アナーニ事件はどこで起きた?
イタリアの首都ローマより南東に位置するアナーニという都市で起こりました。アナーニでは1200年から1300年までの100年間で4人もの教皇を輩出し、アナーニの黄金時代とも呼ばれていました。ボニファティウス8世もアナーニ出身の教皇です。
アナーニには教皇の別荘があり、ボニファティウス8世も宮殿滞在中に捕らえられ幽閉されることとなりました。
アナーニ事件の関係している人物は?
ボニファティウス8世
ボニファティウス8世(1235年頃~1303年)はローマ南東にあるアナーニの出身で、本名はベネデッド・カエターニ(Benedetto Caetani)といいます。スポレートの街でキリスト教を学び、パリやローマで聖堂参事会の会員を務め、1276年にローマ教皇庁入りを果たしました。枢機卿に昇進後、教皇特使としてイタリア各地やフランスを巡礼し、各地で支援者を獲得していきました。
第192代ローマ教皇であるケレスティヌス5世は「自分は教皇の器ではない」と在位数ヶ月にして退位し、その後コンクラーヴェ(教皇選出会議)により、カエターニ枢機卿はボニファティウス8世として第193代ローマ教皇に選出されました。しかし、ケレスティヌス5世が退位したのはボニファティウス8世の陰謀だったのではないかとまことしやかに囁かれるようになり、ボニファティウス8世は自身の保身のためローマより遠く離れたフモーネ城の牢獄にケレスティヌス5世を幽閉しました。
ローマを拠点としていたイタリア有数の貴族であるコロンナ家は、前教皇退位・新教皇就任の経緯に違和感を持ち、ボニファティウス8世に反発します。1297年、コロンナ家はボニファティウス8世の個人的な財産を強奪するという手法を取り、「ボニファティウス8世は真の教皇ではない」という声明文を出しました。この事態に対して、ボニファティウス8世はコロンナ家一族を破門とし、一族討伐のため十字軍を召集します。1298年コロンナ家は教皇軍に屈しましたが、その年のうちに反乱を起こし、フランスへと逃亡しました。
1303年にアナーニ事件によって捕らえられ幽閉された後、3日程で教皇軍により救出されましたが、精神的なショックが非常に大きく、わずか一月後に急逝しました。高齢と長年の不摂生により腎臓を悪くしていたことが死因だとされていますが、人々は「憤死」と表現し、教皇を悼みました。
フィリップ4世
フィリップ4世(1268年~1314年)はフランスの王で、「端麗王」、「寡黙な王」などさまざまな呼び名があります。幼少期より次期王として育てられ、17歳の時に病死した父フィリップ3世の跡を継ぎ、即位しました。
非常に合理的な性格で、中世フランスにおいては名君として評価されています。容姿が整っていたことから「端麗王」という呼び名がつけられましたが、控えめで寡黙なところもあり、パミエの司教であったベルナール・セッセという人物からは「ワシミミズクのような人物」と称されていました。
ボニファティウス8世と争ったことから、キリスト教への信仰がないように感じるかもしれませんが、実はきわめて敬虔なキリスト教徒でした。晩年には巡礼におもむき、断食の苦行に取り組んだり、修道院をいくつも建立しています。しかし敬虔なキリスト教徒であったからこそ、フランスこそがキリスト教における中心であり、そのフランスの王こそが最も信仰の深いキリスト教徒だと確信していました。この考えに基づき、フランス王である自分に逆らうものは、例えローマ教皇であろうと関係なく戦いました。
アナーニ事件が与えた影響
教皇のバビロン捕囚
ボニファティウス8世の死後、次のローマ教皇としてベネディクトゥス11世が就任しますが、就任後わずか11ヶ月で急逝します。その後就任したのがクレメンス5世です。クレメンス5世は臆病な性格で、優柔不断なことから、フィリップ4世に対しても反対できず、フィリップ4世の権威が増していきました。
フィリップ4世は厄介なローマ教皇がいなくなったことで、さらにフランス王権を強化させていこうと考えます。そしてフランス王が目をつけたのが、当時王すら凌駕するほどの強い特権を持ったテンプル騎士団でした。テンプル騎士団は各地で数々の武功をあげ、非常に裕福な騎士団でもありました。フランスは度々テンプル騎士団から金銭的な援助を受けており、潤沢な資金を持つテンプル騎士団は財政が困窮しているフランスにとって魅力的だったのです。
1307年、フィリップ4世はテンプル騎士団を王宮に招き、手厚く歓迎しました。しかしこれはフィリップ4世の罠で、虚をついてテンプル騎士団を一網打尽にしました。テンプル騎士団の残党はことごとく捕らえられ、残虐な拷問を受けます。そして欧州最強とも謳われた騎士団は瞬く間に壊滅しました。
この一件に恐れをなしたクレメンス5世はフィリップ4世の目の届かないところを求め、南フランスにあるアヴィニョンに住まいを移しました。これを「アヴィニョン捕囚」または古代のバビロン捕囚になぞらえ「教皇のバビロン捕囚」と呼ぶようになりました。
教会大分裂
教皇のバビロン捕囚より70年の歳月が経った1377年、教皇であったグレゴリウス11世はローマに戻ることを決意し、アヴィニョンから去ります。ローマに帰還後、1378年にグレゴリウス11世は急逝し、新たにウルバヌス6世が教皇として選出されました。
しかしながらこの選出にフランスの枢機卿たちが異を唱え、新たにクレメンス7世を教皇として擁立します。これによりローマとアヴィニョンで教皇がそれぞれ並び立つ「教会大分裂」が起こりました。1409年にピサ教会会議が行われ、この分裂状態を解消しようとしますが、さらなる3人目の教皇も登場し、教会には大きな混乱が生じました。1417年にコンスタンツ公会議が行われるまで、この混乱は続きました。
アナーニ事件の覚え方
アナーニ事件は簡単にまとめると教皇ボニファティウス8世がフランス王フィリップ4世によってアナーニという都市で捕らえられ幽閉された事件になります。ここでアナーニ事件に関する語呂合わせをご紹介します。
「いざお疲(1302)れの三部会」
1302年、フィリップ4世によって聖職者・貴族・市民の三身分の代表を集めた三部会が行われました。
「仏王まるで人されーさ(1303)、アナーニ事件」
1303年、フィリップ4世によってボニファティウス8世がアナーニの地で監禁されました。
アナーニ事件に関するまとめ
アナーニ事件の概要から、関わる人物、後に与えた影響まで解説しました。いかがでしたでしょうか。
筆者は世界史を履修していましたが、個人的に中世の混沌とした情勢は苦手でした。しかしこの記事を執筆するにあたって、事件だけでなく、事件の発端や関係している人物たちのことを調べることによって、さらに理解を深めることができました。
この記事が皆様にとっても、アナーニ事件への理解につながりますと幸いです。長々とお付き合いいただきありがとうございました。