オスカー・ワイルドの生涯年表
1854年 – 0歳「アイルランド・ダブリンにて生を受ける」
耽美主義文学の旗手、誕生す
この年、オスカー・ワイルドはヴィクトリア朝時代のアイスランドの大都市・ダブリンに生を受けました。
父であるウィリアム・ワイルドは医師、母であるジェーン・ワイルドはサロンの主も務める詩人であったため、オスカーは幼い頃から、文系理系双方の分野に強い才能を持った子供だったと語られています。また、両親が医師と詩人という大変裕福な家系に生まれたため、生活に困るようなことも無かったようです。
しかしその一方、ワイルド家は非常に厳格なプロテスタントの家系だったため、オスカーに対するしつけは非常に厳しかったことや、娘を欲しがっていた母・ジェーンの意向で、幼いオスカーは女装で生活させられていたことなど、家庭に若干の問題があったような記録も残されています。
とはいえ、そんな環境の中でも父母譲りの才能を伸ばしつつ、類稀な美意識と共に成長していったオスカー・ワイルド。もしかするとこの頃に煌びやかな女装をさせられていたことも、彼の後の「美を追求する」姿勢に影響を与えたのかもしれません。
1864年 – 10歳「エニスキレンのポートラ王立学校で学ぶ」
ポートラ王立学校にて「優秀な生徒」として学ぶ
エニスキレンのポートラ王立学校に進学したオスカーは、そこで非常に優秀な成績を収めることになります。
優れた記憶力と速読力で多くの書物を読破し、特にラテン語やギリシャ語などの言語分野に優れた才能を発揮。他の追随を許さない圧倒的な才能を見せつけるように、彼は1871年に古典語の最高賞の受賞と共に卒業。奨学金を得てダブリン大学のトリニティ・カレッジに進学しました。
1871年 – 17歳「ダブリン大学トリニティ・カレッジに進学」
アイルランド有数の名門校への進学
ダブリン大学トリニティ・カレッジに進学したオスカーは、ここでも優秀な成績を収めることになります。
様々な分野で好成績を収めていく彼は、ダブリン大学でも様々な賞を受賞。最終的には給費生としてオックスフォード大学に進学することになりました。
1874年 – 20歳「オックスフォード大学モードリン・カレッジに進学」
オックスフォード大学にて「優秀な問題児」となる
給費生としてオックスフォード大学に進学したオスカーは、そこで様々な才能を開花させるとともに、後の破滅へと突き進む扉を開くことにもなってしまいます。
オスカーはここでも非常に優秀な成績を残す学生であり、美術や文学などの第一人者から目を掛けられることになりました。そして彼は、目を掛けてくれる師であるウォルター・ペイターの影響で「ルネサンス文化」に傾倒。唯美主義や経験主義的な作風は、この頃から明確に発露されるようになっていたようです。
その変化を示すように、オスカーはこの時期から、非常に派手な服装と派手な言動をするようになり、若干ナルシストの気質を持つようになっていきます。
ギリシャ文化への傾倒と失恋
ルネサンス期の個人主義で利己的な考え方に感銘を受けるとともに、オスカーはギリシャ文学にも傾倒。「男性と少年の、戦闘訓練の中に育まれる真の愛」という同性愛を描く文学や、男性の肉体美を表現する芸術に深く魅了されていくことになりました。
しかし、芸術として同性愛に魅了される一方で、3歳下のフローレンス・バルコムという女性への恋も、この頃に経験していたようです。
その恋は実ることはなく、オスカーの初恋は失恋に終わってしまいますが、オスカーはこれにめげることはなく、後に様々な人物と浮名を流すようになっていきます。
父の死
また、この時期に父であるウィリアム・ワイルドが死去。
金遣いの荒かったオスカーには遺産がほとんど残されず、彼はこの時期から金銭的な困窮を常に抱えることになってしまいます。
1878年 – 24歳「処女作である長詩『ラヴェンナ』を刊行」
オックスフォード大学を卒業
オックスフォード大学を首席で卒業したオスカーは、当時の優秀な生徒の王道である、「フェローとして大学に残る」事を希望しましたが、ポストが無くあえなく失敗。
