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石田三成の生涯・年表まとめ【お茶の逸話や性格、子孫まとめ】

石田三成(いしだみつなり)、永禄3年(1560年)-慶長5年(1600年)は、安土桃山時代を生きた豊臣秀吉の右腕といえる存在です。有名な「関ヶ原の戦い」では西軍の総大将をつとめ、徳川家康がひきいる東軍に敗れ命を落とします。

三成は、近江国石田村(滋賀県)の土地をおさめていた石田正継の二男として生まれました。三成が小さいときに使っていた名前は「佐吉」と言い、武道よりも政治や文芸のほうに才能がありました。その才能を秀吉に見出され、小姓として側に付くようになります。

石田三成

「本能寺の変」後は、秀吉が各地でしかけた戦に付き添い、26歳のときに秀吉の関白就任とともに、従五位下治部少輔(じゅうごいかじぶしょう)という豊臣政権のなかでかなり重要なポストにつきます。26歳という若さでこの地位についたのですから、秀吉の信頼を勝ちとるだけの優秀さが三成にはあったのでしょう。

五位下治部少輔の地位についた後は、兵たちの飯の調達や朝鮮に渡って明(当時の中国)との和平交渉などの内政を中心に行いました。秀吉が亡くなってからは、朝鮮に残っていた日本軍の撤収を行ったり、豊臣政権のために力を尽くします。

関ヶ原の戦いで敗れた三成は、戦場から逃げ出しますが、東軍の追ってに捕まり六条河原で命を落としました。三成のしたことを一言でいうと、豊臣政権を裏で支え続けた優秀な参謀です。秀吉が出した数々のお触れも、三成が関わっている可能性が高いでしょう。

石田三成とはどんな人?

名前石田三成
改名佐吉、三也
身長156cm
誕生日永禄3年(1560年)
生地近江坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)
没日慶長5年(1600年)10月1日
没地六条河原(京都市下京区鴨川沿岸)
配偶者皎月院(うた)
埋葬場所京都市北区紫野大徳町大徳寺三玄院
官位従五位下 治部少輔

石田三成の生まれは?

石田三成は、永禄3年(1560年)に、石田村の土豪・石田正継の二男として生まれました。じつは、三成のことが記録されるようになったのは豊臣秀吉に仕えるようになってからで、幼少期についての情報はありません。

父の正継は当時の武将にしては珍しく学問にも力を入れており、自分の子供にも文字などを教えていました。

その頃から、三成は頭が良かったようで、秀吉に小姓として仕えるまで三珠院という寺に預けられていました。三成が預けられた寺については、観音寺だったとも言われています。与次郎という友人がいたようで、まだ人付き合いが苦手ではなかったようです。

石田三成の性格は?

生前の三成は、秀吉の家臣に嫌われたり、関ヶ原の戦いで裏切られたりと、世間一般では嫌われ者として認識されていました。亡くなった後も、家康を正当化するために、三成は「悪」として語り継がれます。

しかし、近年では秀吉に対する忠誠心や、実直さが評価され「悪」という認識が無くなっていきます。実際に三成の行ってきたことを辿っていくと、細かいところにも目が行き届き、人情を重んじる真っすぐな人です。

そのような良い面とは異なり、融通の効かない面や人を突き放すような発言も見られたので、領民からはとても慕われていましたが、豊臣政権内では嫌われていました。

石田三成の子孫は?

三成の子供については詳しいことは分かっていませんが、3男3女がいたとされています。

  • 長男:石田重家…関ヶ原の戦いの後、出家します。
  • 二男:石田重成…関ヶ原の戦いの後、津軽信建(つがるのぶたけ)が自分の家に匿い、名を「杉山源吾」に改めます。
  • 三男:佐吉…関ヶ原の戦いの後、出家し、名を「深長坊清幽(せいゆう)」に改めます。
  • 長女:名前不明…山田隼人正の正室です。
  • 次女:小石殿…岡重政の正室です。
  • 三女:辰姫…高台院の養女になった後、津軽信枚の正室になります。

三成の妻は、宇多頼忠(うだよりただ)という武将の娘です。皎月院(こうげついん)という名前で、本名は「うた」ではないかと言われています。彼女の姉が真田昌幸の妻であったという説もありますが、詳細は不明です。

彼女は関ヶ原の戦いの際に、石田正継と兄の正澄と共に佐和山城で自害したとされています。そのほかにも、三成が死んだ後に自害した、戦いの後も生き延びていたとも言われていますが、真相は分かっていません。

しかし、三成の子供は、関ヶ原の戦いの後も殺されることなく存命しているということが分判明しています。子供も殺されてしまうような世の中でしたが、三成の子供は温情を与えられ子孫も残っています。

石田三成の名言は?

