浜口雄幸の簡単年表
雄幸は土佐国で林業を営む水口胤平の三男として誕生。水口家は土佐国で代々山林見回りをする家系です。明治維新間もない時期であり、胤平の仕事は江戸時代と大きく変わりはありませんでした。
胤平と繁子の7年ぶりの子どもであり、2人は女の子を希望したものの、生まれたのは男の子でした。名前の由来は諸説ありますが、幸を込めて雄幸と名付けます。
優秀な成績で学校を卒業し、大蔵省に入省します。勤勉だったものの頑固な性格か災いし、1年で山形県に左遷。その半年後には島根県に左遷される等、全国を転々とします。左遷先でも勤勉な仕事ぶりは変わらず、ロンドン・タイムスを購読する習慣を持つ等、国際情勢を正確に把握していました。
長きに渡り勤勉な仕事を続けた事で、後藤新平等の有力者から高い評価を得るようになりました。この年の前年に雄幸は大蔵次官に就任。
更に地元の高知県から衆議院議員への出馬を打診されます。財政に明るい政治家になるという志を掲げ、見事当選を果たします。その後は加藤高明内閣の大蔵大臣等の要職を務めます。
田中義一内閣が天皇に叱責された事で総辞職。立憲民政党の党首だった雄幸に総理大臣の拝命が降ります。雄幸は初の高知県出身の総理大臣となりました。
協調外交を展開し、軍縮や金解禁を断行するも、ウォール街の大恐慌の影響を受け、深刻な不況が訪れます。翌年東京駅で雄幸は狙撃され、その怪我が元で1931年8月26日に死去しました。
浜口雄幸の年表
1870年 – 0歳「土佐国で生まれる」
浜口雄幸の誕生
雄幸は土佐国長岡郡五台山唐谷で水口胤平繁子夫婦の三男として誕生。
長兄の義清は雄幸の16歳上、次兄の義正は雄幸の8歳上でした。
両親と兄達の愛情を受け、雄幸はすくすくと育ちます。水口家は江戸時代から山林の見回りをする家系でした。両親は仕事で家を空ける事が多く、兄達も学校も留守がちでした。幼少期の雄幸は家で一人で本を読んで過ごす、おとなしい子どもでした。
1889年 – 19歳「浜口家の養子へ」
夏と結婚する
中学5年の頃、雄幸に養子縁組の話がありました。相手は高知県安芸郡田野村の浜口家の一人娘の夏。当主の浜口義立は剣客として有名でしたが、2人の男子は幼くして亡くなっています。
義立は優秀な婿養子を探す為、高知県中を探し回り、浜口雄幸を見出します。中学時代の雄幸は成績優秀、志操堅固、そして3男と全ての条件が揃っていました。高知中学を卒業後、雄幸は夏と初対面し養子縁組の盃を交わします。雄幸19歳、夏16歳とまだまだ若い2人でした。
1895年 – 25歳「帝国大学法科政治学科卒業」
優秀な成績で卒業
養子縁組後、雄幸は再び学業に励みます。旧制高知中学、第三高等中学を経て、帝国大学法科政治学科を卒業。帝国大学は後の東京大学であり、雄幸は3番の成績で卒業しています。同級生には幣原喜重郎等、後の政治活動に欠かせない同士もいました。
数え年20歳の頃に父の胤平は死去。21歳の頃に夏と正式に結婚しています。
大蔵省に入省
卒業後は大蔵省に入省。文官試験の期間中に長女の和子が危篤に陥った後に死去しており、雄幸にとっては辛い時でもありました。
入省後は酒も煙草も嗜まず、真面目に仕事に取り組みます。正しいと思った事には、上司であっても一歩も引かない性格の為、入省後1年で山形県に左遷、その後も島根に左遷される等、各地を転々とします。
1906年 – 39歳「後藤新平に見出される」
{雄幸の働きぶりが徐々に評価され始める}
ある日、初代満鉄の総裁の後藤新平が雄幸の元を尋ねます。新平は雄幸の仕事ぶりを聞きつけ、満鉄理事の就任を打診しました。給与は10倍以上も破格の待遇が約束されるにもかかわらず、雄幸はその誘いを断ります。
当時の雄幸は塩田整理の仕事を任されており、道半ばで放り投げる事は出来ないと考えのでした。新平は雄幸の人格に更に惚れ込み、1911年に塩田整理の仕事に区切りがついた後に、再度共に働く事を打診され、通信次官を務めています。
1915年 – 45歳「衆議院議員に立候補する」
政治家浜口雄幸の誕生
大蔵次官等の要職を歴任するようになった雄幸の元に、地元の高知県から衆議院議員出馬の要請がありました。当時官僚が政治家になる際は、貴族院の爵位を保持したまま転身する人が多かったのですが、雄幸は国民に選ばれた形で政治家になる為に、衆議院議員の選挙に立候補したのです。
