日本列島という極小の島国の中で、様々な人物が自身の理想のために戦い続けた戦国時代。
まさに「乱世」と呼ぶにふさわしいその時代は、謀略や裏切りが蔓延する、暗黒の時代でもありました。部下だった明智光秀に討たれた織田信長や、裏切りを警戒するあまり豊臣家から人心が離れるきっかけを作ってしまった豊臣秀吉などの例を見れば、その時代の恐ろしさが否応なく感じられることでしょう。
しかし、そんな時代の中でも、なにより硬い友情をはぐくんだ武将たちも存在しています。
ということでこの記事では、そんな友情をはぐくみ、最後には互いの友情に殉じて散っていた義信の武将・「石田三成と大谷吉継」の関係性をご紹介したいと思います。
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
大谷吉継と石田三成の関係は?
石田三成と大谷吉継は、一般的に「硬い友情を育んだ親友関係」にあったとされています。
裏切りが日常茶飯事だった戦国時代において、この二人の関係性は美談として語り継がれており、現在でも「石田三成を描く作品には大谷吉継が」「大谷吉継を描く作品には石田三成が」、互いに欠かせない存在として描写される原因ともなっているのです。
この二人が友情を結んでいた理由としては、三成は1560年、吉継は1565(1559年説もあり)生まれのため、年齢的に世代が近かったことが上げられるでしょう。
また、秀吉は三成と吉継の事を「計数の才(政治分野)に長けた者」として目を掛け、重用していたため、三成と吉継は同じような分野で、また同じような場所で働くことが多かったと言われています。世代の近いビジネスパートナーのようなイメージですね。
更に性格的にも、他人の実力を認める素直さを持ちながら、言動が厳しすぎて理解者が少なかった三成と、文武ともに優れた実力を持ちながら、穏やかで人の心の機微に聡い吉継という好対照。
そんな彼らが親友になると言うのは、ある意味で必然だったと言えるかもしれません。
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幼馴染だったと言う説もあり
また、彼らは生まれたころから共に過ごした幼馴染であるという説も存在しています。
一見すると荒唐無稽な説のようにも感じられますが、三成と吉継が共に近江の国出身であることや、三成が秀吉に仕え始めた時期は明確に記録されているのに対し、吉継の方は記録が残っていないこと。さらに、二人が武功を上げはじめた時期がほとんど同時期に重なっていることもあって、完全に否定しきれる説でもありません。
とはいえ、記録上に「幼馴染だった」という記録は残っておらず、あくまで現代の創作から生まれた説ではあります。
しかし、そんな説が生まれ、一般に多少なりと信じられている程度には、三成と吉継の友情が非常に硬いものだった事を言外に示す説だと言えるでしょう。
実は恋愛関係だったという噂も…!?
非常に硬い友情で結ばれていた三成と吉継。そんな彼らは、友情の領域を通り越して、衆道関係(男性同士の恋愛関係)にあったという噂もまことしやかにささやかれています。
現在の価値観で言うととても飛躍した考え方のようにも思えますが、実はこの関係性、戦国時代ではさほど珍しいものではありません。
当時の価値観における衆道とは、家臣を率いる武将の嗜み――言ってしまえばスポーツのようなもの。事実として、織田信長と前田利家や、伊達政宗と片倉重長なんかは、中々に濃厚な衆道エピソードを残しています。
そんな価値観だった戦国時代で、硬い友情を育んでいた三成と吉継が衆道関係にあったとしても、まぁ納得できるところなのではないでしょうか。
とはいえ、二人が衆道関係にあったことを示す証拠は何もないのが現状ですので、軽々しく「三成と吉継はそういう関係だったんだって!」と広めると、手痛い論争の火種になる可能性もありますのでご注意ください!
