石田三成とはどんな人?生涯・年表まとめ【お茶の逸話や性格、子孫まで紹介】

石田三成(いしだみつなり)、永禄3年(1560年)-慶長5年(1600年)は、安土桃山時代を生きた豊臣秀吉の右腕といえる存在です。

石田三成

有名な「関ヶ原の戦い」では西軍の総大将をつとめ、徳川家康がひきいる東軍に敗れ命を落とします。

そんな石田三成が一体どんな人だったのか、意外と知らない方が多いのではないでしょうか?そこで今回は、石田三成の性格や功績、そして生涯を詳しく紐解いていきます。

天下統一を果たした豊臣秀吉は、石田三成なくしてはその偉業を成し遂げることができなかったかもしれません。日本の歴史に名を残した武将の一人「石田三成」について一緒に見ていきましょう。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

石田三成とはどんな人?

名前石田三成
改名佐吉、三也
身長156cm
誕生日永禄3年(1560年)
生地近江坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)
没日慶長5年(1600年)10月1日
没地六条河原(京都市下京区鴨川沿岸)
配偶者皎月院(うた)
埋葬場所京都市北区紫野大徳町大徳寺三玄院
官位従五位下 治部少輔

石田三成の生涯をハイライト

石田三成像

石田三成は1560年に現在の滋賀県長浜市石田町にて、石田正継の二男として生まれます。幼少の頃の記録はありませんが1574年、14歳の頃から豊臣秀吉に仕えるようになりました。

石田三成は戦うことが苦手だったようで、合戦の準備をする仕事に精を出して活躍しました。また田畑の面積や収穫量を調べる、検地奉行なども行い、ちゃくちゃくと実績を積んでいきました。

「本能寺の変」後は、秀吉が各地でしかけた戦に付き添い、26歳のときに秀吉の関白就任とともに、従五位下治部少輔(じゅうごいかじぶしょう)という豊臣政権のなかでかなり重要なポストにつきます。26歳という若さでこの地位についたのですから、秀吉の信頼を勝ちとるだけの優秀さが三成にはあったのでしょう。

五位下治部少輔の地位についた後は、兵たちの飯の調達や朝鮮に渡って明(当時の中国)との和平交渉などの内政を中心に行いました。

ですが豊臣秀吉が死ぬと、戦で戦うことが苦手で、勘違いされやすい性格だった石田三成のもとに集まる武士はいなくなり、多くの武将は徳川家康のもとへ集まるようになりました。

こういった状態になり「豊臣家を守るには徳川家康を倒すしか無い」と考えた石田三成は、徳川家康に挑みますが敗北します。関ヶ原の戦いで敗れた三成は、戦場から逃げ出しますが、東軍の追ってに捕まり六条河原で命を落としました。

三成のしたことを一言でいうと、豊臣政権を裏で支え続けた優秀な参謀です。秀吉が出した数々のお触れも、三成が関わっている可能性が高いでしょう。

石田三成は知力で出世した

五奉行の花押

石田三成は合戦で戦うことが苦手だったため他の分野で活躍し、出世しました。

豊臣秀吉に仕えるようになった14歳の頃から外交を担当し、情報収集に務めます。また、1583年の賤ヶ岳の戦いでは、敵の柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当するなど、知力を使って戦を有利に進めます。

こういった活躍により石田三成は水口城の城主になるほか、豊臣政権下の「五奉行」の一員となり、豊臣政権の中核となりました。

石田三成は戦えなかったため人望が無かった?

西軍の総大将となった毛利輝元

石田三成は人望が無かった人物としても有名です。

また知力で出世したため、正反対の性格である加藤清正や黒田長政に嫌われる事になります。というのも、石田三成は非常に真面目な性格をしているので、戦場に出ている血気盛んな武将たちには「融通が効かないやつ」だと思われがちだったようです。

人望のなさから、石田三成が参加した最後の戦いである「関ヶ原の戦い」では総大将にならずに、毛利輝元を総大将にして戦いました。

石田三成の性格は悪かったのか

生前の三成は、秀吉の家臣に嫌われたり、関ヶ原の戦いで裏切られたりと、世間一般では嫌われ者として認識されていました。亡くなった後も、家康を正当化するために、三成は「悪」として語り継がれます。

しかし、近年では秀吉に対する忠誠心や、実直さが評価され「悪」という認識が無くなっていきます。実際に三成の行ってきたことを辿っていくと、細かいところにも目が行き届き、人情を重んじる真っすぐな人です。

そのような良い面とは異なり、融通の効かない面や人を突き放すような発言も見られたので、領民からはとても慕われていましたが、豊臣政権内では嫌われていました。

石田三成の子孫は?

三成の子供については詳しいことは分かっていませんが、3男3女がいたとされています。

  • 長男:石田重家…関ヶ原の戦いの後、出家します。
  • 二男:石田重成…関ヶ原の戦いの後、津軽信建(つがるのぶたけ)が自分の家に匿い、名を「杉山源吾」に改めます。
  • 三男:佐吉…関ヶ原の戦いの後、出家し、名を「深長坊清幽(せいゆう)」に改めます。
  • 長女:名前不明…山田隼人正の正室です。
  • 次女:小石殿…岡重政の正室です。
  • 三女:辰姫…高台院の養女になった後、津軽信枚の正室になります。

三成の妻は、宇多頼忠(うだよりただ)という武将の娘です。皎月院(こうげついん)という名前で、本名は「うた」ではないかと言われています。彼女の姉が真田昌幸の妻であったという説もありますが、詳細は不明です。

彼女は関ヶ原の戦いの際に、石田正継と兄の正澄と共に佐和山城で自害したとされています。そのほかにも、三成が死んだ後に自害した、戦いの後も生き延びていたとも言われていますが、真相は分かっていません。

しかし、三成の子供は、関ヶ原の戦いの後も殺されることなく存命しているということが分判明しています。子供も殺されてしまうような世の中でしたが、三成の子供は温情を与えられ子孫も残っています。

石田三成の功績

功績1「豊臣秀吉の政治を支える」

豊臣秀吉

石田三成は豊臣秀吉の右腕として、自慢の知力を活かして政治を支えます。

豊臣秀吉は1582年から太閤検地を始めますが、その多くを石田三成は担当し、東北地方、九州地方、関東地方と、様々な場所の太閤検地を行いました。この活躍により、豊臣秀吉は年貢を効率よく取り、国民を管理することに成功します。

他にも、朝鮮出兵の際も船奉行として取り締まるなど、忙しい豊臣秀吉の右腕として、戦場で活躍する武将達のサポートを行いました。

功績2「豊臣家の為に最後まで戦い抜いた」

豊臣秀吉の3男、豊臣秀頼

豊臣秀吉が死んだ後も、石田三成は豊臣家の為に最後まで戦い抜きます。

豊臣秀吉の死後、徳川家康は秀吉が生前作った法を破ってまで、天下を取るために暴走し始めます。これに対して石田三成は豊臣家を守るために、徳川家康を倒すことに決めました。

そして関ヶ原の戦いで石田三成は徳川家康に敗れ、捕えられますが、捕えられた後も信念を貫き通します。最後まで自分にとっての将軍は豊臣家の豊臣秀頼だけだと言い張り、徳川家康を認めることはありませんでした。

石田三成の名言

「 筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」
辞世の句として石田三成が詠んだものと言われています。

「あのかがり火と同じように、自分の命はもうすぐ消えてしまう」と豊臣家を守るという、使命を達成できない自分の状態を詠んでいます。

「残すは盗なり。使い過ごして借銭するは愚人なり」

「主君から貰った給料は賢く使い切るべき」という意味です。石田三成は常に優秀な武将を登用するためにお金を使っており、貯金は全くありませんでした。そんな石田三成らしい名言です。

「汝に二心あるを知らざりしは愚かなり。されど、義を捨て人を欺きて、裏切したるは、武将の恥辱、末の世までも語り伝へて笑うべし」

関ヶ原の戦いで裏切り行為をした小早川秀秋に言った言葉で「裏切り者のお前は武将として恥ずかしい、いつまでも語り継がれ、笑い物になるだろう」と激しく罵倒しました。

この名言からかはわかりませんが、今でも小早川秀秋は関ヶ原の戦いで裏切り行為をした人物として有名です。

石田三成にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「三杯のお茶(三献茶)で豊臣秀吉に気に入られる」

昔も今も、お茶を出すときの心配りは大切

鷹狩りの帰りに喉が渇いた秀吉は、ある寺に入りお茶を所望しました。秀吉の要望に、ある寺小姓がお茶を入れて戻ってきます。

秀吉の前に出されたのは、大椀に並々に注がれた温いお茶でした。それを、ぐいっと一気に飲み干した秀吉は、もう一杯持ってくるように言います。すると今度は、中椀に少し熱いお茶が出されました。

それも一気に飲み干した秀吉は、またお茶を所望します。次に出されたのは、小椀に注がれた熱いお茶でした。なぜ、このようにお茶を出したのかを秀吉は寺小姓に聞きます。

寺小姓は、最初は喉を潤したいから温いお茶を、2杯目は少し喉が潤されたからさっきよりも熱めのお茶を、3杯目はお茶を楽しめるように熱いものを出したと言いました。

その言葉に感銘を受けた秀吉は、その寺小姓を自分の小姓として自分の側に置いたと言われています。その三杯の茶を出したのが三成です。三成の聡明さが伝わる話と言えるでしょう。

都市伝説・武勇伝2「大谷吉継に恥をかかせないためにお茶を飲んだ」

一杯のお茶で心が通じることもある?

こちらもお茶にまつわる話です。秀吉は茶会をよく開いており、当時は一口ずつお茶を回し飲みする習慣がありました。

それに参加した大谷吉継(おおたによしつぐ)は、ライ病(ハンセン病)を患っていました。そのため、口をつけずにお茶を回そうとしましたが、顔の膿がお茶の中に入ってしまいます。その様子を見ていた者たちは飲むふりをして、お茶を回していきます。

吉継は、羞恥と屈辱がせめぎ合っていたことでしょう。しかし、三成はお茶をすべて飲み干し、しまいには秀吉に「美味しかったので、全部飲み干してしまいました。もう一杯ください」と言ったのです。

三成が義に篤い人であったことが伝わるエピソードですね。これに恩を感じた吉継は、三成と交流を深めていきます。

大谷吉継と石田三成の関係は想像以上に濃かった?熱きエピソードを紹介

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