こうして大学を去ることになったオスカーは、「とにかく有名になる。たとえ悪名でも名を残してみせる」と豪語して、一路ロンドンへ。母のサロンを拠点として社交界にデビューし、奇抜な服装と言動で一躍社交界の人気者の立ち位置に躍り出ました。
長詩『ラヴェンナ』を刊行
卒業と時期を同じくして処女作である長詩『ラヴェンナ』を刊行しましたが、ウケはさほど良いものではなかったようで、大した収入にはならなかったことが記録されています。
また、ロンドンでは画家のフランク・マイルズと恋人として同棲しながらも、女優のサラ・ベルナールや俳優のヘンリー・アーヴィングとも噂が流れるなど、後にまで続く奔放な生活スタイルを見せ始めています。
1880年 – 26歳「『ヴェラ、実は虚無主義者たち』を執筆」
『ヴェラ、実は虚無主義者たち』
放蕩で派手な生活により、この頃のオスカーは金銭苦を抱えるようになってしまいます。社交界では花形として親しまれていましたが、この頃のオスカーにはほとんど収入が無かったのです。
そのため彼はお金のために一念発起して、戯曲である『ヴェラ、実は虚無主義者たち』を執筆。これはそれなりの評価を受けて、早速上演に向けての準備が進められることになりましたが、この時はオスカーも運が悪かったとしか言えません。
上演準備中の1881年に、ロシア皇帝アレクサンドル2世の暗殺事件が勃発。これによって『ヴェラ、実は虚無主義者たち』の公園は中止を余儀なくされ、オスカーは作品の発表機会をあえなく失うことになってしまうのでした。
1881年 – 27歳「アメリカ講演にて”唯美主義者”としての地位を築く」
アメリカにて講演
『ヴェラ、実は虚無主義者たち』の公演中止や、その後に出した『詩集』の付表によって打ちのめされたオスカーでしたが、この年にアメリカでの講演依頼が舞い込んできます。
その内容というのは「唯美主義者としてアメリカ各地で「美」について講演する」というもの。この依頼を受けたオスカーは、派手に着飾った身なりで講演を行い、その知名度を高めるとともに「唯美主義者」としての地位を確立することに成功しました。
また、この時の講演のウケも非常に良いものだったようで、この講演がきっかけとなって、アメリカで『ヴェラ、実は虚無主義者たち』の上演が決定しています。作家としてのオスカー・ワイルドの地位は、この辺りから確立されてきたと言えるでしょう。
1884年 – 30歳「コンスタンス・ロイドと結婚」
パリでの”友達作り”に失敗
アメリカでの講演からの帰り道、オスカーはパリに立ち寄り、そこで文学的な友人を得ようとします。
しかし、パリではオスカーの派手な身なりは好かれず、友人を得る事には失敗。オスカー自身も、同性愛が描かれるフランス文学には傾倒しましたが、フランスの作家の実情には失望したようで、そのままロンドンに戻ることになりました。
コンスタンス・ロイドとの結婚
そしてこの年、オスカーは中流階級の女性であるコンスタンス・ロイドと結婚。そして立て続けに二人の子供に恵まれることになりました。
とはいえ、オスカーとコンスタンスの間には恋愛があったわけではなく、むしろオスカーはコンスタンスが持ってくる持参金が目当ての結婚だったとか。現在の視点から端的に言って、クズ極まりない思考だとも思えます。
とはいえ、コンスタンスの大人しく控えめな性格や、美しいスタイルはオスカーのお気に召すものでもあったらしく、決して愛のない結婚生活ではなかったようです。
しかし、彼女が子を産み、その美しい体系が変化していったことで生活は一変。美しさを至上とするオスカーにとって、その変化は受け入れられるものではなかったらしく、オスカーは女性の体に嫌悪感を抱き、以降は年若い美少年との同性愛に身を焦がすようになっていきます。
1888年 – 34歳「童話『幸福な王子』を刊行」
『幸福な王子』
年若い少年たちとの同性愛に身を焦がすオスカーは、この年に童話『幸福な王子』を刊行。
