浜口雄幸とはどんな人?内閣時代の政策、東京駅の事件や名言まで解説

浜口雄幸は高知県出身の政治家で、1929年から1931年にかけて総理大臣を務めました。真面目で頑固な性格と、目力の鋭さから「ライオン宰相」と呼ばれ、国民から人気がありました。

若い頃は上司に煙たがられ地方に飛ばされますが、次第にその真面目ぶりが評価され、政治家になるように勧められました。45歳にして選挙に立候補して当選。政治家の道を歩みます。

総理大臣になった際には、国民の生活を守る為、中国やアメリカと友好を深めました。更に海軍の艦隊の数を減らす等、軍備費用の削減を達成したのです。後に政策に不満を持つ者から東京駅で撃たれ、その怪我が元で1931年に亡くなりました。

浜口雄幸

浜口雄幸は1870年土佐国で生まれます。幼い頃から勉強家で、学校を卒業後は大蔵省へ入省。地方を巡った後、立憲同志会に入党すると共に衆議院議員に当選し、政治家の道を歩みました。

1929年に総理大臣に任命され、軍事費用が増大する中で国際協調と緊縮財政を掲げ、野党や軍部の圧力に屈せずに軍縮や金解禁等の政策を断行します。後に統帥権の干犯問題で一部の国民から反発を買い、狙撃され重傷を負いました。後に傷を押して復帰するものの、1931年に亡くなります。

頑固で一度決めたらやり遂げる性格と、その風貌からライオン宰相と呼ばれ、国民から親しまれた政治家でした。今回は浜口雄幸の人間的魅力とリーダーのあり方について、浜口雄幸を調べ抜いた私が紹介させていただきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

浜口雄幸とはどんな人物か

名前浜口雄幸(はまぐち おさち)
※旧字体の場合は濱口雄幸
誕生日1870年5月1日
没日1931年8月26日
生地土佐国長岡郡五台山唐谷(現高知市)
没地浜口雄幸邸(東京)
配偶者浜口夏
埋葬場所東京青山墓地

浜口雄幸の出身地・性格

土佐国

浜口雄幸は1870年(明治3年)土佐国で林業を営む、水口胤平の末っ子として誕生しました。幼少期は真面目で温厚。休み時間も本を手放さない勤勉家でした。

土佐国は坂本龍馬や板垣退助等の幕末の志士が生まれた土地であり、雄幸も幼い頃から政治に興味を持つようになりました。

官僚時代から仕事熱心で、正しいと思った事は上司であっても決して譲らない頑固な性格でした。後に総理大臣に上り詰めたのは、多くの支持者が彼の正義感の高さ、実直さを評価したからです。

浜口雄幸の内閣時代の政治

浜口雄幸内閣

浜口雄幸内閣は1929年7月2日に誕生。前内閣が急遽総辞職したものの「政治空白は許されない」という雄幸の信念の元、拝命を受けたその日に組閣しました。これまでの高圧的な外交を改め、外務大臣に幣原喜重郎を起用します。

中国に対して融和外交を展開し、国内外の緊張を和らげました。更に金融恐慌(1927年〜)への経済立て直し策として、大蔵大臣に井上準之助を起用し、金解禁や産業の合理化を実施します。更にロンドン海軍軍縮会議にて、列強と協調する形で軍事費の削減を達成しました。

雄幸は野党や軍部からの圧力にも屈せず、根回しをせず、正面からさまざまな政局に取り組みました。決死の覚悟で政治に取り組んだその姿勢は、現在でも高く評価されています。

浜口雄幸の失敗談

井上準之助

最大の失敗は金解禁の断行です。金解禁は貨幣と金を同じ値段にする事であり、為替を統一させる事で、円高や円安に左右されずに国際的な貿易が出来るメリットがありました。

金融界や貿易関係者から金解禁を望む声が大きく、雄幸は金解禁に踏み切ります。しかし円高の状態で金のレートを設定した為、国外に大量の金が流出。更に世界恐慌も相まって、日本は昭和恐慌という未曾有の不景気となりました。

倒産や失業者が溢れ、株価は暴落。農村では娘を身売りする家も出ていますが、雄幸はアメリカが不況から抜け出す事を信じて、金解禁を中止する事はありませんでした。総理大臣として強いリーダーシップを発揮したものの、頑固で一度決めた事を貫く姿勢が、裏目に出てしまいました。

浜口雄幸の死因、東京駅襲撃事件とは

浜口雄幸襲撃事件

浜口内閣は軍事費の縮小を断行した為、野党の政友会から「統帥権の干犯だ」と批判されます。統帥権とは天皇が軍を動かす権利の事であり、陸軍海軍の総長が代わりに受け持っていました。政友会は政権を奪う事に必死になり、「浜口内閣が軍部の権利を犯した」と軍部の暴走を許す発言をしたのです。

