「鎌倉幕府を開いた源頼朝ってどんな人?」
「征夷大将軍になるまでにどんな道のりを歩んだの?」
源頼朝は平家を滅ぼし、およそ150年続いた鎌倉幕府を開いた将軍です。鎌倉幕府の初代征夷大将軍になったことから武士のための政治が出来るようになり、新たな幕府の仕組みを作ったともされます。
さらに守護・地頭を設置したり、妻であった北条政子も源頼朝を支え助けた人物として有名ですよね。鎌倉幕府の政治の仕組みは、後に開かれる室町幕府や江戸幕府などに大きく影響を与えたとされており、日本の歴史を語る上では非常に重要な人物と言えるでしょう。
これだけ聞くと華やかしいイメージですが、後に弟の義経とライバルのような関係になり鎌倉に入ることを禁止し、自害するよう求めるなど、家族間での問題なも多々あったそう。必ずしも成功と勝利をしていたわけではない源頼朝の人生はとても興味深いと思いますが、なにしろ日本の歴史は長い故に分かりずらくもあります。
そこで今回は、頼朝の強さと頭の良さに魅了された筆者が分かりやすく彼の生涯や凄さをご紹介いたします。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
源頼朝とはどんな人物か?
名前 | 源頼朝 |
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幼名 | 鬼武者または鬼武丸 |
誕生日 | 1147年5月9日 |
没日 | 1199年2月9日(51歳) |
生地 | 尾張国 (現在の愛知県名古屋市) |
没地 | 神奈川県鎌倉市 |
配偶者 | 北条政子 |
埋葬場所 | 法華堂跡 (神奈川県鎌倉市西御門) 白旗神社 (神奈川県鎌倉市鶴岡八幡宮境内) 矢ノ森八景 (岩手県一関市東山町) |
源頼朝の生涯をハイライト
源頼朝は、武家が力を持ち始めた平安時代後期(1147年5月9日)に、源氏のトップと言われた源義朝の息子として生まれました。母が熱田大宮司藤原季範の娘で身分が高かったことから、頼朝は早くから義朝の嫡男として扱われ、育てられました。源義経は母違いの弟です。
ちなみに源頼朝は幼少期、「鬼武者」や「鬼武丸」などと呼ばれていたそうです。なぜそう呼ばれていたのかははっきりしていないようですが、なんだか強そうな感じがしますね。
1159年に父である義朝が平治の乱を起こして平氏に負け、暗殺されます。頼朝も伊豆へ流されますが、ここで後に妻となる北条政子に出会いました。1180年に挙兵し、鎌倉を中心に東国武士の支持を集めます。1185年には平氏を滅ぼして武家の棟梁の地位に上りつめました。
頼朝が守護・地頭の設置を朝廷に認めさせたことは、武家による全国支配の端緒であり、日本史上の転換点となります。1192年には征夷大将軍に任じられます。この職は、朝廷とは別に臨時で軍事政治を行う権限があることから、鎌倉幕府を開くのに適していたと考えられます。
頼朝は日本で初めて、武家政権として「鎌倉幕府」を開きました。平氏を倒した源氏の棟梁というカリスマ性を巧みに利用し、「御恩と奉公」という武士の主従関係を確立したことで、鎌倉幕府は成立したのです。しかし頼朝は1199年、突然この世を去ります。死因は諸説あり、現存しているお墓も後世建てられたものとされ、今もって謎の多い最期です。
冷酷とも言える厳しい性格だった頼朝
源頼朝は非常に冷酷な人物だったとされます。その理由としては、自分に反発しようとする者は兄弟であろうと親戚であろうと迷うことなく自害を求めたり殺害をしているところからだと思われます。
実際弟の源義経も当時、頼朝を良く思っていなかった後白河法皇と仲良くしたとされ自害を求めており義経は自害しました。
また頼朝は質素倹約な生活をしていたようで側近が派手な生活をしていると怒ったという話もあります。自らも質素に生活をし、なおかつ身内であろうが忖度をすることなく政治を行っていたため全国の武士からの評価も高かったのでしょうね。
源頼朝はどんな性格だった?政治や女性関係などエピソードを交えて紹介
カリスマ性の高い御曹司だった事が成功の鍵?
源頼朝はなぜ東国で勢力を拡大し平氏を滅亡させるまでに至ったのでしょうか?それは頼朝が自身の貴い血筋をうまく利用し、地元の豪族たちの心をうまく掴んだからです。
頼朝は清和源氏と呼ばれる、第56代清和天皇の血をひいた一族の末裔でした。当時、天皇家の血筋は特に尊ばれていたので、東国の豪族から見ればカリスマ的存在です。また、もともと東国は、父である義朝が武士団を編成していた地域でした。そのため、その嫡男である頼朝は、一目置かれる武士だったわけです。
頼朝は、豪族たちの心を掴むため、平氏打倒というスローガンだけではなく、豪族たちの利益も明確にしました。独自の論功行賞を行い、戦で良い働きをした者には褒美を与えたのです。そして頼朝は、戦に勝てば朝廷から関東の仕置きを任せると言われているからと豪族たちをその気にさせ、一気に壇ノ浦まで平氏を追い詰めることに成功しました。
女性関係は多かったが優秀な妻に恵まれた
源頼朝は正室の北条政子と結婚する前に八重姫という女性と結婚し1人の子供をもうけています。しかし八重姫の家族からの反対によりトラブルとなり結局別れることとなりました。
その次に出会い結婚した女性が北条政子です。北条政子は正室となり源頼朝が亡くなってからも源家を支えたとされるとても優秀な妻でした。
しかし当時は一夫多妻制のようなものは当たり前であったため北条政子の他に亀の前・大進局(だいしんのつぼね)という女性とも関係を持っていたとされています。
源頼朝の死因は諸説あり
1199年2月9日に51歳で亡くなった源頼朝ですが実は死因ははっきりとしておらず所説あります。死因として考えられているものとしては落馬説・糖尿病説・溺死説・暗殺説などがあります。
しかしいずれも決定的な証拠はなく、現在でも分かっていません。幕府を開くほどすごい権力を持っていた源頼朝の最期がはっきりと分からないのはとても不思議ですよね。
源頼朝の死因とは?落馬は本当?暗殺説や吾妻鏡に記述がない理由も解説
源頼朝の名言
大事を思ひはからふ者、物とがめをせず、事ならぬことを事になさず。
今度は天下の草創なり、もっとも淵源を究め行はるべく候。
当時は国の者の心を破らぬ様なる事こそ、吉事にてあらんずれ。