モネの生涯年表
1840年 – 0歳「クロード・モネの誕生」
クロード・モネは父クロード・アドルフ・モネと母ルイーザ・ジャスティス・アブレ・モネの次男としてパリに生まれました。
モネの幼少期
1歳のときにカトリックの洗礼を受け、オスカーの名前をもらいます。その後、5歳のときにノルマンディーのル・アーヴルへ家族一同引越しをしましたが、すでにこの頃から画家を夢見ていたそうで、11歳のときにル・アーヴル美術学校に入学することになりました。その当時、地元で木炭で描いた肖像画を売っていたため、周囲の人々にはよく知られていたそうです。
17歳のときに母ルイーザを失い、悲痛に暮れていましたが、その1年後にモネの描いたカリカチュアが画家ウジェーヌ・ブーダンに気に入られ、油彩画の描き方を教わるようになり、ル・アーヴルの北に位置するルエルにて「ルエルの眺め」を市の展覧会に出品しました。
1858年 – 18歳「絵を学ぶためにパリへ」
パリで絵画を学びたいと思っていたモネは父の反対を受けます。しかし肖像画を売って、自ら稼いだお金でパリに行くことを伝えると、父からもパリ行きの許可がおりました。18歳のときにパリへと旅立ちます。
パリではブーダンの師匠であるコンスタン・トロワイヨンのもとで学ぶように言われましたが、これを拒否し、アカデミーシュイスという私立の画塾に入りました。ここではのちのち、カミーユ・ピサロなどの画家と出会います。
シャルル・グレールのアトリエに所属(1860年代)
20歳のときに兵役でアルジェリアに行くことになりますが、その次の年にチフスに感染し、帰国することとなります。同年、シャルル・グレールのアトリエに所属することとなりました。
ここではピエール=オーギュスト・ルノワールやアルフレッド・シスレーと出会うことになります。25歳のときにサロン・ド・パリという公式の展覧会に「オンフルールのセーヌ河口」と「干潮のエーヴ岬」を出品し、入選となりました。その後は絵がなかなか売れるようにはならず、貧困の時代が続きます。
1874年 – 33歳「第1回印象派展」
30歳になると、自分のアトリエを構えるようになります。20代前半ではサロンに入選することも多かったモネですが、だんだんと落選することが増えてきます。そこで、カミーユ・ピサロ、エドガー・ドガ、ピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに独自の展覧会を開くことを提案します。
そして、1974年4月15日、33歳のときに第1回印象派展が開催されました。モネは「印象・日の出」など12点を出品しましたが、最初の観客は3000人ほどと少なく、批評家からも酷評を受け散々な結果となってしまいました。
モネの印象派としての活躍
それから2年後に第2回印象派展が開かれ、次の年に第3回が開催されました。それぞれ出品した有名な作品は「ラ・ジャポネーズ」や「サン・ラザール駅舎」などでした。批評家からも徐々に印象派の存在が認めれるようになり、特に「サン・ラザール駅舎」には賛辞が送られました。
45歳のときに国際展覧会に出品するようになり、だんだんと世間にも認められるようになります。 1889年の48歳のときに開催された、オーギュスト・ロダンとの2人だけの展覧会ではそれまでに製作した作品を展示し、大成功を収めることができました。
1889年 – 48歳「ジヴェルニーにて『連作』を手がけるようになる」
1880年代の後半から晩年まで、「積みわら」から始まる「連作」を多く手がけるようになります。同じモチーフが天候や環境や時間帯によって表情が変化するのに興味を持ち、それをカンヴァスの上に表現することに力を尽くしました。
「連作」として知られているのは「積みわら」、「ポプラ並木」、「ルーアン大聖堂」、「ウォータールー橋」など多岐に渡ります。そして1890年代後半から「睡蓮」の製作に取り掛かるようになります。
1895年 – 55歳「『睡蓮』の製作開始」
1895年からはジヴェルニー自宅にある睡蓮の池をモチーフに「連作」を手がけるようになります。ここから1926年に亡くなるまで、約300点近くの「睡蓮」を描き上げます。睡蓮の池の水面が時の流れ、光の当たり具合、天候によって刻々と変化する様がモネを惹きつけたのでしょう。