1930年11月14日、雄幸は東京駅で愛国社社員の佐郷屋留雄に銃撃されます。銃弾は腹部を貫き、腸の30%を摘出する手術を受けます。

佐郷屋は凶行に及んだ理由を「統帥権を干犯したからだ」と答えますが「統帥権とは何か」という質問には答えられませんでした。

雄幸は1月には退院するものの、3月には無理を押して復帰します。4月には病状が悪化し、再入院した事で総理大臣を辞任。8月26日に62歳で逝去します。

浜口雄幸の功績

功績1「議会中心主義の確立に尽力した」

当時官僚出身の政治家は、爵位を得て貴族院議員になる事が多かったのですが、雄幸は「政党政治家として国民の為に尽くす以上、衆議院に席を置くのが当然」と考え、衆議院議員として選挙に立候補しています。

1927年に立憲民政党が結成されると、雄幸は初代総裁に任命されます。民政党は総務委員の選出も党内で選挙をする等、議会中心で政策を考えています。雄幸が総裁だった国民選挙の際は単独過半数の議席を獲得。この時代に議会中心の政治というあり方を浸透させたのは、雄幸の功績が大きいです。

功績2「一貫して国際協調路線を貫いた 」

雄幸は日本の国際的な立場や国力を把握しており、米英と戦争をしても勝ち目がない事を知っていました。アメリカやイギリスも雄幸の協調外交を高く評価しています。

前内閣の田中義一内閣は張作霖爆殺事件等を引き起こし、次内閣の若槻禮次郎内閣は軍部の暴走を止められずに満州事変が発生しました。浜口雄幸内閣の時代は束の間な平和の時期であり、雄幸は軍部の暴走を押さえ込んでいたのです。雄幸の政治が続いていれば、日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。

功績3「ライオン宰相と呼ばれ、国民から親しまれた」

浜口雄幸

頑固一徹な性格と、眼光鋭いその風貌から庶民からの人気はとても高く「ライオン宰相」と親しみを込めて呼ばれています。国民だけでなく、政治家や官僚も痛みを分かち合うべきと考え、庁の自動車の削減と官僚の給料減額を断行。自らの給与も2割減らします。

結果的に昭和恐慌を引き起こしたものの、雄幸の人格は皆から評価されています。日比谷公園の党葬では、沿道や会場一体に21万5千人もの大衆が訪れました。

浜口雄幸の名言

政治は浜口唯一の趣味道楽であると人はいう。余答えて曰く、政治が趣味道楽であってたまるものか。およそ政治ほど真剣なものはない。命がけでやるべきものである。

周囲は雄幸は政治一筋という意味で「政治を趣味道楽」と例えたのですが、雄幸は政治が趣味道楽に例えられた事に対して言及したのです。雄幸の真面目な性格が垣間見える名言です。

男子の本懐である

東京駅で襲撃された時に雄幸が言った言葉です。雄幸は経費削減の為にボディーガードの数も減らしており、襲撃された遠因となりました。雄幸は決死の思いで政治に取り組んでおり、暗殺されても本望だと考えていたのです。

浜口雄幸の人物相関図

浜口雄幸の人物相関図は見つかりませんでしたので、家系図をご覧ください。

浜口雄幸にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「実は本名が雄幸ではなく幸雄だった?」

浜口雄幸

雄幸の名前の由来ですが、父親が出世届を出す際に酔っ払っていた為、本当は幸雄と書くところを雄幸と書いてしまったという説があります。実はこの説は都市伝説です。

水口胤平は既に2人の男児がおり、雄幸の両親は女の子を欲しがり、お幸という名前を考えていました。しかし生まれてきたのはまた男の子でした。両親はせっかく考えた名前だったので、男の幸で雄幸という名前をつけたのです。

都市伝説・武勇伝2「おならをした事が新聞に掲載された」

当時の新聞の記事

雄幸が東京駅で襲撃された際、腸を30cmも切除しています。主治医は「腸機能の回復のサインはオナラが出る事」と報告。国民は雄幸のオナラを待ち望んでいたのです。狙撃から3日後、雄幸は主治医や家族の前で立派なオナラを2回します。病室では「万歳!オナラ万歳!」の声がこだましたそうです。

新聞も「放屁一発天下に轟く」等、オナラをきた喜びを報道しました。主治医は『秋の夜や天下にひびく屁1つ』と川柳を詠みあげる等、国内は雄幸のオナラに沸き立ったのです。

都市伝説・武勇伝3「特殊な細菌の持ち主だった」

快方に向かったと思われた雄幸ですが、9カ月後に死去。狙撃された事自体が原因ではなく、傷口に放線菌が侵入した事が原因でした。放線菌とは本来土壌に存在する菌であり、全員が保菌しているものではありません。雄幸は、たまたま放線菌を保持していた事で亡くなったのです。

狙撃者の佐郷屋は殺人犯なのか、殺人未遂なのか、裁判は紛糾します。審議の結果、佐郷屋は殺人未遂と判断されます。1940年に仮出所し、1972年まで存命でした。

1 2

コメントを残す