改名をしたのかについては疑問視されています。

ただし、関ケ原に存在している吉継の墓所は、「大谷吉隆墓」として国の史跡に登録されているため、もし見学しに行くことがあれば注意が必要となっています。

関ケ原の戦い・前半戦

9月、天下分け目の戦いである関ケ原の本戦が始まりました。

吉継は関ケ原西南部に位置する、山中村の藤川台に布陣。兵力は5700人ほどであり、吉継は輿に乗って、後方での指揮を担当していたと伝えられています。

また、吉継が布陣した藤川台は、西軍の本陣と小早川軍の陣を隔てる地点に位置する場所であり、このことから、吉継は関ケ原の戦い当初より、小早川秀秋の裏切りを警戒していたと考えることができそうです。

関ケ原本戦が開戦すると、大谷軍はまず京極高知、藤堂高虎の軍と交戦。二部隊からの攻勢を受けた大谷軍でしたが、数の差がありながらも奮戦し、午前中は東軍相手に一歩も引かずに戦いを進めました。

また、この時に戦った藤堂高虎は、後に吉継とその家臣・湯浅五助の墓を建立しています。彼がその行動に至るのには、ある理由があるのですが、その理由については、次の項をご覧下さい。

小早川秀秋の裏切りにより、壮絶な最期を遂げる

関ケ原の戦いは、前半こそ西軍が優勢でしたが、後半に入ると同時に、状況を一変させる有名な出来事が起こります。

西軍の中でも一大勢力だった小早川秀秋の軍勢が、突如として東軍に寝返りを表明。更に小早川に触発されるように、大谷軍の周囲の武将たちが、続々と東軍へ寝返ってしまったのです。裏切った彼らは、次々に吉継の陣に攻めかかってきます。

小早川の裏切りを警戒していた大谷軍は奮戦し、一度は小早川軍を押し返すことに成功しますが、その追撃の最中に更なる裏切りにあって敗走。自陣へと引き返す最中に、前方からは東軍、背後からは小早川の軍勢、側面からは裏切った諸将の部隊によって追撃を受け、大谷軍はあえなく壊滅してしまいます。

部隊が壊滅した吉継は、自身の腹を切って自害。家臣の湯浅五助に「東軍の連中に首を発見されないよう、死んだ私の首を隠してほしい」と頼んでの切腹だったと言われています。また、腹を切る直前の吉継は小早川の陣を睨みつけ「三年の間に必ずや祟ってやる」と怒りを露わにしたとも言われています。

この吉継の自害がきっかけとなり、戦局は一気に東軍が優勢に。戦局が一気に傾く当たり、吉継が西軍の中で担っていた役目が、どれほど大きいものだったかが伝わるでしょう。

吉継の首の行方

吉継から首を隠すよう頼まれた湯浅五助は、その首を関ケ原のどこかに倦めて隠したとされています。しかし五助は、首を埋めるその姿を、藤堂高虎の甥である藤堂高刑(とうどうたかのり)に見られてしまっていました。

高刑に対して、五助は懇願します。

「東軍に発見されないように首を隠してほしいというのは、殿の最期の頼みなのです。我が首を差し上げますので、どうかこのことは他言無用にしていただけませんか?」

高刑はその望みを承諾し、五助は自分を高刑に討たせることで、吉継の最後の望みを叶えることに成功したのでした。

高刑も義理堅く約束を守り、家康から「湯浅五助の首を取ったなら、吉継の首の在処も知っているはずだ」と詰問された際にも、「五助との約束があるため、それだけは家康様にも申し上げられません」と、口を割らなかったそうです。

その言葉に感激した家康は、逆に高刑に褒美を与え、高刑の叔父の高虎は、敵対した身でありながら、奮戦した吉継を大いに称えて、彼の墓を関ケ原の地に建立しました。

現在の関ケ原の地には、吉継の墓と五助の墓が、隣り合って建立されています。しかし一方で、吉継の首が埋められた正確な場所については、現在もわかっていないようです。

大谷吉継の関連作品は?

おすすめ書籍・本・漫画

戦国人物伝 大谷吉継 (コミック版日本の歴史)

歴史初学者向けの、いわゆる『漫画でわかる』シリーズの大谷吉継版です。

この記事のような長い文章を読むのが苦手、という方は、まずはこの本から入門するとよいだろうと思います。エンタメとしての物足りなさはありますが、大谷吉継の事が漫画でよくわかるため、入門にちょうどいい作品です。

白頭の人

歴史小説好きの間ではおなじみの『軍配者』シリーズの富樫倫太郎氏が、吉継を主役に据えて描いた作品です。

若干フィクションを付け足している部分がありますが、大谷吉継という人物を知りたければ、この作品を読めば大体は知ることができる作品になっています。歴史小説が苦手な方でも読める、平易な文章なのも嬉しいポイント。ただし、歴史小説をいくつも読んでいる方からすると、若干物足りなく感じる部分もあるかもしれません。

おすすめ映画

関ヶ原

吉継の親友、石田三成を主役として描いた作品です。2017年に公開された作品のため、まだ記憶に新しい方も多いかと思います。

吉継を演じるのは、大場泰正(おおばやすさま)さん。あまりドラマや映画への出演は多くない俳優さんですが、あまり多くはない出番の中で「吉継らしさ」を細かいところまで緻密に表現されています。

少々セリフ回しが早口で、歴史を知っていることが前提のシーンも多いため、少し吉継や三成について勉強してからの視聴をお勧めいたします。

のぼうの城

小田原攻めの際の忍城攻めを、忍城の主、成田長親(なりたながちか)の視点から描いた映画作品です。主役が長親のため、吉継や三成は敵役として登場します。

吉継を演じるのは、『勇者ヨシヒコシリーズ』などでおなじみのカメレオン俳優、山田孝之さん。理知的で義理堅く、どこか飄々とした吉継を見事に演じられています。

敵役としての登場ながら、切れ者でカッコいい吉継を見ることができる作品ですので、興味がある方は是非ともご覧ください。

おすすめドラマ

大河ドラマ 真田丸

最近の大河ドラマの中では、最もカッコいい吉継を見ることができる作品です。

吉継を演じるのは片岡愛之助さん。柔軟でクールな性格の吉継を演じ、作中での吉継死亡の際には「刑部ロス」がネット上で話題になったほど、カッコいい大谷吉継を演じてくれています。

他にも照会するほどではありませんが、『軍師官兵衛』にも大谷吉継は描かれていますので、興味があればそちらもご覧ください。

大谷吉継についてのまとめ

戦国時代と言うと、「剣と槍と謀略が渦巻く乱世」と言う印象を持つ方が多いとおもいます。筆者自身もそうだと思いますし、そんな時代だからこそ、織田信長や豊臣秀吉が高い評価を得たのだろうとも思います。

しかし、そんな謀略の時代の只中を生きながらも、その時代に染まりきることなく、親友との友情を貫き通した大谷吉継は、現代に生きる我々によってこそ、その心根が評価されるべき武将であると筆者は考えています。

吉継のように、親友や恩人のために、自身の利を捨てて戦うことができるか?現代だからこそ、我々全員が自らに問いかけるべき問題かもしれません。

頭の切れる知性的な人物でありながら、自らの利を捨てて親友のために戦い、戦場に散っていった仁将。正に“義”に殉じた男である、大谷吉継。

コアな歴史ファンにしか知られていなかったこの人物の魅力が、この記事によって少しでも伝わってくれたなら嬉しいです。

それでは、長い時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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