源義経とチンギスハンは同一人物なのか?今でも語り継がれる疑惑を解明

源義経とチンギスハンは同一人物だった

そんな話を皆さんは聞いたことがありませんか?歴史ミステリー物のテレビ番組などで度々扱われる話題ではありますが、空想上の話なのか史実なのか理解している方は少ないのではないでしょうか。

今回は、義経とチンギスハンが同一人物だという説がなぜこれほどまでに広まっているのか、そして本当にこの説は正しいのかについてまとめてみました。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

源義経=チンギスハン説とは?

源義経(左)とチンギスハン(右)

源義経は鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の弟にあたる人物。壇ノ浦の合戦では源氏の勝利に大きく貢献しましたが、独断的な行動が目にあまり、頼朝から反感を買いました。頼朝と義経は対立は戦に発展するものの、武家の棟梁である頼朝の勢力は大きく、義経は追われる身となります。最期は現在の岩手県にあたる奥州国・衣川館で自決し、31歳でその生涯を終える、というのが歴史書に載っている事実とされています。

一方その頃、海を渡った内陸のモンゴル周辺で活躍したのがチンギスハンです。各地に散らばっていた遊牧民族をまとめ、モンゴル高原を統一。その後、モンゴル帝国を築き上げた人物ですが、実は出生については諸説あり、明確にはわかっていません。

この義経が実は自害しておらず、現在の北海道である蝦夷へ脱出し、その後大陸を渡ってモンゴルで活躍した姿がチンギスハンである、という伝説が源義経=チンギスハン説のベースとなっています。

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義経とチンギスハンが同一人物である根拠は?

モンゴルにあるチンギスハン騎馬像

歴史上で登場する年代の矛盾点が少ない

義経の出生は1159年、チンギスハンの出生は明確ではありませんが、1155年から1162年の間とされているので、二人の生きた年代は近いものがあります。さらに、義経が奥州国衣川で自決したとされるのは1189年なのに対して、チンギスハンが歴史上に登場するのは1206年にモンゴル帝国を成立させる直前からとなり、義経が歴史の舞台から消えたタイミングで入れ替わるようにチンギスハンが登場します。

使用している紋章が同じ

清和源氏の家紋「笹竜胆」(左)とチンギスハンが使用していたとされる紋章(右)

義経の家系である清和源氏では「笹竜胆(ささりんどう)」が代表的な家紋として使用されていました。これと似たような紋章をチンギスハン軍は利用していたと考えられています。大英博物館に所蔵されているチンギスハンの像の台座にもこの紋が描かれており、この紋章を義経がモンゴルで広めたという説があります。

軍事戦略が似ている

義経は兵法を学び、特に奇襲作戦を効果的に利用することで功績を残しました。実はチンギスハンも奇襲戦法を得意とし、重要な局面で用いてきました。モンゴル高原中部を支配していたケレイト王国を打倒した際にも、居場所を明らかにしていなかったケレイトの君主を急襲することで打倒に成功し、モンゴル高原統一のきっかけを作っています。

義経=チンギスハンという説が広がった流れ

義経生存説が民俗学者の間で話題に

江戸時代前期の儒学者・林羅山は歴史書『本朝通鑑』の中で、「義経は衣川で死なず、蝦夷へ逃げ、子孫を残した」と記しています。幕府公式の書物で義経生存説に触れたことで、今後の歴史研究にも大きなインパクトを与えることになります。また水戸黄門で知られる水戸光圀も、自身が編纂した『大日本史』の中で「義経の死は偽装されたもの」と書き、義経が生きていたことは一つの可能性として考察されるようになりました。

江戸町民の間で義経人気が爆発

室町時代以降の義経は、頼朝にいじめられ不遇の死を遂げた言わば「悲劇のヒーロー」。江戸時代に民衆文化が広がると、能、歌舞伎、人形浄瑠璃などの演目の一つとして、義経の波乱に満ちた人生を描いたストーリーは人気を集めました。『義経千本桜』や『勧進帳』は現代でも歌舞伎の演目として知名度の高い作品ですが、内容は史実とは異なる点が多く、あくまで一人のキャラクターとして義経が親しまれていたことがわかります。

シーボルトが義経=チンギスハン説を唱える

幕末のドイツ人医学者シーボルトは著書『日本』で、噂で聞いた話として「義経が蝦夷に脱出し、その後大陸に渡った」「その時期は、モンゴル帝国建国の時期にあたる」と述べ、義経とチンギスハンが同一人物である可能性を研究者はもっと調査すべきだと唱えています。その後、シーボルトが幕府の顧問に就任した際には、義経=チンギスハン説を日本の正史にすべきだと何度も提案するほどでした。

歴史ミステリーがベストセラーに

小谷部全一郎とモンゴルのラマ僧

あくまで伝説の域を出ないまま、時は大正時代へと移ります。北海道でアイヌ民族問題に取り組んでいた小谷部全一郎は、陸軍の通訳として満州やシベリアに赴き、そこで調査した内容を元に『成吉思汗ハ源義經也』を出版します。義経とチンギスハンが同一人物であることをまとめたこの本は、民衆の義経好きも高じて大ベストセラーとなります。

これまでの通説とは異なる内容に、各界の研究者が黙っているはずもなく、全一郎のもとには多くの反論意見が寄せられることとなります。その代わりに、多くの一般市民が義経=チンギスハン説を知る初めての機会となり、現在に至るまで様々な文学・映像・芸術作品にオマージュされることに繋がりました。

近年の説に対する見解は?結局「義経=チンギスハン」なの?

中尊寺金色堂覆堂

学術調査では証拠なし

義経を自決する間際まで保護していた奥州藤原氏は、実はアイヌ民族の血を引いており、義経を蝦夷に逃がすコネクションを持っていたのではないかという推測がありました。これが義経=チンギスハン説を裏付ける一つの根拠にもなっていたのですが、近年行われた奥州藤原氏の墓所・中尊寺金色堂の調査では、収容されている遺体にはアイヌ民族の特徴が見られなかったと結論付けられました。

このように義経やチンギスハンに関する学術調査が多数行われていますが、現在のところ義経=チンギスハンを完全に証明する史料は発見されておらず、あくまで伝説という位置づけとなっています。

エンターテイメントとして作品化

史実かどうかは別としても、ストーリー性の高さと歴史ロマンの観点から、現代でも文芸や演劇作品の題材になることが多くあります。宝塚歌劇団の『この恋は雲の涯まで』は再演される程の人気を博し、瀬下猛による漫画『ハーン -草と鉄と羊-』は、義経やチンギスハンに関心の薄かった若年層にも受け入れられる作品となっています。多くの作品は義経=チンギスハン説を「事実」としては捉えず、あくまで歴史上の「if」として創作され、エンターテイメントの一つとして提供されています。

源義経=チンギスハン説に関するまとめ

今回は源義経=チンギスハン説についてまとめました。義経が実は自決しておらず、蝦夷に逃亡して、その後大陸に渡ってチンギスハンとなる一連の物語は、想像を掻き立てられるストーリーで歴史好きにはたまらないエピソードですね。明確な証拠がない未だ発見されていないというのは、今後の発掘調査や文献調査次第で新しい事実がわかる可能性もあるので、それも一つの楽しみです。

とはいえ、義経=チンギスハン説はあくまで「伝説」として理解して、歴史のロマンに思いを馳せるのがよいかもしれませんね。

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