政治家に転身した後は、後の総理大臣加藤高明に見出され重用されます。雄幸は一貫して国際協調、軍縮という政策を掲げており、周囲の期待を受けて憲政会の幹部に登りつめます。
1928年 – 58歳「初の普通選挙実施」
雄幸が党首を務める立憲民政党が僅差で敗れる
1925年に加藤高明内閣の元で、普通選挙法が制定。25歳の男性全員に参政権が与えられ、結果に注目が集まります。この頃は金融恐慌が発生し、国内は不安定な状態にありました。
今回の普通選挙は立憲政友会と立憲民政党の一騎打ちでした。政友会は元陸軍大将の田中義一を党首に添え、対外拡大路線と公共投資の促進を掲げています。政友会は浜口雄幸が党首になり、国際協調路線と緊縮財政で不況を乗り切る事を掲げています。
結果は政友会217議席、民政党216議席と民政党は僅か1議席で与党になる事は出来ませんでした。
1929年 – 60歳「内閣総理大臣就任」
浜口雄幸内閣の誕生
田中義一内閣は経済の建て直しに成功はしたものの、中国に対する強硬路線が昭和天皇の反感を買い、総辞職します。とうとう浜口雄幸に総理大臣の座が回ってきたのです。組閣した日の夜に雄幸は家族で写真を撮り、「自分は大命を受けた以上、決死の覚悟で事にあたるつもりだ」と話しました。
雄幸は緊縮財政としてまず政府予算を削減し、政治家の公用車や給与もカット。そして金本位制の復活を果たす為、財務大臣に井上準之助を起用しました。
金本位制は一時的にデフレを誘発する為、一時的に経済を低迷させる恐れがあった為、雄幸はラジオで演説を行い、国民に理解を求めています。金解禁は野党の反対を押し切って断行されたのです。
1930年 – 61歳「ロンドン海軍軍縮会議と雄幸の襲撃」
条約の批准と統帥権干犯問題の浮上
雄幸は予算削減と国際協調の路線から、軍縮に積極的でした。1922年にも軍縮会議は行われており、その際には日本の主力艦はアメリカやイギリスに対して6割の保有が認められていました。ロンドン海軍軍縮会議の締結条件は対7割であると海軍から強い要請がありました。
雄幸は若槻禮次郎を起用し、粘り強い交渉を重ね、主力艦の保有割合を69.75%まで引き出す事に成功。海軍の穏健派も大賛成でしたが、一部からは反発の声が上がります。雄幸は根回しに頼らず、強行突破で条約を批准します。
軍部の許可なく条約を批准した事を政友会が問題視し、統帥権の干犯問題として浮上します。更に前年の金解禁による不景気が深刻化した事で、雄幸の政策に対して批判の声が高まっていきます。その最中、8月26日に雄幸は東京駅で襲撃されたのです。
1931年 – 62歳「浜口雄幸死去」
無理を押して国会に出席。傷が元で死去する
政友会の鳩山一郎らは雄幸が早く復帰しない事を糾弾。責任感の強い雄幸は3月10日に国会に復帰しますが状態の悪さは明らかでした。
4日10日には病状の悪化で入院。政友会からは体調が悪い中で復帰した事を疑問視する声が上がる等、執拗に雄幸を攻撃し続けました。4月13日療養の為に雄幸は政治家を引退。療養を続けるものの8月26日に放射菌症が元で亡くなりました。
浜口雄幸の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
男子の本懐
雄幸の生涯を描いた作品であり、タイトルは襲撃された時に発した雄幸の言葉です。命を投げ打って政策に取り組んだ雄幸の覚悟が文章から伝わってきます。枢密院、元老、統帥権等、この時代を語る上で欠かせない言葉が沢山登場するので、歴史背景を学ぶ上でもオススメの一冊です。
おすすめの動画
浜口雄幸首相 1930 Japanese PM OSACHI HAMAGUCHI
雄幸の演説が収録された動画です。断念ながら音声のみとなっています。内容は金解禁の正当性等、民政党政策の正しさを訴える内容です。ライオン宰相の名前に相応しい、勇ましくはっきりとした声です。庶民の人気が高かった事も納得出来ますね。
関連外部リンク
浜口雄幸についてのまとめ
今回はライオン宰相、浜口雄幸の魅力と政策について紹介しました。人柄やそのリーダーシップ等、魅力に溢れていた人物でしたが、柔軟性に欠けていた部分もあり、結果的に昭和恐慌を引き起こしてしまいました。人を評価する時には”人格と結果は分けて考える”事が必要になる良い例だと思います。