「 筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」

「残すは盗なり。使い過ごして借銭するは愚人なり」

「汝に二心あるを知らざりしは愚かなり。
されど、義を捨て人を欺きて、裏切したるは、武将の恥辱、末の世までも語り伝へて笑うべし」

石田三成にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「三杯のお茶(三献茶)で豊臣秀吉に気に入られる」

鷹狩りの帰りに喉が渇いた秀吉は、ある寺に入りお茶を所望しました。秀吉の要望に、ある寺小姓がお茶を入れて戻ってきます。

秀吉の前に出されたのは、大椀に並々に注がれた温いお茶でした。それを、ぐいっと一気に飲み干した秀吉は、もう一杯持ってくるように言います。すると今度は、中椀に少し熱いお茶が出されました。

それも一気に飲み干した秀吉は、またお茶を所望します。次に出されたのは、小椀に注がれた熱いお茶でした。なぜ、このようにお茶を出したのかを秀吉は寺小姓に聞きます。

寺小姓は、最初は喉を潤したいから温いお茶を、2杯目は少し喉が潤されたからさっきよりも熱めのお茶を、3杯目はお茶を楽しめるように熱いものを出したと言いました。

その言葉に感銘を受けた秀吉は、その寺小姓を自分の小姓として自分の側に置いたと言われています。その三杯の茶を出したのが三成です。三成の聡明さが伝わる話と言えるでしょう。

都市伝説・武勇伝2「大谷吉継に恥をかかせないためにお茶を飲んだ」

こちらもお茶にまつわる話です。秀吉は茶会をよく開いており、当時は一口ずつお茶を回し飲みする習慣がありました。

それに参加した大谷吉継(おおたによしつぐ)は、ライ病(ハンセン病)を患っていました。そのため、口をつけずにお茶を回そうとしましたが、顔の膿がお茶の中に入ってしまいます。その様子を見ていた者たちは飲むふりをして、お茶を回していきます。

吉継は、羞恥と屈辱がせめぎ合っていたことでしょう。しかし、三成はお茶をすべて飲み干し、しまいには秀吉に「美味しかったので、全部飲み干してしまいました。もう一杯ください」と言ったのです。

三成が義に篤い人であったことが伝わるエピソードですね。これに恩を感じた吉継は、三成と交流を深めていきます。

大谷吉継と石田三成の関係は想像以上に濃かった?熱きエピソードを紹介

石田三成の年表を簡単にまとめると?

1560年
近江で生まれる
石田三成は永禄3年(1560年)、石田村の土豪・石田正継の二男としてこの世に生をうけました。兄のほかに、妹が2人います。
1572年
豊臣秀吉の配下になる
三成が15歳の頃に、父の正継の奨めで当時長浜城主だった豊臣秀吉に仕官します。上記の都市伝説は逸話の粋を出ておらず、本当にあったのかは分かっていません。
1585年
五奉行の一人になる
秀吉が関白へ就任したのとともに、三成も五奉行の1人として
治部少輔という地位につきます。五奉行は秀吉直属の配下が賜る地位です。
1590年
小田原征伐に参陣
秀吉に小田原征伐で忍城を攻め落とすよう言われた三成でしたが、この戦で自身の戦下手が露呈しました。
1592年
朝鮮に渡船
総奉行として、秀吉の代わりに朝鮮に渡ります。明との和平交渉に尽力しますが、この時から加藤清正などの武断派と対立していきます。
1598年
秀頼のために起請文を作成
秀吉の死後、三成は「五大老の中から意見を違う者が現れたら、秀頼のために尽力してこれにあたる」という起請文を作成しました。
1599年
五奉行引退
三成は前田利家が病死した後に、七将によって大阪の屋敷で襲撃を受けます。その後、家康の計らいで和睦しますが、五奉行は引退となり、佐和山城に帰城します。
1600年
関ヶ原の戦いへ
関ヶ原(岐阜県)で三成が率いる西軍と、家康が率いる東軍が対決します。戦はその日に決着が付き、仲間の裏切りによって東軍に敗れた三成は戦から逃走します。その後、追っ手に捕まり斬首されました。

石田三成の年表を具体的にまとめると?

