【年表付き】島津豊久とはどんな人?逸話や愛刀、死因、名言も紹介

島津豊久の簡単年表

1584年 – 14歳
初陣で首級を討ち取る

沖田畷の戦いは現在の長崎県で勃発した戦いで九州の戦国大名である龍造寺隆信対有馬晴信の戦いで島津家は有馬軍を援護する形で参加しています。

この戦いには島津豊久の父である島津家久も参加していて、持ち前の頭脳で敵を翻弄し勝利しました。当時14歳の島津豊久は初めて参加するこの戦いで敵を1人討ち取っていて無事生還しています。

1588年 – 18歳
日向佐土原城主になる

1587年、島津豊久は父である島津家久を亡くし、翌年の1588年に父の後を継ぐ形で日向佐土原城の城主となります。島津家久の死因ははっきりとはしていませんが、豊臣軍の陣に挨拶に言った後に急死しているので毒殺や暗殺の疑いもありました。この疑いを晴らすために豊臣秀吉は島津義弘に島津豊久に領地を与える様に命じています。

また、この頃から島津義弘は島津豊久を自分の子と同じように面倒を見ていたので、島津豊久は彼のことを深く信頼するようになりました。

1592年 – 22歳
朝鮮出兵で様々な武功を上げる

1592年には天下を収めた豊臣秀吉が朝鮮を侵略しようと計画し、日本各地の大名に朝鮮出兵を命じました。島津豊久は島津義弘に同行して、朝鮮出兵で様々な武功を上げています。朝鮮出兵は約6年に渡って続きますが、戦いの途中で豊臣秀吉が病死して主君を失った大名たちは日本へ帰国することになりました。

島津豊久の生涯年表

1570年 – 0歳「薩摩藩串木野城に生まれる。」

島津豊久は1570年の7月に島津家久の長男として誕生します。また、関ヶ原の戦いの後に島津家の後継者になるいとこの島津忠恒はこの時6歳です。

姉川の戦いにて織田信長が勝利する

島津豊久が生まれた同年には織田信長による姉川の戦いが勃発し、その3年後織田軍の敵である浅井氏と朝倉氏は滅亡してしまいます。さらに、この時浅井氏と朝倉氏を支持したことが原因で比叡山延暦寺は織田信長の手により焼き討ちにされてしまいました。

室町幕府の崩壊

同じく島津豊久の生誕から3年後の1573年には、室町幕府の将軍であった足利義昭が織田信長の手により京都から追放されています。この時点で室町幕府の崩壊は決定的になり、時代は戦国時代の真っ只中に突入します。

1584年 – 14歳「初陣として沖田畷の戦いに参加する」

島津氏 家紋

島津豊久は1584年14歳の時に初めて戦である沖田畷の戦いに参加して敵の首を討ち取っています。

島津家久の作戦で島津・有馬軍が圧勝

沖田畷の戦いは敵である龍造寺軍は約6万人、それにたいして島津・有馬軍は約6千人という兵力差で圧倒的に不利な状況に立たされていました。しかし、島津豊久は戦いの場となった沖田畷の地形を生かした「釣り野伏」という戦法で龍造寺軍を撃退します。この時の勝利で島津家は九州の中でも最も強力な戦国大名として君臨しました。

豊臣秀吉、小牧・長久手の戦いで織田氏と交戦

小牧・長久手の戦いは尾張や美濃を中心として起こった一連の戦のことで、1582年に本能寺の変で死亡した織田信長の後継者として誰が天下人になるかを争って起こりました。

当時の豊臣秀吉は大阪城を建設するなど天下人として振舞っています。これをよく思わなかった織田信長の息子は徳川家康を味方に付けて戦いを挑みましたが、結果的に両者は和解しました。

1588年 – 18歳「父の死後佐土原城城主となる」

刀狩令 文書

1588年、父である島津家久の死後に島津豊久は18歳という若さで佐土原城城主となります。

島津氏、豊臣秀吉に降伏する

1587年島津氏は九州平定のために戸次川の戦いで豊臣秀吉の軍勢に敗北します。この時豊臣秀吉は既に大きな力を持っていたので、島津氏は降伏して豊臣氏の傘下に入りました。

また、この時島津家久は豊臣氏の陣中に挨拶に言った後に急死しています。

豊臣秀吉、刀狩令を発令する。

1588年自分の地位を確実なものにした豊臣秀吉は刀狩令を発令。農民が刀を所持することを禁止して、兵農分離を進めていきます。この政策は農民による一揆の防止や寺院の武装解除を目的として行われた政策です。

また、当時交付された文書には取り上げた刀などは大仏殿を作るための釘やかすがいに使用すると書かれていました。

1590年 – 20歳「小田原征伐に参戦」

1590年島津豊久は豊臣秀吉の要請で小田原征伐に参加

豊臣秀吉、天下統一を果たす

小田原征伐は北条家の家臣が真田昌幸の領地に侵攻したことが原因で起こりました。当時豊臣秀吉は大名間の争いを禁じていて、争いの原因となった北条氏を滅ぼしています。そして、この戦いをきっかけに豊臣秀吉は東北地方の平定も果たして、事実上天下統一を成し遂げました。

徳川家康、江戸城に入城する

1590年は豊臣秀吉から北条氏の領地一帯を褒美として与えられた徳川家康が江戸城に入城して、関東地方を治めた年でもあります。褒美で領地をもらったというと良い事のように聞こえますが、豊臣秀吉は領地を与えるとともに徳川家康が元々持っていた三河(現在の愛知県)などの領地を取り上げています。

