淀殿(淀君)とはどんな人?美人だった?性格や死因、功績、生涯まとめ

淀殿(淀君)の功績

功績1「豊臣政権の実権を握った」

あらゆる意味で強大な豊臣家を、短期とはいえ運営した手腕

上記の家紋は、豊臣家の家紋としてのみならず、現在では政府機関を示すマークとしても有名です。この家紋はもともと天皇家に伝わる由緒正しい家紋でもあったため、それを使うことを許された豊臣家が、いかに強大な勢力を持っていたかがわかるでしょう。

そしてそうなれば自ずと、短い期間とはいえ実質的に豊臣家のトップとして実権を握った淀殿の凄さも理解できようというもの。実際、彼女の行おうとした政策や大名との折衝は理に適っているものがかなり多く、彼女の暗君イメージは単純に「徳川に映る世の動きを読めなかった」というただ一点に起因しています。

「もう少し平和な時代だったら、もっと功績を残せただろうに…」と思える偉人は日本史上のみならず数多く存在しますが、淀殿についても、そんな人物の一角であると言えそうです。

功績2「最期まで豊臣に殉じた女性」

豊臣家に仕えた忠義の士と言えば、石田三成が有名だが…

裏切りが横行した戦国時代において、「忠義の士」と称されるような人物は現代的な評価や人気が高くなりやすい傾向があるように思えます。豊臣政権で言えば石田三成、大谷吉継なんかはそれら「忠義の士」の典型だと言えるでしょう。

しかし、豊臣家への忠義という意味であれば、淀殿だって決して劣ってはいません。むしろ「家康を討伐せん!」と戦の勝敗で全てを決しようとした三成とは異なり、淀殿は「徳川に一歩譲る形であっても、豊臣家の権勢と存続を守ろう」としていたことが記録されており、かなり長期的なスパンで豊臣家の未来を見据えていたことが窺えます。

もちろん、家康自身との関係性や、性差に伴う見えるものの違いなどがあるため、一概に「どちらが正しい!」とは言えません。

しかし三成や吉継とはまた違った形で豊臣を守ろうとした人物に、淀殿という人物がいたことは、歴史を知るにあたって覚えておくべき事柄だと言えるでしょう。

淀殿(淀君)の人物相関図

淀殿(淀君)にまつわる逸話

逸話1:「その子誰の子?」謎に満ちた秀頼誕生

一般的に「秀吉と淀殿の子」とされる豊臣秀頼ですが、実はその誕生には様々な異説が存在しています。もちろん噂の域を出ない俗説ですが、当時の秀吉が高齢だったことや、本妻である”ねね”との間には全くできなかった子が、淀殿には立てつづけに二人できたことなどの怪しい部分もあるため、一概に「嘘だ」と否定しきることも出来ません。

特に、淀殿の乳兄妹である大野治長との密通は当時から噂されており、大阪城の落城時には治長も二人と運命を共にしていることなど、疑おうと思えば疑えるだけの材料が揃っています。他にも、片桐克元や石田三成との関係も疑われており、実際のところ秀頼の出自については、かなり不透明な状態が続いていると言えそうです。

逸話2:「美人の子は美人?」諸説あるその容姿

様々な創作で「美人」として描かれる、淀殿の母・お市の方

淀殿の母であるお市の方は、織田信長の妹であり「戦国随一の美女」として有名です。一説では豊臣秀吉もお市に恋をしていましたが、その恋は実らず、その時の恋を諦めきれずにお市の子である淀殿を側室に娶った、なんて説も存在しています。

ですが実のところ、淀殿の容姿については「母ほどの美人ではなかった」と考えるのが現在の通説であるようです。通説において、淀殿はどちらかと言えば父である浅井長政に似ているとされており、母の美貌はさほど受け継いでいなかった、と評価されています。

とはいえ、それらの評価は「肖像画から分析した結果」でしかありませんので、史実の淀殿がどのような容貌をしていたのかは、実のところ分かりません。顔の美醜の判断は、好みによっても左右されますので、美術などに造詣の深い方であれば、肖像画の分析なんかをしてみるのも面白いかもしれませんね。

淀殿(淀君)の簡単年表

1569年 – 0歳
近江国・小谷に生まれる

近江国を治める武将・浅井長政とその妻・お市の方の長女として誕生しました。生まれた当初こそ浅井氏を取り巻く情勢は穏やかでしたが、数年後に彼女は早速、乱世の波に翻弄されることになってしまいます。
1573年 – 4歳
浅井家滅亡

織田信長と敵対したことで、浅井家は織田・徳川連合軍に攻められて壊滅。父・長政は自害、兄である満福丸は処刑され、これによって浅井氏は滅亡。

生き残った茶々は母や妹達と共に、父の仇かつ母の生家である織田家に身を寄せることになります。

1582年 – 13歳
母の再婚

織田信長が本能寺で討たれ、天下の趨勢が再びわからなくなったこの年、お市の方が織田家臣の柴田勝家と再婚。これによって茶々たち三姉妹も、勝家の居城である北ノ庄城に移住することになりました。
1583年 – 14歳
義父と母の死

豊臣秀吉と柴田勝家による賤ケ岳の戦いが勃発。義父である勝家はこれに敗れ、勝家は自害。母であるお市も勝家に殉じて自害しました。

この戦いの後、三姉妹は秀吉に保護されたと考えられていますが、実は当時の様子を示す資料には三姉妹の足跡を記録したものがほとんどなく、以降数年の三姉妹の足跡は、実は完全に途絶えているようです。