1560年 – 0歳「三成誕生…その後、寺に預けられる」

石田村で生まれる

永禄3年(1560年)近江坂田郡石田村で、土豪の石田正継の二男として誕生します。ほかにも兄妹が4人おり、三成は2番目に生まれました。家族構成は以下の通りです。

  • 父:石田正継
  • 母:瑞岳院
  • 長男:石田正澄
  • 二男:石田三成
  • 長女:福原長堯室
  • 次女:熊谷直盛室

残念ながら、妹の名前は判明していません。分かっているのは、福原長堯と熊谷直盛の正室であったことだけです。

正継は当時の武将には珍しく、文芸にも力を入れていました。そのため、息子の正澄や三成にも文字を教えたりなどしています。

三成についての史実は秀吉に会ってからの物が多く、三珠院という寺に預けられたこと以外、どのような幼少期を過ごしていたかは不明です。おそらく、三珠院に預けられたのは、才があっても二男ということで家督が継げない三成の将来を憂いた正継の心遣いでしょう。

1572年 – 15歳「豊臣秀吉の配下になる」

父の正継と兄の正澄と共に秀吉に仕官する

15歳まで寺で預けられた後、父の正継と兄の正澄と共に当時長浜城主だった豊臣秀吉に仕官します。そして、だんだんと秀吉の右腕として才能を見出していきます。

前述で紹介した、三杯の茶については逸話の粋を出ないので、本当にあった場合は豊臣秀吉に気に入られて小姓になったのでしょう。

現実的に考えると、家族と共に仕官したという説が濃厚ですが、石田三成を題材にした小説では三杯の茶の話が載っている作品が複数あります。

1585年 – 26歳「五奉行の一人になる」

治部少輔に叙任される

秀吉の関白就任に伴い、三成は五奉行の1人として従五位下治部少輔に叙任されます。五奉行が行うのは主に蔵米の出納での連署、
治安の維持、大名の監察という豊臣政権の実務を担っていました。いわば彼らは、豊臣政権の中枢と言っても過言ではないでしょう。

五奉行と言われている人達は以下の通りです。

  • 浅野長政
  • 前田玄以
  • 石田三成
  • 増田長盛
  • 長束正家

筆頭は浅野長政であり、三成は位で言えば3番目から4番目と言われています。五奉行は秀吉の最も信頼の厚い者たちで構成されていました。なかでも三成は、秀吉の最も信頼する家臣であったと言われています。

1590年 – 31歳「小田原征伐に参陣」

小田原征伐に参陣するも失敗

三成は、秀吉に小田原征伐で忍城を攻め落とすように言われます。豊臣政権になる前から、三成は秀吉に付き従い戦に参戦してきましたが、すべて兵糧の調達や偵察などの裏方ばかりでした。

この小田原征伐で、三成は指揮官としての初の出陣となるわけです。三成は周囲に多くの水が流れているのを利用して水攻めを行います。

しかし、これは失敗し本城の小田原城が開城をしたのを機に、忍城も開城します。そして、三成は「戦下手」の烙印を押されました。

なぜ水攻めをしたのか

忍城は沼地の中に建っている城でした。そのため、三成はその地形を利用し、城の周りに28kmにも及ぶ堤防を敷き、利根川の水を引き入れることで忍城を沈めようとします。

しかし、その堤防はわずか1週間足らずの突貫工事で作った物でした。そのせいで、大雨で堤防が決壊してしまい、味方陣営の方が冠水してしまいます。

これを聞いた秀吉が、援軍として浅野長政と真田昌幸を送り、三成は総攻撃を仕掛けますが、水攻めの失敗で地面がぬかるんでいたことと、もともと守りに徹した城であったために攻撃は失敗に終りました。

