山本五十六の死因を解説!アメリカ軍の暗殺計画?真相や遺体の矛盾に迫る

山本五十六大将は、戦前から太平洋戦争中にかけて、日本海軍の連合艦隊司令長官を務めた人物です。五十六は、海軍では優秀な軍人として高いリーダーシップを発揮し、将兵からは慕われた反面、敵であるアメリカ軍からは警戒されました。そのため、アメリカ軍による暗殺計画が実行され、五十六は命を落とすことになります。

五十六は、1943年4月18日、ソロモン諸島での前線視察の最中にアメリカ軍機の襲撃を受けて乗機を撃墜され、戦死しました。五十六の戦死は日本と日本海軍にとって大きな損失になりました。

この記事では、山本五十六が暗殺された理由や、その死にまつわる3つの矛盾、アメリカ軍による暗殺作戦の内容や当日の経過など、山本五十六の戦死事件を紹介していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

山本五十六の死因とは?

連合艦隊司令長官 山本五十六 大将
出典:Wikipedia

山本五十六は、将兵の労をねぎらうため前線の視察に訪れた際、ブーゲンビル島ブイン上空で、アメリカ軍機によって待ち伏せ攻撃を受け、乗機の一式陸攻を撃墜されたことにより戦死しました。五十六の戦死は海軍における重大事件として、「海軍甲事件」と呼ばれました。

海軍甲事件とは?

太平洋戦争中の日本海軍では、2つの重大事件が起こりました。その1つが、日本海軍連合艦隊司令長官山本五十六大将の戦死事件である海軍甲事件です。

ソロモン諸島

五十六は、1943年4月18日、視察のために訪れていたソロモン諸島ニューブリテン島ブイン上空で、搭乗していた一式陸上攻撃機を撃墜され、戦死しました。当時、作戦の陣頭指揮を執るためにラバウルを訪れていた五十六は、将兵たちの労をねぎらうため、帰還の前に最前線に赴くことを決めたのです。五十六の襲撃は、日本海軍の暗号解読に成功していたアメリカ軍の手によるもので、米軍は五十六を待ち伏せて暗殺する「デリンジャー作戦」と呼ばれる計画を立てていました。

五十六の在任期間3年8か月と日本海軍連合艦隊司令長官の中でも史上最長で、唯一の戦死した長官でもあります。五十六は戦死時59歳で、この出来事は日本海軍、そして国民にも大きな衝撃を与えました。

もう1つの重大事件は「海軍乙事件」と呼ばれるもので、1944年に五十六の後任として連合艦隊司令長官を務めていた古賀峰一大将が殉職した事件を指します。という2つの重大事件が起きています。

山本五十六の暗号はなぜアメリカに解読されていたのか?

ラバウルを視察する山本五十六

山本五十六の行動計画は全てアメリカに筒抜けになっていたのですが、その理由は日本海軍の暗号がアメリカによって解読されていたからでした。

五十六の視察日程は、海軍暗号書Dと呼ばれる、海軍で最もよく使われていた暗号の改良版である「暗号書波一」を使用した海軍の機密電文(NTF機密第131755番電)により、各部隊へと伝達されました。

海軍はこの暗号に大きな自信をもっていたのですが、実は敵であるアメリカ軍では、JN-25と名付けていた海軍の暗号を、太平洋戦争の早い時期から解読することに成功していました。1942年1月に、撃沈した日本潜水艦から暗号書を入手したことにより、飛躍的に解読精度が向上し、この時期にはほぼリアルタイムでの解読が可能になっていました。

アメリカによる暗号解読はミッドウェー海戦での敗北など、戦いの行方を左右する大きな要因にもなっており、この時も、五十六の行動計画はすべてアメリカに筒抜けになっていたことが、日本海軍を揺るがす重大事件を引き起こすことになります。

