源頼朝ってどんな性格だったの?
人柄はよかった?それとも悪かった…?
「イイクニ作ろう鎌倉幕府」を開いたことで有名な源頼朝。源義経を弟に持ち、その後室町幕府・江戸幕府と続く武家による政治システムである幕府制度を作った立役者で、非常に有名な人物ですよね。
頼朝は優れた政治手腕で朝廷との信頼関係を築き、鎌倉幕府の初代将軍に上り詰めた天才的な政治家でした。しかし、弟である義経を無慈悲に討伐した事で「冷徹」とも言われ、そのイメージが先行するあまり頼朝の人気はあまり高いとは言えないかもしれません。
また、このように天才的な政治家であり無慈悲なイメージのある頼朝ですが、実は女性関係はルーズだったとも言われています。
実際のところ、源頼朝の性格、人柄はどうだったのでしょうか?
この記事では源頼朝はいったいどんな性格だったのか、様々な歴史上の出来事と絡めながら深く掘り下げていきたいと思います。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
源頼朝はどんな性格だった?
天才的な政治家
源頼朝の天才的な政治力は人々をまとめる力にありました。平安時代から続く荘園制度から生まれた武士たちが、荘園同士の争いや結びつきで組織となり武士団と名乗るようになります。荘園の人々は常に別の荘園から攻められ、領地を奪われる危険と隣り合わせでした。
そんな中、源氏のリーダーであった頼朝が新たな土地政策を考案します。頼朝に従い税を払った荘園は、他の荘園から攻め込まれた際に頼朝が率いる軍勢に守ってもらえるというものです。朝廷に代わって荘園を守り補償することで、人々から信頼を得て力を付けていきました。
また当時の政治の中心であった「朝廷」とも、上手い距離を保ちながら関係を築いたことも頼朝の政治手腕によるものです。武力による革命は古い政府を滅ぼして新しい政府に変わるのが普通ですが、頼朝はそれをしませんでした。
あくまでも「朝廷を守るために平家を滅ぼした」というスタンスを貫き、朝廷から「征夷大将軍」に任命されることで鎌倉幕府を治めました。天皇を国家の中心として国づくりを行い、その後700年にわたる武家政権の方針となりました。
源頼朝とはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や性格、家系図も紹介】
質素な倹約家
鎌倉時代の価値観は、平安時代の華麗で豪華な国風文化を否定するものでした。特に鎌倉地方の武士たちは東国の土地開拓のために送り込まれた者が多く、領主とはいっても貧しい暮らしを強いられていました。そのため質素な生活が根付き、質実剛健な鎌倉時代の文化に大きな影響を及ぼしました。
頼朝もその影響を受け、倹約家な一面もありました。側近の一人だった藤原俊兼が派手な衣装を来ているのを見た頼朝が、刀で小袖を切り落とし「身の程をわきまえて倹約しなさい」とたしなめたというエピソードも残っています。
優れた策略家
頼朝は戦(いくさ)があまり得意ではなかったといいます。その分、戦局を見極めるのが得意でした。
1180年の富士川の戦いで平家を破った際、敗走する平氏を頼朝は追撃しようとしました。しかし、家臣から「関東を平定することが先決です」と進言されそれに従っています。手柄を焦らずに戦局を見極め、家臣の言葉に耳を傾けることが出来る頼朝の柔軟さが表れたエピソードです。
さらに頼朝は、この時配下にあった武士たちひとりひとりを自分の部屋に呼び、「お前たちが頼りだ」と声をかけたという話も残っています。
身内さえ信じない疑り深さ
頼朝は弟である義経を無慈悲に討伐したというイメージがありますが、果たしてどうだったのでしょうか。
鎌倉幕府成立の歴史は、源氏の骨肉の身内争いの歴史でもあります。平氏との戦いの中で、頼朝は兄弟や従兄弟たちとの確執を深めていきました。この疑い深さから血族を討伐しすぎたため、頼朝直系の一族も鎌倉幕府成立30年ほどで途絶えてしまったほどです。