じつは、水攻めは三成が考案したのではなく秀吉が指示をしたと言われています。さらに、三成は水攻めには反対だったようです。それを踏まえると、三成の戦下手は大変不本意な評価と言えるでしょう。

1592年 – 33歳「朝鮮へ総奉行として渡船する」

明との和平交渉につとめる

三成は日本が朝鮮出兵した途中から、総奉行として朝鮮に渡船します。当初、朝鮮侵攻は順調でした。しかし、朝鮮の水軍により日本の船が堕とされてしまい補給が途絶えます。

さらに、朝鮮の同盟国である明も参戦してきたために、戦況はだんだんと不利な状況へと陥りました。そこに三成と、大谷吉継、増田長盛が朝鮮に来ます。

朝鮮に渡った三成は、朝鮮よりも脅威であった明との和平交渉に外交を担当していた武将小西行長(こにしゆきなが)と共に尽力しました。しかし、この和平交渉は慶長元年(1596年)に破談となり、秀吉は再び朝鮮出兵を行います。

始めから秀吉の朝鮮出兵は無茶なもので、三成は反対していました。しかし、秀吉の暴挙を抑えられるはずもなく、朝鮮出兵が開始されたのです。

せっかく明との和平交渉が上手くいきそうだったのに破談となり、再び朝鮮へ出兵することになったのですから、三成の苦労は相当なものだったでしょう。

武断派との対立

三成は朝鮮に出兵した各武将についてや、戦の動向についてなどを秀吉に報告する義務がありました。朝鮮出兵で一番武功を争っていたのは、小西行長と加藤清正です。

清正は、朝鮮で勝手な行動が多々見受けられました。それを三成は、包み隠さず秀吉に報告します。報告を聞いた秀吉は怒り、清正は伏見へ蟄居を命じられました。

このことから、清正は三成に憎しみを向けるようになり、さらに彼を含む武断派と三成の対立が顕著になります。

武断派とは、秀吉の家臣の中で七将と言われている武将たちのことです。武断派のメンバーは以下の通りです。

  • 福島正則
  • 加藤清正
  • 池田輝政
  • 細川忠興
  • 浅野幸長
  • 加藤嘉明
  • 黒田長政

清正と福島正則とは幼少の頃からの知り合いですが、その頃から不仲でした。武を重んじる彼らと内政を担当する三成では、相容れなかったのでしょう。そのため、今回の朝鮮出兵でさらに浮き彫りになってしまったのです。

1595年 – 36歳「豊臣秀次を謀反の疑いで問い詰める」

秀吉の命令で豊臣秀次を詰問する

秀吉は息子の豊臣秀頼が誕生してから、甥の秀次が謀反を企てているのではないかと疑いだします。そんな事実はありませんでしたが、三成は秀次の調査を言い渡されました。

そして、秀次に記請文を書かせることでその場は事なきを得ましたが、再び謀反の嫌疑が秀次に掛けられます。その後、秀次は切腹となり、彼の妻や妾なども処刑されました。

江戸時代に書かれた資料では、この秀次切腹についての一連の流れは、すべて三成が手引きしたものとされていました。

しかし、むしろ三成は秀次の切腹を阻止しようとしていたようで、彼が処断されないように尽力したのでしょうが、秀吉には逆らえずこのような結果に終ってしまいます。

1596年 – 37歳「佐和山で善政を敷く」

13ヵ条、9ヵ条の掟書を出す

三成は天正18年(1590年)に佐和山城へ入城し、19万4000石の大名となりました。そして、領内で13ヵ条のお触れを出します。以下は現代語訳された、13ヵ条の文です。