1588年 – 19歳
秀吉の側室となる

彼女はこの年、秀吉の側室として歴史上に再び姿を現します。当時の秀吉は51歳という、当時としては高齢だったため、かなり年の差のある婚姻でしたが、秀吉は彼女にぞっこんで、非常に寵愛していた事が伝わっています。
1589年 – 20歳
第一子を産み、「淀の方」を名乗り始める

この年、第一子となる”捨(鶴松)”を出産。秀吉はこの誕生をたいそう喜び、彼女に”淀城”を与えました。以降彼女はこの城の名前にちなんで、「淀」という名前を名乗るようになったようです。
1591年 – 22歳
鶴松の死

もとより病弱だった鶴松が病死。悲しみに暮れた秀吉は、この頃から後の暴政に繋がっていく気質を見せ始めるようになってしまいました。
1593年 – 24歳
豊臣秀頼の誕生

第二子である”拾”を出産し、秀吉と共に伏見城へ転居。秀吉も淀殿も、幼い我が子をたいそう可愛がったようですが、一方で秀吉は「誰かが秀頼を殺して、関白の座を狙っているのでは」という疑心を抱いて変貌。豊臣の天下が揺らぐ下地を作り上げてしまうことになりました。
1598年 – 29歳
豊臣秀吉の死

夫である秀吉が死去。これによって秀頼が豊臣を継ぐことになりますが、秀頼はまだ5歳。そのため淀殿は秀頼の後見人として政治に介入し、家事や経済といった分野の実権を握りました。
1600年 – 31歳
関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いについて、淀殿は「静観」を指示。彼女はむしろ、家康たちによる政権の共同運営を企図していたらしく、三成からの求めに応じず、どちらかといえば東軍寄りの勢力として事態を静観しました。
1601年 – 32歳
”気鬱”が激しくなる

心労が祟ったのか、この頃には摂食障害や頭痛などを伴う「気鬱」が激しくなったらしく、薬を処方された記録が残っています。

また、大野治長を重用している記録も散見されるようになり、この事も「大野治長が秀頼の父」という説の裏付けになっているようです。

1614年 – 45歳
大坂冬の陣

次第に豊臣家を軽視し、案に徳川家への臣従を要求してきた家康に激怒したことや、その他さまざまな要因が重なったことで「大阪の陣」が勃発。

淀殿自身も鎧を着こんで諸将を鼓舞しましたが、諸大名から思ったような加勢がない中で大阪城本丸に砲撃を受けたことで、彼女は一転して講和を指示することになりました。

1615年 – 46歳
豊臣家と運命を共にする

結局講和は成されないまま、大阪城は落城。淀殿は息子である秀頼、乳兄妹である大野治長と共に、大阪城で自害して果てたと伝わっています。

しかし、遺体が発見された事が記録されていないため、「実は秀頼とともに落ち延びて九州に向かった」という説もまことしやかに囁かれています。


淀殿(淀君)の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

戦国人物伝 淀殿 (コミック版日本の歴史)

王道ではありますが、淀殿という人物の概略を掴むには、この本を読むのが最も手っ取り早いかと思われます。

淀殿に対して賛美にも批判にもよらず、割合中立的に描いている漫画のため、「淀殿という人物について、手っ取り早く知りたい」という方におすすめです。

北政所と淀殿―豊臣家を守ろうとした妻たち

秀吉の正室である北政所と淀殿を並べ、彼女らの関係性や果たした役割を中心に紹介している書籍です。

「不仲だった」として描かれやすい二人は、果たしてどのような関係性を築いていったのか。研究に基づく状況証拠的な部分は大きいですが、豊臣政権を支えた二人の女性の障害や考え方を知ることのできる一冊です。

淀どの日記

淀殿を主役に据えた小説作品です。従来の「悪役」イメージの強い淀殿を、強く芯のある女性として描き、豊臣政権末期の政情を、崩壊する豊臣家からの視点で描いた名作だと言えます。

少々古い作品であり、かなり気合を入れないと読み切れない作品ではありますが、その分読み切ったときの達成感と面白さは折り紙付き。戦国時代好きなら一度は挑戦してほしい作品です。

おすすめドラマ

NHK大河ドラマ 江 姫たちの戦国

淀殿の妹である江を主役に据えた大河ドラマです。淀殿は主役ではありませんが度々登場し、従来の「悪役」らしいイメージも一部踏襲しつつ、「彼女は何故そう振る舞うことになったのか」という部分も丁寧に描かれる、淀殿の光と影の両面が表現された作品になっています。

歴史ドラマとしての評価は高いとは言い難い作品ですが、人間描写に関してはかなり真に迫ったものを感じる作品ですので、毛嫌いせずに一度視聴いただければ幸いです。

関連外部リンク

淀殿(淀君)についてのまとめ

一般的に「豊臣家を滅ぼした女性」「戦国随一の悪女」など、批判的な評価を受けがちな淀殿という女性。しかしその生涯を知ってみると、結果こそ振るいませんでしたが「豊臣家を守ろうとした女性」という印象を強く受ける人物だろうと思います。

記事本文には書けませんでしたが、政治的な感覚に優れる逸話もいくつか残しており、彼女についてたまに囁かれる「世間知らず」という評価は、彼女の実像を知るほど覆されていくと言えそうです。

とはいえ、彼女が活躍を求められたのは、丁度時代が移り変わる難局の時期。彼女もまた「時代が違えば更なる功績を残せただろう」と思えるような、時代に翻弄された人物の一人なのかもしれませんね。

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