ハリー・マリリア、ロバート・ロスなどの多くの美青年との、時には有罪ともなり得るような交わりの中で着想を得た彼は、童話である『幸福な王子』を刊行。美青年たちに読み聞かせを行い、大変な好評を得ました。
現在も読み継がれる名作童話の一つですが、その執筆の背景には「美青年たちから注目を浴びたい」というオスカーの人間的な欲望が存在していたようです。
ちなみに当時関係を持っていたロバート・ロスは、後にオスカーの親友となって彼を支え続け、彼の死後に至るまでその創作活動を支え続けました。
1890年 – 36歳「長編小説『ドリアン・グレイの肖像』を執筆」
『ドリアン・グレイの肖像』
様々な美青年との退廃的な交わりの中で、オスカー・ワイルドの才能は絶頂を迎えていました。
彼はこの年、ジョン・グレイという美青年をモチーフとして『ドリアン・グレイの肖像』という長編小説を執筆。”美”に取り憑かれた男の悲劇を、哀しくも美しい文体で描き抜き、文壇にセンセーショナルな嵐を巻き起こしました。
『ドリアン・グレイの肖像』は度々映画化や演劇化が行われており、日本では宝塚歌劇団で上演されたものが有名になっています。
1891年 – 37歳「近づく破滅~アルフレッド・ダグラスとの出会い~」
アルフレッド・ダグラスとの出会い
『ドリアン・グレイの肖像』で文壇に嵐を巻き起こしたオスカーには、数多くのファンがいました。そして、その中でも特に熱烈であり、とりわけ美しい容姿をしていたのがアルフレッド・ダグラスという青年。
オスカー同様の同性愛者であり、オスカー好みの容姿をして、しかも文学的な会話を楽しめるアルフレッド。しかしアルフレッドは同時に、自己中心的で派手好み、かつ独裁的な人物でもありました。
そんなアルフレッドに振り回されながらも、彼と縁を切ることができずに泥沼にはまっていくオスカー。そんな彼に訪れる破滅は、まさにこの時から始まっていたと言えるでしょう。
1893年 – 39歳「戯曲『サロメ』を刊行」
『サロメ』
「オスカー・ワイルドの代表作」として名高いのは、やはりフランス語で書かれた戯曲『サロメ』でしょう。
猟奇的かつ背徳的、そしてエロティックかつ悲劇的で、何より美しいその作風は、オスカーの得意とした「耽美主義文学」の王道にして頂点と呼ぶに相応しい、紛れもない名作です。
現在でも様々な媒体、様々な国で『サロメ』を題材にした芸術やエンターテイメントが展開されています。中でもリヒャルト・シュトラウスが作曲したオペラ版『サロメ』の芸術性は非常に名高く、現在も様々な国で公演が成されているほか、主役であるサロメの役は「オペラきっての難役」として、多くの演者から憧れを受けているようです。
エログロナンセンスを地で行くような作品でありながら、その高すぎる芸術性をもって万民に受け入れられる”芸術”へと昇華された『サロメ』。
耽美主義の権化とも言うべきその作品を遺したことも、オスカー・ワイルドの功績だと言えるでしょう。
英訳版『サロメ』を刊行するが…
大当たりした『サロメ』は、すぐさま英訳版の刊行が決定。オスカーはこの英訳をアルフレッドに任せることにしましたが、その英訳は非常に稚拙なものだったようで、オスカーは頭を抱えることになりました。
最終的にオスカーは、アルフレッドに修正を依頼することになるのですが、アルフレッドはこれに逆上。結局英訳版『サロメ』はそのまま刊行されてしまい、『サロメ』という名作の中に影を落とす結果となってしまいました。
1895年 – 41歳「破滅~投獄と破産~」
裁判の応酬に敗北。投獄される。
当時の法の中では「同性愛は罪」とされていました。オスカーもアルフレッドも、そのことは理解できていたはずですが、いよいよ彼らに裁きが下る時がやってきます。
アルフレッドの父親であるジョン・ダグラス侯爵が、いよいよオスカーを同性愛者として告発。ジョンの名誉棄損すれすれの挑発から始まった裁判でしたが、裁判は様々な証拠を握るジョンに有利に展開されていき、最終的にオスカーは有罪判決を受けることになってしまいました。
