島津豊久は1570年から1600年にかけて活躍した薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の戦国武将です。島津というと島津義久や島津義弘といった名武将で有名ですが、島津豊久も小田原征伐や朝鮮出兵に参加し豊臣政府の発展に大きく貢献しています。
また、島津豊久は忠義に厚く勇猛果敢な武将であることも知られていて、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いでは自軍の大将を助けるために自分が影武者になり、戦死しました。今回はそんな島津豊久の人柄や生い立ち、功績などを通してその人生を振り返ってみましょう。
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島津豊久とはどんな人?生涯ハイライト
名前 | 島津豊久 |
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誕生日 | 1570年7月13日 |
没日 | 1600年10月21日 |
生地 | 薩摩藩串木野城 (現在の鹿児島県いちき串木野市) |
没地 | 関ケ原 (現在の岐阜県大垣市上石津町烏頭坂) |
配偶者 | 島津忠長娘 |
埋葬場所 | 鹿児島県大垣市島津塚 |
島津豊久は1570年に薩摩で生まれました。父は、戦国時代に活躍した島津4兄弟の末っ子である島津家久です。1584年には初陣を果たし、敵の首を挙げるという目覚ましい戦功を残しました。その後、父が急死したため、家督を継いで日向国佐土原城の城主となります。叔父である島津義弘が、まだ幼い豊久を支えました。
1600年、島津家は関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍に味方する形で参戦します。豊久も義弘に従って参陣していました。しかし戦いは東軍の勝利となり、島津軍は撤退することになります。その際、豊久は義弘を薩摩へ逃すために殿(しんがり)を務め、関ヶ原で討ち死にしました。享年30歳でした。
「島津の退き口」とも言われるこの撤退戦は、敵中を正面突破するという大胆な戦略で、豊久の捨て身の覚悟があったからこそ成せたものでした。若い命を散らした豊久の壮絶な最期については、さまざまな伝説が残っています。歴史の教科書にはほとんど登場しない豊久ですが、人々の記憶には深く刻まれた武将だったのです。
島津豊久の性格や愛刀、死因
島津豊久はどんな性格?
島津義久は叔父である島津義弘の朝鮮出兵に同行したり、関ヶ原の戦いで200人しかいない島津義弘の軍に自分の家臣を引き連れて駆け付けています。このことから、自分を可愛がってくれた島津義弘の窮地を救おうとする忠誠心の厚い人であったことが伺えました。
また、島津豊久は部下への面倒見が良かったという言い伝えもあり、朝鮮出兵の際には兵士1人1人にお酒を注いで励ましたという逸話も残っています。そのため、島津豊久は目上の人間だけでなく目下の人間に配慮できる頼もしさも兼ね備えた武将であることもわかりますね。
島津豊久の愛刀は?
島津豊久といえば、平野耕太によるアクション系歴史ファンタジー漫画「ドリフターズ」の主人公として知られていますね。この作品の中で豊久は野太刀(のだち)と言われる刀を愛用しています。
野太刀はかなり長大な刀であり、薩摩に伝わる剣術の流派である自顕(じげん)流で使うこともあります。ただ、史実としては、豊久が野太刀を愛用していたかどうかは定かではありません。
島津豊久と島津義弘の関係は?
島津義弘とは島津豊久と同じく薩摩藩出身の戦国武将で、あまりの強さと活躍から鬼島津という異名が付くほど恐れられていた人物です。
そんな島津義弘は島津豊久の父である家久の2番目の兄で、生前の島津豊久とは深い親交があったことが知られています。島津豊久は父を17歳の時に亡くしていて、島津義弘はまだ若い島津豊久を実の息子の様に可愛がっていました。
そのため、島津豊久は島津義弘を深く敬愛していて、彼がピンチの時には必ず駆け付けるなど、二人の間には強い絆があったことが伺えます。
島津豊久の死因は?