山本五十六の死因にまつわる3つの矛盾

撃墜された山本五十六の乗機

海軍甲事件を巡っては、今もまだ結論の出ていないいくつかの謎が残されています。ここでは、山本五十六の死に関する3つの矛盾について紹介します。

矛盾1「遺体の腐敗があまり進行していなかった」

山本五十六は墜落後の翌日に発見されたのですが、高温多湿のジャングルという環境にも関わらず遺体の腐敗があまり進行していないという矛盾がありました。さらに、遺体の状況を見てみると、これには不自然な部分があり、五十六は墜落後もしばらくの間生きていたのではないかという説があります。

五十六の遺体は座席に座り長剣を握った状態で機体の傍に投げ出されていて、それ以外にはほとんど外傷がなかったため、搭乗中に死亡したものと考えられました。しかし、現地で五十六の遺体を確認した人間の証言によれば、発見時、五十六の遺体には蛆が湧いていなかったといいます。

日本軍が五十六の遺体を発見したのは、墜落の翌日、19日の午前中のことでした。高温多湿のジャングルでは遺体は急速に腐敗するため、遺体が綺麗な状態のまま残っていたというのはおかしな話です。

そのため、五十六は、墜落後もしばらくは生存しており、遺体の腐敗状況から見て、死亡したのは19日の夜明けごろではないかといわれています。

矛盾2「遺体にほとんど傷がついていなかった」

山本五十六の死因は、敵戦闘機の機銃弾を被弾したことによるものとされていますが、戦闘機の銃弾を受けたにしては、遺体の損傷がほとんどなかったという矛盾がありました。

五十六の遺体には、頭から顎を通り、胸へと抜ける貫通銃創がありました。このため、五十六は搭乗中に戦闘機の機銃弾によって絶命したとされています。しかし、五十六を襲ったP-38が搭載していたのは、口径12.7ミリや20ミリの機銃です。この弾丸が人間の頭に当たれば、頭部ごと吹き飛んでしまうはずです。

五十六の遺体については、報告書を書いた軍医がきちんとした検死が行われず、不備があったことを戦後に認めており、最初に五十六の遺体を診た別の軍医は、全身打撲か内臓破裂によるショック死の可能性があるとメモに書き残しています。

五十六が墜落後も生存していた可能性があることも考慮すれば、死因として、こちらのほうが適当だと考えられ、五十六の死因としては、自決もしくは第三者による射殺といったものも考えられます。

矛盾3「アメリカ軍の撃墜者ランフィアーはバーバーとの共同戦果を否定」

トーマス・ランフィアー大尉

山本五十六の乗っていた一式陸攻を撃墜したのは、最初、アメリカ陸軍のパイロットトーマス・ランフィアー大尉だとされていました。しかし、後にレックス・バーバー中尉との共同戦果とされ、一体どちらが正しいのか現在でもはっきりとわかっていないという矛盾があります。 

レックス・バーバー中尉

五十六撃墜は、戦時中はランフィアー1人による戦果になっていて、ランフィアーはこの功績により、勇敢な兵士に贈られるシルバースター勲章を授与されました。ですが、空中戦においてはパイロット自身も正確に状況を把握できていないことが多く、戦後の日本側の資料や関係者の証言等を調査した結果、あらためて、共同戦果と認定されました。

当然、ランフィアーはこれに納得せず、死の間際まで単独撃墜を主張して、これを公認するよう軍に訴えていました。実際にP-38を飛行させて行われた検証では、バーバーが撃墜した可能性が高いという結果も出ています。果たして2人のうち、どちらが五十六を仕留めたのか、現在でもはっきりとした答えは出ていません。

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1 COMMENT

Wボソン

山本五十六は撃墜された後パラシュートで降下、その後米国に逃亡し生きていた、
という説があります。
現在山本五十六の遺体は何処にあるのか?
遺体を現在のDNA技術などで精密に調べれば全てが明らかになります。
  ※実際にはやらせてくれないでしょう、明らかになっては困るからでしょう。

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