三成と吉継の友情を示すエピソード
戦国時代どころか、世界史上を見ても類を見ない程に硬い友情を結んでいた石田三成と大谷吉継。
では何故、彼らの友情は一般にも広く知れ渡るようになったのか。
それは、ある「お茶会」のエピソードから始まっていました。
お茶会にまつわるエピソード
時は1587年。豊臣家が天下を統一することが、もはや決定的となりつつあった頃、秀吉は可愛がっている諸将を集めて、大阪城で大規模な茶会を催していました。
その頃の三成と吉継は、年齢的にはまだ中堅でありながら、その才能を大いに買われて重鎮レベルの役職についている状況。しかしその一方、吉継の体は病に侵され、彼に向けられる諸将からの目には、若干の冷たさが入り混じっていたといいます。
当時の茶会の流行の作法は、お茶の回し飲み。一つの茶碗に茶を入れ、それを次の人に回していく形式だったのですが、吉継の番が来た時に事件が起こってしまいます。
病に侵された吉継の顔から膿が垂れ、お茶の中に入ってしまったのです。
露骨に嫌な顔をする諸将たち。人の心に聡い吉継はどうしたらいいのかわからず、お茶を飲むことも出来ずに固まってしまいます。
しかし、そこに助け舟を出したのが三成でした。
吉継、茶碗をよこせ。儂は喉が渇いた
そう言って、吉継の言葉を待たずに茶碗をひったくった三成は、まだ半分以上も茶が残っていたにもかかわらず、それを一息に飲み干して、
あまりにも茶が美味かったもので、つい全て飲んでしまいました。代わりの茶を入れてはいただけませんか?
と、何を恩に着せるでもなく言ってのけたのだと言います。
元々同僚としては気が合っていた三成と吉継は、この一件以降友人としての交友が増え、親友となったのです。
西軍所属のエピソード
そして、茶会の日から時は経ち、1600年。秀吉が没し、天下が次第に徳川家へと移り変わっていたその頃。家康に半ばハメられ、謹慎を命じられていた三成は、ひそかに吉継の元を訪ねました。
共に逆族である家康を打ち倒すために、戦ってはくれないか?
三成は、妥当家康を成し遂げるために、親友である吉継の元を訪れていたのです。
しかし吉継は悩みました。天下の趨勢は既に徳川の物で、吉継自身は家康とも仲が良く、このままいけば大谷家も自分自身も安泰である。しかも、三成が兵をあげようとしたところで、家康の人望に敵うとは思えない。
普通に考えれば、徳川家康につくのが大正解です。わざわざ負け戦に乗る必要もなければ、その主犯の片棒を担ぐ意味もありません。この場合の正解は、まちがいなく「動かないこと」「拒否すること」だったと思います。
しかし吉継は、三成の誘いにうなずき、そればかりかこう助言しました。
挙兵には同意するが、戦を起こすならお前が大将ではだめだ
何故だと訊ねる三成に、吉継はこう続けます。
「お前は能力はあるが、融通が利かず人望がない。お前が声を上げたとしたら、反徳川の連中すら敵に回る可能性がある。大将には宇喜多殿か毛利殿あたりを据えて、お前は裏方役に徹する方がいい」
正直かなり失礼な物言いですが、三成はこの言葉に深く納得。実際に関ヶ原の戦いでは毛利輝元を大将として祭り上げ、自身は吉継と共に、一武将として関ヶ原で戦いました。
とはいえ、関ヶ原の戦いの結果は皆さんご存知の通り。小早川秀秋の裏切りの影響をもろに受けた吉継は、奮戦するも力及ばず自害。三成は落ち延びるも捕らえられ、六条河原で斬首されて死亡。
関ヶ原という大舞台で散った二人ですが、だからこそ彼らの友情の揺るがない硬さを示すエピソードともなっています。
石田三成と大谷吉継に関するまとめ
裏切りが日常のような戦国時代の中で、互いのゆるぎない友情を決して疑わず、ともに関ヶ原という大戦で散った、石田三成と大谷吉継。
彼らの友情は、たしかに「戦国時代」という舞台だからこそ美談として語り継がれるようになったのでしょうが、では果たして、現代を生きる我々は彼らのように友情に準じることができるでしょうか?
彼らのエピソードを「単なる歴史上の美談」として見るだけではなく、「その美談を自分の人生の何処に活かすことができるのか」を考えること。
それこそが、「歴史を学ぶ」という行為の本質なんじゃないかと筆者は思っています。筆者自身も彼らのように生きられる自信はまったくないのですが。
では、この記事をご覧になっていただき、誠にありがとうございました!この記事が皆さんの心に、少しでも残っていただければ光栄です!