ニュートンは、万有引力を発見した科学者です。それだけではなく、ニュートン力学を作り上げました。さらに、微分積分という世界を切り開いたのもニュートンです。
ニュートンという名前を知らない人でも、「万有引力の法則は、林檎が木から落ちるのを見た科学者が発見したものである」というエピソードを知っているという人は多いと思います。
学校の教科書を開けば、微分積分や運動量の保存法則など、ニュートンが発見し理論にまとめたたくさんの法則が見つかります。ニュートンの理論は自動車を作るのにも電化製品を作るのにも欠かすことができません。あまりにも大きい功績を考えると、ニュートンは現代の科学技術の礎を築いた人と言えるでしょう。
そんなニュートンですが、実は科学者としての顔以外にも、錬金術師や預言者の顔を持っているんです。この記事では、科学者以外のニュートンの素顔についても紹介したいと思います。
ニュートンは歴史上に残る科学者です。この記事を読んでそんなニュートンの魅力について知っていただけたら嬉しいです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ニュートンとはどんな人物か
名前 | アイザック・ニュートン |
---|---|
誕生日 | 1643年1月4日 |
没日 | 1727年3月31日 |
生地 | イングランド王国・リンカンシャー州ウールズソープ=バイ=コルスターワース |
没地 | イングランド・ミドルセックス州ケンジントン |
埋葬場所 | ウエストミンスター寺院 |
ニュートンの生涯をハイライト
ニュートンはイングランドの農民の家に生まれました。成長して大学に入学したニュートンは、めきめきと頭角をあらわし、25歳までに微分積分や万有引力の法則を考え出します。
その功績が認められニュートンは大学教授となりました。ニュートンは大学教授であった時期に多くの執筆を行い、それが現代にも伝えられています。晩年は、議員となったり造幣局に勤めることになったニュートンですが、その功績が認められ、自然科学の分野で初めてナイトの称号を授与されるました。
ニュートンの家族構成
ニュートンは農民の父のもとに生まれましたが、父はニュートンが生まれる前に亡くなってしまいました。その後、ニュートンは主に祖母に育てられます。
ニュートンの母は再婚し3人の子供を作りましたが、その母とニュートンの関係はうまく行っていなかったそうです。ニュートン自身は、結婚することなく生涯独身を貫きました。
ニュートンに影響を与えた人、受けた人
ニュートンには多くのライバルがいます。例えば数学者として有名なライプニッツとは、微分積分学についてライバル関係にありました。またフックの法則で有名なフックとは、力学や光学分野の研究におけるライバルだったそうです。
一方で、社会契約論で知られるジョン・ロックやニュートンの弟子で大蔵大臣となったチャールズ・モンタギューなどは、ニュートンの知己として有名です。
ニュートンの女性事情
ニュートンは生涯独身を貫いた人物として知られています。しかし、実は配偶者に近い人物はいました。ニュートンはアン・ストーリーという女性と18歳で婚約しましたが、金銭的な支援は行っていたものの、法的に夫婦になることはありませんでした。
それ以外に、ニュートンに関する女性事情は全く記録に残っていません。母との関係がうまく行っていなかったニュートンは、もしかすると女性や家族というものにあまり興味がなかったのかもしれませんね。
ニュートンの功績
功績1「万有引力を発見した」
ニュートンの最大の功績は、万有引力を発見したことです。我々は当たり前のように重力があることを知っていますが、その論理を作り上げたのはニュートンでした。
ニュートンは木から落ちる林檎を見て、万有引力を発見したと言われていますが、実はこの話は明確に記録が残っているわけではありません。しかし、ニュートンは常に日常生活から物理法則を発見しようとしていたという逸話が残っており、林檎のストーリーもそのようなニュートンの取り組みから生まれたといえます。
功績2「ニュートンの力学を作り上げた」
中学や高校で習う「力学」ですが、この論理体系を作り上げたのもニュートンです。我々が知っているエネルギー保存法則や作用・反作用の法則、ニュートンの運動方程式などはすべてニュートンが作り上げたものでした。
我々が日常的に使ってる「慣性」という考え方もニュートンによるものです。力学の論理体系を作り上げたことは、間違いなくニュートンの偉業の一つと言えるでしょう。
功績3「微分積分法を考えついた」
ニュートンのもう一つの功績は、微分積分法を考えついたことと言えるでしょう。微分積分は高校の数学の授業で勉強した方も多いと思いますが、実は物理的な考え方から生まれたものです。
物体の運動を表現するために、ニュートンは微分積分を作り上げました。その結果、物理という学問は爆発的に進化しました。
ニュートンの名言
どんな行動にも、必ずそれと等しい反対の反応があるものである。