第一条、(詰夫は)高一〇〇〇石に一人の割合と決定する。人足については、規定を越えて負担してはならない。詰夫の外に夫遣いが必要な際には、どのくらいの人足を出しなさいと、この印判(この箇条の末尾に据えてあるもの)のある文書で指示を出す。規定を越えて印判状で徴発した夫役については、毎年十二月二十日に積算して奉行人に報告すれば、負担人夫分に対応する飯米を支給する。 第二条、代官とか下代の地下の触れ歩きに雇われる場合は、その在所、あるいは隣村までとする。それも耕作に支障のない場合に限り、不必要なことに多くの雇いだしがあるようなときは、応じてはならない。 第三条、田畠の作職は、先年の検地のとき、検地帳に登録された者に属す。人からその作職を取り上げることがあってはならないし、また、かつて以前に自分が作職をもっていた土地だと言って、人の作職を奪う事も許さない。 第四条、給人方の百姓が蔵入地の田地を入作したときには、一石について一升の夫米を出させ、また、蔵入地の百姓が給人方の田地を出作したときには、一石について二升の夫米を納める。この夫米は詰夫の雑用にあてるが、もし入作が多くて夫米が余ったときは、村の収入にする。なお田畠を作りながら夫役を勤めることができない者は、出作なみに夫米を出させる。 第五条、出作している者が、勝手にあきたといって、田地をあけることは曲事である。また当村に入作している者が、田地をあけるといっても、勝手にあけさせてはならない。 第六条、来秋からは、今度遣わす(三成の花押を据えた)枡を用いて収支や支給を行うので、古い枡を使用してはならない。先年の検地の際、用いられた枡に大小の出入りがあったため、各所の枡を集めて、ちょうど中間のものを(公定)の枡とした。今回こうして改めて遣わすこととする。 第七条、関東平定戦(小田原の陣)以後、在々の百姓が村を離れて奉公人になった者があれば、その在所を聞きだし、代官を通じて三成に報告するように。これは御法度であるから、ただちに連れ戻させる。石田家中への奉公は構わないが、他の家中にはおくことは許さない。 第八条、いかなる理由があるにせよ、他村から逃亡してきた百姓を召し抱えれば、その宿主のことは勿論、地下中を処罰する。あらかじめその趣旨を承知して、他所の村の百姓を抱えることのないように。 第九条、糠や藁などにいたるまで(三成の)所要によって、代官より上納を命じた場合には、もし少量であっても年貢との相殺を行うように。もし代官が算用に応じない場合には、目安をもって申し上げるように。 第十条、当村が給人知行地になった場合には、給人知行地に発令している「法度書」が有効になり、ここでの(蔵入地用の)規定は無効になる。 第十一条、何事によらず、百姓が迷惑することがあれば、容赦なく目安をもって訴える出るべし。ただし筋目のないことを訴えた出たときは、その身を罪科に処する。したがってよく調べたうえで訴え出るようにすべきである。 第十二条、年貢上納については、一石について二升の口米と定める。少々多め(「あげ」)に計量し、二重俵を用いて搬入するように。五里以内のところは百姓の負担で運搬し、五里以上のところは農民に販米を支給して運搬させる。この外に複雑な規定は設けない。 第十三条、年貢として収取したのちに村方に残す米(免)については。秋の初めに、稲を刈らない以前に、田領で検分して決定する。もし村方と代官に見込違いの田があるときは、その村の田地について、上・中・下の三段階ごとに収量を試験して年貢率を決定する。なお、それでも意見の合わないときは、稲を刈ってこれを三分し、その二分を代官に、一分を村方の得分とする。したがって、代官に見せずに(勝手に)田を刈り取った場合には、村方の徳分を認めない。

例えば、9条では糠や藁などを上納するときに、代官が不正を働こうとしたら、きちんとした理由を持って三成に言うようにという意味があります。

13条では、その村の田畑を上中下の3段に分けて、その中でどれくらい収穫できるかを予測させます。それに意見が食い違うことがあれば、稲を刈り取ってから3等分して、3分の2は代官に渡し、残りの稲は農民の取り分としましょうという意味です。

村掟には、領民に課せられる立場や、義務、権利などを明確にし、代官の不正を徹底的に排除する意図が組み込まれています。

9ヵ条も上記と似たような内容で、石田家中への知行地に出されています。
この掟が領内に立てられたとき、農民にも読めるようにと文字にはすべてフリガナが振ってあったそうです。

秀吉政権内では嫌われていた三成でしたが、こういった善政を敷いていたこともあり、領民には強く慕われていました。

1598年 -39歳「秀吉がいなくなり、三成は」

在鮮軍を撤退させる

秀吉は自分が死ぬまで、朝鮮進軍を止めませんでした。しかし、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなったことで、朝鮮へ侵攻する意味が消えます。そのため、三成は10月に朝鮮に渡り、およそ2か月という短い期間で在鮮軍を日本に撤退させます。