しかも悪いことに「裁判費用は自分が持つ」と言っていたアルフレッドが突如として主張を翻す事態に。これによって自分で裁判費用を払うことになったオスカーは、代表作『サロメ』の刊行から2年も持たずに破産してしまうのでした。
1900年 – 46歳「破滅の末に死す」
悲劇の果ての放浪
刑期を終えたオスカーは、それでもアルフレッドの事を見限ることができなかったようです。彼は世間にも見捨てられ、現実を受け止めきれないままに”セバスチャン・メルモス”の偽名を使って各地を放浪。
投獄されている間に母も亡くなり、妻であったコンスタンスも失った彼は、理解者であるアルフレッドやロバートに縋るように、フランスやイタリアを転々としていました。
寂しい死
こうして放浪した彼は、1900年にパリのホテルで死去。死因はかねてより患っていた耳の病気が悪化したことによる、脳髄膜炎だったとされています。
彼の葬儀は、アルフレッドやロバートのような一部の者しか参列せず、全盛期の栄光など全く感じられない非常に寂しいものだったとのこと。
文学ジャンルを築き上げるという偉業を成し遂げると共に、最後には自分の欲望によって破滅したその姿は、良かれ悪しかれ鮮烈な印象を文壇に遺すこととなりました。
オスカー・ワイルドの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
しあわせな王子 (世界名作ファンタジー53)
オスカー・ワイルドの代表作の中では最も読みやすく、多くの世代で楽しめる作品です。
単純な童話としても大人向けの教訓話としても楽しめる内容のため、お子様への読み聞かせなどに活用するのも良いのではないでしょうか。
ドリアン・グレイの肖像
オスカー・ワイルドの作品の中で、おそらくもっとも彼の心情が現れている作品だと思います。
美しさに執着した男の末路とは一体…。ファンタジックな作品ではありますが、後にオスカーを襲う破滅を予言するような、彼の生涯を知るほど深みが増す作品です。
サロメ (光文社古典新訳文庫)
オスカー・ワイルドの描いた『サロメ』に新たな解釈を加えた新訳シナリオです。
これ1冊でも十分に楽しめるのですが、できれば古典的な『サロメ』を読んだ後に読んでほしい、そうすることで解釈の幅が一気に広がるような、紛れもない名著となっています。
おすすめの映画
リヒャルト・シュトラウス:楽劇《サロメ》英国ロイヤル・オペラ2008
オペラの中でも非常に難しいとされる、オペラ版『サロメ』の公演DVDです。
これに関しては「とにかく見てくれ!」と言うしかありません。残虐、淫蕩、そして愛。『サロメ』という作品の魅力が、この2時間30分に凝縮されています。
ドリアン・グレイ
オスカー・ワイルドの代表作『ドリアン・グレイの肖像』の映画版です。
「原典に忠実」というよりは、「エンタメ作品としてアレンジした」という風合いの強い作品ですが、これはこれで、オスカー・ワイルドに興味を持つ分には良い作品だと思います。
関連外部リンク
オスカー・ワイルドについてのまとめ
芸術という幅広い分野の中に「耽美主義」という一大ジャンルを築き上げながら、最後には自分自身の欲望が原因で破滅していくことになった作家、オスカー・ワイルド。
筆者自身の嗜好として、主に人物の人間的な部分に興味を持つことが多いのですが、オスカー・ワイルドの場合はどうにも、太宰治や梶井基次郎と似た部分が非常に多い印象を受けました。
間違いなく凄まじい才能を持ち合わせながら、周囲には迷惑千万な行いを振りまいて過ごし、最期はその才能を惜しまれつつも早逝する。太宰が芥川の早逝に「作家はこのように死ぬのが本当だ」と発言したことは有名ですが、もしかするとオスカー・ワイルドも、そのような”文豪の星”の下に生まれた人物だったのかもしれませんね。
それでは、長々としたこの記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました。