印象派の代表として知られる、クロード・モネ。代表作である「睡蓮」はとても有名な絵の一つですよね。日本での展覧会も数多く開催されており、日本人の好きな画家No.1にも挙げられます。
やわらかく、あたたかみのあるタッチが特徴的で他の画家にも大きな影響を与えた人物でもあります。
印象派の先駆けとして知られるクロード・モネですが、初めから世間や同業者に賞賛されていたわけではありません。「自然に対して自分が感じた感覚」をそのまま表現することに重点を置いていたため、当時の一般的な画風とはかけ離れており、展覧会で酷評を受けていたそうです。
しかし、その後印象派の画家がだんだんと増え始め、世間に認められるようになりました。そして、現在は時代を超えて愛される画家となったのです。
今回はそんなモネの魅力をたくさんの方に知っていただきたく思い、記事にしました。学生時代、美術クラブに所属しており、現在でも年間20回以上展覧会を見に行く筆者がモネの魅力をふんだんに伝えたいと思います。
この記事を書いた人
モネとはどんな人物か
名前 | オスカル・クロード・モネ (Oscar-Claude Monet) |
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誕生日 | 1840年11月14日 |
没日 | 1926年12月5日 (86歳) |
生地 | フランス王国 パリ |
没地 | フランス共和国 ジヴェルニー |
配偶者 | カミーユ・ドンシュー (1870年から1879年) アリス・オシュデ (1892年から1911年) |
埋葬場所 | フランス共和国 ジヴェルニー協会墓地 |
モネの生涯をハイライト
まずはモネの生涯を簡単に紹介しましょう。
1840年、パリで生まれたクロード・モネは、ノルマンディー地方のル・アーブルで絵を描きながら少年時代を過ごしました。その後、18歳の時に風景画家のブーダンと出会い、戸外で油絵の制作を始めます。
25歳の頃、モネはフランスの王立絵画彫刻アカデミーが主催する公式美術展覧会であるサロン・ド・パリに初入選しました。しかし、その後しばらくは落選が続きます。また、この頃に普仏戦争が勃発しており、モネは兵役から逃れるためにロンドンへと移住しています。
1874年、モネは仲間と共に第1回印象派展を開催しました。この展覧会には、彼の代表作である「印象・日の出」が出展されています。その後、第2回、第3回印象派展を開催しましたが、この時点ではまだモネを含めた印象派の画家たちは、世間からあまり評価されていませんでした。
しかし、1880年代には経済的に安定するようになっていき、次第にモネは大家としての名声を確立していきました。そして、ヨーロッパ各地を旅してまわりながら、数々の連作を手掛けていきます。
晩年、モネは視力の低下や家族・友人の死など、様々な困難に直面しました。その中で、彼は病気と戦いながら「睡蓮」大装飾画の制作に熱心に取り組んでいきます。しかし、1926年に肺硬化症を患い、86歳で死去しました。
印象派の道を切り拓いた
今では多くの人に愛される画家として認知されているモネですが、当時は順風満帆に人生を歩んでいたわけではありません。20代前半でサロンに初出品すると、最初の頃は入選することも多かったモネですが、だんだんと落選することが増えてきます。
そこで、仲間とともに独自の展覧会を開くことを提案し、1974年に第1回印象派展が開催されました。しかし、最初の観客は3000人ほどと少なく、批評家からも酷評を受け散々な結果となります。
第2回、第3回が開催されるようになると、批評家からも徐々に印象派の存在が認めれるようになり、特に第3回の時に出品した「サン・ラザール駅舎」には賛辞が送られました。そして国際展覧会に出品するようになると、だんだんと世間にも認められるようになったのです。
このように、初めは批判を受けながらも、自分の姿勢を崩さずに製作を続けたことによって徐々に世間に受け入れられるようになったのでした。
アカデミズム絵画に対抗して戸外制作を行った