いまだ緊張状態だった朝鮮で、このように迅速な撤退ができたのは、三成の手腕あってのものでしょう。おそらく、秀吉の死後、すぐに在鮮軍を撤退させられるように以前から考えていたと推測されます。

四奉行で起請文を作成

秀吉の死後、もっとも危惧することは、徳川家康が天下統一することでした。その時はまだ、家康は五大老として豊臣の配下に下っています。

五大老とは、在鮮している諸将への指令や、知行の宛行状への連署など、豊臣政権の閣老としての役割を担っていました。五大老のメンバーは以下の通りです。

  • 徳川家康
  • 前田利家
  • 宇喜多秀家
  • 上杉景勝
  • 毛利輝元

三成は、浅野長政を除き、4人の奉行宛の起請文を作成しています。起請文は「五大老の中に五奉行と意見の合わない者が出た場合、秀頼のために協力してなんとかしよう」というような内容の文です。

これから動き始めてくるだろう家康を危惧し、三成は改めて奉行内で秀頼への忠義を誓いあい結束を固めたのでしょう。

1599年 – 40歳「家康が動き出す、そして五奉行引退」

家康が御掟を破り、三成は問責する

秀次の切腹後、大名の間で「御掟」という起請文が作成されました。その中には、上様(この時で言えば秀頼のこと)の許可なく、婚姻を結んではいけないというものがあります。

この掟は、大名間で徒党を組んだり、謀反を起こさせないために作られました。その掟を家康は破り、どんどん武将たちと婚姻を結んで血縁関係を結ぼうとしたのです。

これに、三成たち五奉行や四大老は激怒し、家康はきつい問責を受けます。最後は家康が起請文を提出することで解決しましたが、この時から家康の天下統一への準備が本格化していきます。

武断派による大阪屋敷襲撃事件

慶長4年(1599年)に前田利家が亡くなってすぐに、三成の大阪屋敷が七将に襲撃されます。しかし、三成は秀頼の家臣である桑山治右衛門から報せを受けて、すでに屋敷から逃げていました。

そして、出羽久保田藩(秋田県)の藩主
佐竹義宣(さたけ よしのぶ)の助力で、伏見城まで逃れます。その後、七将と三成の睨み合いが続きますが、家康の仲介で事態は収束します。

事件は終わりを迎えましたが、三成は五奉行の地位を退き、佐和山へと追いやられてしまいました。この事件は、家康が裏で手を引いていたとも言われており、事実なら彼にとっても三成の存在は脅威だったということでしょう。

1600年 – 41歳「関ヶ原の戦いへ、そして敗戦」

関ヶ原の戦いへ

佐和山に追いやられても、三成はかつて秀吉に仕えていた各武将や諸大名に書状を送り、戦への準備を進めていました。

そして、上杉景勝(うえすぎかげかつ)を討つために会津へ進軍した家康に向けて、三成は「内府ちがいの条々」と呼ばれる13にも及ぶ罪状を家康へ送ります。こうして、三成が率いる西軍と家康が率いる東軍の戦が始まりました。

そして9月15日、両陣営は関ヶ原(岐阜県)で対峙します。戦いはわずか8時間ほどで決着がつき、西軍が敗れました。

その後、三成は9月21日に家康の追っ手に捕まり、10月1日に斬首されます。佐和山城では、9月18日に攻撃を受けた正継と正澄がその場で切腹しました。

三成は総大将ではなかった

これは勘違いされやすいことですが、三成は西軍の総大将ではありません。本当の総大将は五大老の毛利輝元です。しかし、輝元は大阪城には入城したものの、そこから動くことがなかったために、仕方なく三成が総大将として軍を指揮しました。

これまで三成が大将を務めたのは、小田原征伐の時だけです。にも関わらず、関ヶ原という大きな戦の総大将となり、戦下手の三成が軍を十分に動かせたのかは微妙なところでしょう。

小田原征伐も、結局は秀吉の作戦を三成が代わりに行っただけなので、この関ヶ原の戦いがある意味三成の初陣とも言えます。

負けた原因は?