1895年から1900年までは睡蓮第1連作といって、太鼓橋とともに映る睡蓮を描写しています。1900年以後は水面に浮かぶ睡蓮のみをさまざまな条件のもとで描いていきました。
1909年 – 69歳「『睡蓮』の大装飾画に挑戦」
1909年に一つの部屋の壁全体に「睡蓮」を飾ることを思いつきます。ここからはなかなか納得のいく絵を描くことができず、1914年までの絵は気に入らなかった場合は自分で引き裂いて台無しにしてしまいました。1909年から1914年にかけての期間はほとんど作品が残っていません。
その後、1915年から「睡蓮」の大装飾画に挑戦することになり、ここから1926年に亡くなるまで製作し続けます。この大装飾画はモネの没後、オランジュリー美術館に収められ、1927年に除幕式が行われました。
1911年 – 71歳「妻アリス死去」
1892年に結婚して以来、ともに寄り添ってきた妻アリスが1911年5月に亡くなりました。ちょうどモネの製作がうまくいかない時期と重なっていたため、その悲しみは相当な深さだったでしょう。そして、3年後の1914年2月には長男のジャンが亡くなりました。
最愛の家族が相次いで亡くなり、絶望の淵に立っていましたが、強い精神力でそれをきっかけにして奮い立ち、その後は再び絵画の製作に熱を注げるようになりました。
1912年 – 72歳「白内障の手術を受ける」
1909年頃から白内障による視力の低下を感じており、その影響は当時描いていた絵にも現れています。1912年にようやく左目の白内障の手術を行い、1923年に右目の手術を行いました。それからは亡くなるまで睡蓮の大装飾画に没頭したそうです。
1926年 – 86歳「12月5日、死去」
白内障の手術後は精力的に「睡蓮」の大装飾画の製作に励み、1924年には生涯最後となる回顧展を開催しました。しかし、1926年の夏に肺硬化症で入院することとなり、そのまま1926年12月5日に帰らぬ人となりました。亡くなった当日、息子3人がモネを看取ったそうです。
1927年 – 死去後「『睡蓮』の部屋、完成」
モネが生前に計画していた壁一面を「睡蓮」で飾られた「『睡蓮』の部屋」が1927年5月17日にオランジュリー美術館で実現しました。モネの意向に従い、二つの部屋を4つの作品で飾ったそうです。
この頃にはすでにピカソなどによるキュビズムが誕生しており、「『睡蓮』の部屋」は思ったほど観客を集められませんでした。しかし、その後1950年代の抽象表現主義の登場からは再び注目を集めるようになりました。
モネは生涯を通して自然の揺れ動きを表現することに命をかけ、さまざまな方面に影響を与えたのでした。現在でも多くの人に愛される理由が年表を通して分かる気がしますね。
モネの関連作品
おすすめ書籍・本・作品集
新装版 ぼくはクロード・モネ 絵本でよむ画家のおはなし
クロード・モネや印象派について簡単に知りたい方におすすめの本となっています。
子供でも読めるので一緒の読み聞かせをするのもいいかもしれません。絵本には付録もついており、どのように自然の風景を描いていたのかなどの細かい情報も載っています。
まずはざっくりとモネについて知りたい方におすすめの1冊です。こちらは電子版の販売もあります。
もっと知りたいモネ 生涯と作品
薄めの本で文章もわかりやすく書かれているので幅広い世代におすすめの1冊です。
モネの作品もフルカラーで載っているので、目で楽しみながらモネの生涯についても知ることができます。薄めの本となっているためさほど時間もかからずに読み進めることができます。
目でも楽しみたいという方はぜひ手にとってみてください。
モネ作品集
大きさが約30cm×20cmほどあり、約200ページにおよぶボリューム満点な1冊となっています。
画面が大きくて見やすく、綺麗な色に仕上がっており、有名な「睡蓮」「印象・日の出」から「積みわら」などまで多種多彩なモネ作品を鑑賞することができます。
モネの絵が好きな方は持っていて損しない1冊です。
モネについてのまとめ
自然の移ろいを絵で表すということに人生をかけたクロード・モネ。その作品は時代を超えて愛され続け、人々を魅了していくことと思います。
そんなモネについて今回は簡単にまとめさせていただきました。
うんこ