この章ではその中でも弟である源義経と従兄弟である源義仲との確執を紹介します。
源義経
幼名を「牛若丸」といった源義経は、頼朝の異母弟でした。戦下手だった頼朝と違い、義経は戦いの才があり数々の武勇伝が残っています。しかしその才能が原因で兄である頼朝から不信感を抱かれることになってしまいました。
1185年の「壇ノ浦の戦い」で平氏滅亡の立役者になった義経は、後白河法皇から官位を受けます。頼朝は義経が朝廷とつながりを持ち、自分を倒す企てをしていると激怒しました。このことを知った義経は‟そんなつもりはない”と謝意を伝えるため鎌倉に出向いたり腰越状を出したりしましたが、頼朝は義経を許しませんでした。
青年期にお世話になっていた藤原秀衡を頼って奥州に逃げた義経でしたが、病で秀衡が亡くなってしまい頼朝の命を受けた息子の泰衡により自害させられてしまいました。
源義仲
源義仲(木曾義仲)は河内源氏の一族で頼朝・義経の従兄弟にあたります。義仲の父である義賢は頼朝らの兄である義平によって討たれたため、彼らは父の仇でもありました。しかし私情は挟まず、平氏討伐のため頼朝に続いて挙兵しました。
そんな二人の関係が悪化したのは、1183年に頼朝と敵対していた源行家をかくまったことがきっかけです。この時は義仲が人質を鎌倉の頼朝の下へ送ることで衝突を免れています。
その後倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破り、一時は征夷大将軍(征東大将軍という説もある)まで上り詰めました。しかし後白河法皇との政治的駆け引きに失敗して逆族のレッテルを張られてしまい、討伐命令を受けた頼朝に打ち取られてしまいました。
源頼朝の女性関係
初めての女性八重姫
平清盛によって伊豆国に島流しにされた頼朝を、監視役として預かっていたのは豪族・伊東祐親でした。伊東の三女である「八重姫」が頼朝の最初の女性だったと言われています。
伊東が京都大番役として在京すると、たちまち通じ合う仲となり子供を設けました。しかし屋敷に戻った伊東にそのことがばれると、ふたりは引き離され子供は川に沈められてしまいました。
大恋愛ののち北条政子と結婚
八重姫の一件での伊東の怒りから頼朝をかくまったのが北条時政でした。そしてあろうことか頼朝は懲りもせず時政の在京時に娘・北条政子と関係を持ちます。
そのことを知り激怒した時政が政子を別の男性に嫁がせようとしましたが、政子は屋敷を抜け出し頼朝の元へ逃げてしまいます。仕方なく時政はふたりの婚姻を認め、ふたりの大恋愛はめでたく成就しました。
亀の前との浮気
頼朝の浮気相手として歴史に名を残すのが、伊豆にいたころから仕えていた女性「亀の前」です。1182年の源平合戦のころから頼朝は亀の前と密会を重ねていました。
妊娠中だった政子は出産を終えた後、継母である牧の方から頼朝の浮気を報告され激怒したと言います。怒りのあまり牧の方の父・牧宗親に命じて亀の前の家を破壊してしまったほどです。しかしこれによって頼朝は、より亀の前を寵愛することになりました。
源頼朝の性格に関するまとめ
いかがでしたか?
鎌倉幕府を開いた源頼朝は世間的にはあまり人気がないかもしれません。派手なエピソードや手柄は無いかもしれませんが、その後700年に及ぶ武家政権を創り出した功績はとても大きいと思います。その類いまれなる政治手腕で東国の武士たちをまとめ上げ、政治の中枢だった朝廷とも抜群の距離感を保ち幕府を誕生させました。
しかし一族でさえ信用しない疑い深さやまったく懲りない女性観によって、一族を途絶えさせてしまい幕府の政権を北条氏に引き渡すことになります。
このように歴史的背景を見ると、知っていた情報も違って見えてきたりします。思い描く源頼朝像は変化したでしょうか。ぜひ様々な角度から見た源頼朝を知って、知識を深めましょう!