三成が負けた原因は、西軍の秀吉への忠義の薄らぎと、三成の人望のなさでしょう。三成は、内政への才能はありましたが、人付き合いが苦手な頑固者でした。

領内での善政から優しい人間ではあったのでしょうが、きつい言い方をして人を不快にさせてしまうことも多々あり、豊臣政権内でも仲の良い者はほとんどいません。

関ヶ原の戦いでは小早川秀秋、脇坂安治などの裏切りによって、西軍は敗れてしまいます。さらに、七将も家康側に最初から付いていました。七将が家康側なのは大きな痛手だったでしょう。

三成がもっと人のことを慮れる性格であれば、このような裏切りなどが起こらず、家康の付け入れられることも、関ヶ原の戦いで敗れることもなかったでしょう。

関ヶ原の戦いの後の逃走劇

関ヶ原の戦いに敗れた三成は、伊吹山の麓を越えて古橋村に逃れます。そして、幼少の頃にお世話になった三珠院に匿われますが、それも村人に見つかってしまいます。

家康から三成捕縛の命令が出された際に、各村に「三成を匿った者はその村全員を処罰する」というお触れが出ていました。そのせいで、三珠院に居づらくなった三成は、旧知の友人で百姓の与次郎に助けを求め、大蛇(おろち)の岩窟という場所に匿われます。

しかし、それもまた村人が嗅ぎつけたために、事の次第を与次郎から聞いた三成は抵抗することなく9月21日に追っ手の田中吉政に捕まりました。

10月1日、三成は小西行長と安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と一緒に、六条河原(京都府)で斬首されます。そして、三条河原で首を晒されたのち、墓を作られることなく京都大徳寺の三玄院で葬られました。

石田三成の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

関ケ原(上)

関ヶ原までの経緯を、石田三成と徳川家康を中心に書かれた作品です。戦の状況や2人の心理戦などが上手く書かれており、まるでそこにいるかのような臨場感を味わえます。

近江が生んだ知将 石田三成

初めて三成についての本を読みたいという人向けの本です。三成を悪や善とは分けずに、公平に評価・考察した内容になっています。

石田三成伝

玄人向けの本です。多くの三成に関する資料を元に、俯瞰的に見た人物像が描かれています。研究材料としても使えるほど、事細かに三成について書かれています。

おすすめ動画

『義』に生きた男、石田三成

石田三成の一生を詳しく解説しています。堺奉公で何を行ったのか、秀吉に対する三成の思いなどが語られており、本を読むのが苦手な人におすすめです。

拝啓 石田三成様<滋賀県から石田三成公へのメッセージ>

三成が亡くなってから、およそ400年以上の時を経て、滋賀県から三成へのメッセージを綴った動画です。心温まるメッセージがのせられています。

おすすめ映画

関ヶ原

上記で紹介した司馬遼太郎が原作、岡田准一主演の映画です。司馬遼太郎の語り口をそのままナレーションとして使っており、岡田准一が演じる石田三成とマッチしています。

のぼうの城

石田三成が初めて前線に出た小田原征伐の話が描かれています。三成を上地雄輔が演じ、主演の成田長親を野村萬斎という豪華俳優陣が演じています。どのように水攻めにしようとしたのかが、この作品で分かります。

おすすめドラマ

天地人

石田三成と親交のあった直江兼続の話です。残念ながら、石田三成が主役のドラマというのはありませんが、嫌われ者の三成が兼続とどのような仲だったのかが分かります。

江姫たちの戦国

織田信長の妹、市の娘である三女の江が主人公の話です。秀吉が天下統一した後、三成が最後まで秀吉に尽くした姿が見どころです。

関連外部リンク

石田三成についてのまとめ

徳川家康は、石田三成の首を斬った後も墓を作ることを許しませんでした。それだけ、三成の存在は厄介で疎ましかったのでしょう。

それほど有能な三成を見つけた、豊臣秀吉の審美眼は確かなものだったのでしょうね。

彼のおかげで、秀吉は何度も助けられました。しかし、その代わりに三成は豊臣政権の闇を一手に引き受け、周囲との確執が生まれて行ったのでしょう。

この記事で、石田三成の魅力を1つでもわかっていただけたら幸いです。

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