印象派の画家の中でも先駆者的な立ち位置であるクロード・モネは、既存のアカデミズム絵画に対抗して自然を大切にする戸外制作を行いました。アカデミズム絵画とは、当時のフランス美術界を支配していた、古代ギリシア的な「理想の美」を規範とする、明快で安定した構図を主流とした風潮です。
元々、反アカデミズムの流れの中で登場したのが印象主義でした。その先駆者であるモネは、それまでの美術界において軽視されてきた自然の観察を重視した制作手法である戸外制作を行って、主観的な感覚をキャンバスに表現しました。
彼が戸外制作をすることになったきっかけは、風景画家ウジェーヌ・ブーダンとの出会いにありました。彼に誘われたことで、モネは油絵の制作を戸外で行うようになっていきます。
新しい技法を開発した
印象派では、モネを中心に新しい技法である「筆触分割」もしくは「色彩分割」という技法を開発しました。「筆触分割」とは自然の中でモチーフの見え方が時間がすぎるごとに変化することに注目し、これを絵に表すことです。
絵の具を混ぜないで用い、できるだけ原色の絵の具を細かいタッチで描くことによって明度を落とさずに表現することにもこだわります。絵の具の乾かないうちに原色の新しい絵の具を上から重ねていくため筆触が生き生きと残ることになります。
印象派の画家は感覚的にこの手法を取り入れていましたが、新印象派の画家は、印象派の画家の筆触分割を科学的理論に基づいて解明し、これを応用して取り入れていました。
絵画を近い距離で見ると何が描いてあるかほとんどわからないですが、少し距離を置いて見るとしっかりと描写されて見えるというのが印象派の絵の特徴でもあります。この特徴をもたらすのが筆触分割です。
モネが影響を受けた人とは
モネは印象派の画家と盛んに交流がありました。まず最初に影響を受けたのはウジェーヌブーダンです。彼は早々にモネの才能を見抜き、油絵を描くことを促した人物です。
その後、展覧会で絵画が近くに展示され、名前も似ていることから一悶着があったエドゥワール・マネに影響されました。マネの描いた「草上の昼食」を同じような構図で描くというエピソードがあり、また、その後も印象派の第一人者としてお互いに影響し合いました。
そしてモネは日本にも影響を受け、また影響を与えた人物でした。「ラ・ジャポネーズ」は着物を来た妻カミーユを描いたものであり、初期の頃の「睡蓮」には日本の太鼓橋がモデルとなって現れています。
このようにモネはさまざまな方面から影響を受けたのでした。
モネの作品・代表作
代表作1「印象・日の出」
「睡蓮」と並んでモネの代表作とも言える「印象・日の出」。ル・アーヴルの港をやわらかなタッチで描いています。
第1回印象派展に出品されましたが、批評家のルイ・ルロワ自らの風刺新聞に酷評のコメントが掲載されました。この第1回印象派展という名前も当初は軽蔑の意味も込めてつけられたものとされています。
モネの生きていた時代にはあまり良い評価を受けていませんでしたが、1957年にジョン・リヴォルドの書いた「印象派の歴史」という書籍に、印象派の名前の由来となったことなどが記され、それ以後は傑作として世に認められるようになりました。
代表作2「睡蓮」
言わずと知れたモネの代表作。晩年の30年間に渡って、200点から300点もの作品が残されたと言われています。
モチーフとなっているのはジヴェルニーの自宅にあった庭の池で、初期の頃は太鼓橋とともに移る睡蓮を、その後は水面に浮かぶ睡蓮のみを描いているものが多いです。晩年は白内障を患っていたと言われるモネですが、それが作品にも現れるようになっています。
睡蓮の市場価値は非常に高く、オークションでは100億円以上の値段がするものもあります。
代表作3「サン・ラザール駅舎 」
「サン・ラザール駅舎」は1877年頃に描かれた作品で、第3回印象派展に出品されています。こちらも連作となっており、現在12点の作品が確認されています。
蒸気機関車から吐き出される煙とガラスを通る日光の光が織りなす幻想的な雰囲気を見事なタッチで描いています。美術批評家のジョルジュ・リヴィエールから賛辞も送られた名作となっています。
うんこ