「アナーニ事件ってなに?」
「アナーニ事件が起きた経緯は?」
「アナーニ事件でどんな影響があった?」
この記事にたどりついたあなたはこのようにお考えでしょう。
アナーニ事件とは、「フランス王フィリップ4世が絶対的権力を持つローマ教皇ボニファティウス8世を捕らえ幽閉した事件」をさします。アナーニという言葉は、イタリアの田舎町アナーニという地域名から由来します。
この事件は、中世1303年の出来事ですが、当時のキリスト教は絶対的な権力を誇っており、教皇というキリスト教における最高権力者の前では誰も逆らうことができませんでした。
そんな教皇を一国の王が幽閉し、そして幽閉された教皇は精神的なショックにより、わずか一月後に『憤死』(急逝)するという出来事は人々に大きな衝撃を与え、それと同時にローマ教皇の権力が衰退していることを象徴している事件でもありました。この事件をきっかけに、教皇庁の争いが起こり教会大分裂など、多くの事件が起こります。
この記事では
- アナーニ事件の概要
- アナーニ事件に関係している人物
- アナーニ事件が与えた影響
- アナーニ事件の覚え方
まで、アナーニ事件に関するすべて解説していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
アナーニ事件とは?
アナーニ事件の概要
1294年、当時のフランスは領地を巡ってイングランドと対立し、戦争していました。しかし戦争が長期化したことにより、資金が尽きてきました。戦争に必要な資金を調達するために、フランスの王フィリップ4世はフランス国内全土に課税を実施します。これまで税金を徴収してこなかったキリスト教会も例外なく、課税の対象となりました。
しかしキリスト教会至上主義であるローマ教皇ボニファティウス8世はこれに反発し、1302年「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」という教皇の勅令を出します。これは教皇の権威は絶対で、服従しないものは救済されないというものでした。
ところが、フランス王フィリップ4世はボニファティウス8世の勅令発表後、いち早く三部会というものを開きます。三部会というのは身分制の議会のことで、第一身分である聖職者、第二身分である貴族、第三身分である市民のそれぞれの代表を召集した会議のことです。この会議で貴族や市民から課税の承認を得たフィリップ4世は、1303年ローマ南方に位置するアナーニ地方でボニファティウス8世を捕らえ、幽閉しました。この事件を「アナーニ事件」といいます。
幽閉から3日程で教皇の手兵により、ボニファティウス8世は救出されローマに帰還します。教皇はこの事件に関係した聖職者を全員破門としましたが効果は薄く、大きな動揺と屈辱を与えられたボニファティウス8世はその1ヶ月後、急死しました。
アナーニ事件の発端は?
フィリップ4世は戦争の長期化によりフランスの資金繰りが厳しくなったことで、フランス全土に課税を実施しました。キリスト教会にも課税を強いられたため、ローマ教皇ボニファティウス8世は反発します。なぜなら、キリスト教徒の多いフランスは、ローマ教皇庁においても重要な資金源であったためです。教会に課税されることによって、教皇庁の収入も減ってしまい、大きな痛手となりました。
すぐにボニファティウス8世はキリスト教会及び聖職者への課税を禁止する勅書を発行しましたが、この一件をきっかけにフィリップ4世とボニファティウス8世の対立は深まり、お互いをけん制しあうようになっていきます。
そんな中ボニファティウス8世は教皇である自分の権力を絶対とした勅令を出します。これは例え一国の王であろうとも、教皇である自分の方が優位であるというものでした。元々対立していたフィリップ4世としては、この勅令を易々と受け入れるわけにはいきません。そしてアナーニ事件へとつながっていくわけです。