当時の関東地方は京都から遠い田舎という扱いで、領地を取り上げられた徳川家康は仕方なく江戸城に入城。豊臣秀吉はなるべく仲の良くない徳川家康を遠ざけるためにこのような褒美を与えたと言われています。

1592〜1598年 – 22~28歳「文禄・慶長の役に参戦」

島津豊久は1592年から1598年の6年間島津義弘に同行して、朝鮮出兵に参加しています。ここでも、勇猛果敢な戦い方が評価され慶長の役の漆川梁海戦では「豊久跳んで敵船に移り,敵を斬ること麻の如し」と語り継がれています。

豊臣秀吉、病死する。

1598年豊臣秀吉は62歳で病死しています。生前自分に死が近いと悟った豊臣秀吉は諸大名を集めて徳川家康に自分の息子である秀頼の面倒を見る様に頼んでいます。

また、この時、病に臥せっていた豊臣秀吉の代わりに、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家が五大老として政治を取り仕切っていました。

日本軍が朝鮮から撤退

豊臣秀吉の死をきっかけに五大老は、朝鮮に出兵していた大名たちに日本への帰還命令を出して呼び戻しました。こうして、豊臣秀吉による朝鮮出兵は幕を閉じます。

この朝鮮出兵では多くの犠牲が払われ、豊臣秀吉に忠誠を尽くしていた大名たちは大幅に戦力を削がれました。逆に出兵せずに済んだ徳川家康の軍は、この間に着々と力を蓄えていたという背景もあります。

1600年 – 31歳「関ヶ原の戦いにて戦死する」

島津家久は1600年に起こった関ヶ原の戦いで、島津軍の撤退時に戦死します。

薩摩藩にて庄内の乱が勃発

関ヶ原の戦いが起こる1年前の1599年には島津豊久のいとこの島津忠恒が、家臣の筆頭を斬殺したことが原因で内乱が起こります。この内乱は島津家の内乱の中でもかなり大きく、最終的には徳川家康が仲介をして収められています。

しかし、この戦いで島津氏はかなりの犠牲を払ってしまいました。そのため、この戦は関ヶ原の戦いの際に島津義弘が援軍要請を出した時の兵を遅れなかった理由の一つとも言われています。

関ヶ原の戦いで徳川軍が勝利する

関ヶ原の戦いでは石田三成が率いる西軍は約8万人、徳川家康の率いる東軍や約7万人で一見徳川家康の方が不利に見えます。しかし、この数字はあくまで関が原に布陣した兵士の数であり、徳川軍の守備部位隊には更に多くの兵士を保有していました。

また、西軍は大名同士の確執も多く足並みが上手く揃わなかったことや、合戦の途中で小早川秀秋が裏切ったことで撤退を余儀なくされ、関ヶ原の戦いに敗北します。

島津豊久の関連作品

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忠義に死す 島津豊久

忠義に死す島津豊久は、島津豊久本人を主人公としてその半生が描かれた小説です。この本は小説なので脚色等もありますが、沖田畷の戦いや朝鮮出兵、関ケ原の戦いなどで島津豊久がどのように行動したのかが書かれています。そのため、もっと詳しく島津豊久の人生を追ってみたいという方におすすめの本です。

島津豊久と島津家久

島津豊久と島津家久は、島津家の二人を主人公とした長編小説です。この本では島津豊久だけでなく、優れた兵法で活躍した父の島津豊久の半生も描かれています。そのため、島津豊久やその周辺の人物との人間関係も知りたいという場合におすすめの本です。

関ケ原 島津退き口

島津の退き口では島津軍は後退ではなく前進する形で徳川の本陣の横をかすめる様に撤退を行い、少数で進撃してくる姿に徳川家康は震えあがったと言われています。しかし、なぜ後方ではなく前方に進む形で撤退したのか不思議に思う方も多いのではないでしょうか?

関ケ原島津退き口は関ヶ原の戦いでどのようなやりとりがあって、島津の退き口が行われたかについての経緯が詳細に書かれているので、このような疑問を解決したい方におすすめです。

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島津義弘 関が原の戦い 島津の退き口

この動画は関ヶ原の戦いの直前から島津の退き口までの経緯が簡単に紹介されていて、初心者の方でも分かりやすい動画です。島津豊久の名前は直接出てくることはありませんが、島津義弘がなぜ西軍に味方したのか、援軍は何故来なかったのかなどを15分ほどで知れるので手っ取り早く経緯を知りたい方におすすめします。

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島津豊久についてのまとめ

いかかでしたでしょうか?この記事は戦国時代の猛将島津豊久の人生を振り返ってみました。

戦国時代では島津義弘や島津家久を含めた島津四兄弟が有名ですが、島津豊久の勇猛果敢ぶりも注目していきたいところですね。島津豊久は31歳という若さでこの世を去っていますが、彼の残した功績はその後の島津家の発展に大きく貢献しています。

また、お世話になった島津義弘への忠義の厚さや仲間思いな性格も彼の魅力の一つですね。この記事をきっかけにより多くの人が島津豊久の人生に興味を持っていただければ幸いです。

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1 COMMENT

匿名

わかりやすい文章ありがとうございます。

「島津豊久はどんな性格?」の下記の冒頭の名前は間違っているのではないかと思いました。

島津義久は叔父である島津義弘の朝鮮出兵に同行したり、

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