島津豊久の死因は、明確なことはわかっていません。伝承では、最後は複数の兵士に囲まれ、何度も槍で身体を突かれて亡くなったとされています。着ていた陣羽織がボロボロになるほどだったと言われており、討死もしくは失血死の可能性が高いです。
言い伝えの中には、自刃という説もあります。傷を負った豊久を、村人たちが手当てしようとしたところ、村人たちに迷惑がかかってはいけないと豊久が自刃を選んだというものです。
豊久が最後の戦いで迎え撃っていたのは、井伊直政・本多忠勝・福島正則といった、徳川勢でもかなりの実力派の武将たちでした。「徳川四天王」の一人とされる井伊直政は、この豊久との戦いで受けた傷が元で、2年後に亡くなります。軍を率いる武将が致命傷を受けるほど、この戦いは壮絶を極めたということがわかります。
島津豊久の功績
功績1「朝鮮出兵で大活躍!」
島津豊久は1592年の豊臣秀吉の命令による朝鮮出兵にも島津義弘と共に参戦しています。特に有名なのが江原道の春川城に入った時のエピソードです。
彼らが春川城に在城していたとき、明から6万の大軍が城を攻めてきます。対する島津豊久達の軍は500人の兵士からいないため状況は圧倒的不利。それでも、兵たちによる奮戦で一時は退却した明の軍団は再び現れて城を攻め始めます。
そこで、島津豊久は持ち前の勇猛果敢さを駆使してぎりぎりまで敵を引き付けて約100艇の銃で敵に攻撃を仕掛けました。そして明軍が突然の攻撃に浮足立ったところで島津豊久は全軍を率いて出撃します。これに驚いた明軍は逃走していきますが、島津豊久は追撃を行い最終的に城を守り抜くことに成功しました。
功績2「島津の退き口で義弘の影武者を務める」
1600年に起こった関ヶ原の戦いでも島津豊久はピンチの島津義弘を救うために活躍します。ここで起こったのが有名な島津の退き口です。島津義弘は関ヶ原の戦いで徳川家康の要請を受けて東軍に援軍として駆け付けますが、入城を断られてしまい、仕方なく石田三成率いる西軍に味方することになります。
しかし、西軍でも島津義弘の軍隊は冷遇され、これに恨みを持った島津軍は戦が始まっても戦いに加勢することはありませんでした。戦いは西軍が優勢でしたが、小早川秀秋の裏切りにより敗戦が濃厚となり島津軍は東軍に囲まれて命の危機に陥ります。
この時に島津豊久は軍の最後尾に数名を配置して足止めを行う「捨てがまり」という戦法で島津義弘の影武者を務めて、彼の命を救いました。また、島津豊久はこの時の戦いで討ち死にしたと言われています。
功績3「島津家を江戸時代まで残した」
島津家は、関ヶ原の戦いで西軍についたにもかかわらず、江戸時代も領地を減らすことのないまま家を存続することができました。島津家が残った理由はいくつか考えられますが、その一つに、島津の徳川家への和平交渉に井伊直政が尽力したことが挙げられます。
井伊直政といえば、豊久が最後の戦いで鉄砲傷を負わせた武将です。しかし直政は、その豊久の勇猛果敢な戦いぶりに感嘆し、関ヶ原の戦いの後には島津家の力になったのです。つまり、豊久の必死の戦いぶりが、未来の島津家を守ったと言っても過言ではないでしょう。
島津豊久の名言
今日の儀は面々手柄次第に可相働候、御方も共通に御心得候得
この言葉は関ヶ原の戦いで加勢しない島津軍に痺れを切らした石田三成が加勢を申し出た時に、島津豊久が放った言葉です。この言葉は「今日の戦は各々好きなように戦うことと心得ているので、私たちも好きなようにやらせていただきます。」という意味があります。西軍で散々な扱いを受けた島津軍と伯父をないがしろにされた島津豊久の恨みがこもっていると言えるでしょう。
天運は既に窮まる。戦うというも負けは明らかなり。我もここに戦死しよう。義弘公は兵を率いて薩摩に帰られよ。国家の存亡は公(義弘)の一身にかかれり
この言葉は関ヶ原の戦いで東軍に囲まれて、死を覚悟し切腹しようとした島津義弘に島津豊久がかけたとされる言葉です。この言葉は要約すると「既に勝負は決しています。私が敵を引き付けるので義弘公は退却してください。薩摩藩の未来はあなたにかかっています。」という意味になります。島津義弘は島津豊久のこの言葉で撤退を決めて、徳川家康の率いる本軍の突撃し真横を通り退却に成功しました。
島津豊久にまつわる逸話
逸話1「実はかなりの美少年?」
小生、明治三十年ロンドンにて惣領事の荒川巳治氏を訪いしに、氏の話に、関ヶ原で討死せし島津豊久はなかなかの美少年なりし。朝鮮にて大決戦ありし前に武勇士を一々その前によび出してしまいをやりしに、おのおの一期の思い出なりとて大いに勇み討死を事ともせざりし由。
この言葉は1867年生まれの生物学者南方熊楠が記した言葉です。南方熊楠は「関ケ原で討ち死にした島津豊久は中々の美少年だったらしい。朝鮮の戦いの前に兵士を1人ずつ呼び出して酒を注いだところ、兵士は大層喜んで死んでも良いとまで思ったそうだ。」と世間話で知人が話したことを書いています。
さらに、この言葉以外にも様々な文献で「無双の美童」「美少人」などと容姿を褒める言葉が記されているので、当時の人たちから見るとかなりのイケメンであったことが伺えますね。
逸話2「島津豊久は関ヶ原の戦いで死んでいない?」
島津豊久は関ヶ原の戦いで亡くなった後は埼玉県にある瑠璃光寺で火葬され埋葬されたという言い伝えがあります。実際に瑠璃光寺には島津塚という島津家の墓所が設置されていて一般人でも参拝できる墓所です。
しかし、関ケ原の戦いの後島津家は三年間彼の生死がわからず、安否を確認させたという逸話も残っています。また、島津豊久は関ヶ原の戦いで生き残り、どこかに落ちのびたという説も残っていて本当に亡くなったかどうかは定かではありません。
わかりやすい文章ありがとうございます。
「島津豊久はどんな性格?」の下記の冒頭の名前は間違っているのではないかと思いました。
島津義久は叔父である島津義弘の朝鮮出兵に同行したり、