ニュートンの力学の中に、作用・反作用という理論があります。この理論は、私達が物体を押したとき、物体もまた私達を押していることを示します。しかしながら、この言葉は力学を超えて人間社会一般に通用する言葉と言えるでしょう。
私が遠くを見ることができたのは、巨人たちの肩に乗っていたからです。
学問は先人たちの積み重ねで作り上げられています。「巨人の方に乗って」という言葉は、そんな先人たちの力を借りて私達が学問をしていることを端的に表している言葉といえます。
もし私が価値ある発見をしたのであれば、それは才能ではなく忍耐強く注意を払っていたことによるものだ。
ニュートンは様々な大発見をしましたが、それは観察眼が優れていたのだとニュートンは語っています。特に科学の世界では、深く観察をすることが重要ということを、ニュートンは誰よりも知っていました。
ニュートンにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「実は科学者以外にも多数の顔が」
一般的にはニュートンは科学者として知られていますが、実はニュートンには様々な顔がありました。晩年は議員になったり、造幣局の局長となったり、様々な分野で活躍しています。
ニュートンには哲学者としての面もあり、神学についての造詣もありました。ニュートンはあらゆる分野で活躍をした偉人と言えるでしょう。
都市伝説・武勇伝2「錬金術の研究もしていた」
実はニュートンは錬金術の研究に凝っていました。ニュートンは、あらゆるものを金にすることができる「賢者の石」を探し求めていたと言われています。
結局、ニュートンは賢者の石を作ることができませんでしたが、ニュートンが錬金術を研究してまとめた資料は現在も残っています。
都市伝説・武勇伝3「世界の終わりを予言していた」
ニュートンはキリスト教徒として聖書の研究も行っていました。哲学者の側面も持っていたニュートンは、様々な資料を集めて研究に没頭します。
そして、ニュートンが研究した結果は世界は2060年に滅びるというものでした。この事実は2003年になって発見され、大きな注目を集めました。
ニュートンの簡単年表
ニュートンは、イングランドの東海岸の小さな村で生まれました。生まれた日はちょうどクリスマスだったとも言われています。
ニュートンの母は彼を農夫にしたかったようですが、ニュートンの才能に気づいた親類たちはニュートンを地元の学校に通わせることにします。
才覚を現したニュートンは、大学へ進学することになります。ニュートンの家は裕福ではなかったので、雑用をしながら学問を学ぶことになりましたが、それでも周りの人々はニュートンの才能を認めていきます。
当時、ヨーロッパではペストが猛威を奮っていました。それに伴い、ニュートンが通っていた大学も休止されます。ニュートンは、その余った時間で力学や光学、万有引力といった研究をまとめ上げてしまいます。
その才能が認められ、弱冠26歳にしてケンブリッジ大学の教授に就任します。大学教授になったニュートンは、学生に講義を行いつつ、自分の研究成果について「光学」や「自然哲学の数学的諸原理」というタイトルで出版しました。
ニュートンは45歳のときに大学から推薦され、下院議員の議員に選出されます。しかし、あまり向いていなかったのか、議会ではニュートンはあまり活躍しなかったようです。
ニュートンは、弟子であったモンタギューの紹介もあり王立造幣局の局長となります。就任早々に通貨偽造人を逮捕するなど、汚職に対して厳しく処罰する方針を打ち出しました。
晩年、その大きすぎる功績を称えるため、イギリス王室は自然科学の分野で初めてニュートンにナイトの称号を贈ることを決定します。
ニュートンは、84歳のときに亡くなりました。当時の平均寿命を考えると長寿であったといえるでしょう。死後、ニュートンはウエストミンスター寺院に埋葬されました。
ニュートンの年表
1646年 – 3歳「母との別れ」
母が再婚し、祖母とともに暮らすようになる
ニュートンの父はニュートンが生まれる前に亡くなっていました。さらに、ニュートンが3歳のときに母が再婚し、ニュートンは祖母とともに暮らすようになります。
ニュートンは将来独身を貫きますが、小さい頃に両親と共に過ごせなかったことがニュートンの価値観に影響を与えたのかもしれません。
親類たちは、ニュートンの才能に気付く
母の元を離れて暮らすことになったニュートンですが、祖母を始めとした親類たちは、すぐにニュートンの類まれなる才能に気づきました。
ニュートンの母はニュートンを父と同じ農夫にしようと考えていましたが、親類たちはニュートンを近くの学校に通わせることにします。この選択が、科学史に残る天才ニュートンを生み出したと言っても良いでしょう。
1661年 – 18歳「大学へ入学し、本格的に学問を学ぶ」
トリニティ・カレッジで働きながら学ぶ
その後成長したニュートンは、叔父が学んでいたトリニティ・カレッジへ入学します。ニュートンは金銭的に裕福ではなかったので、講師の小間使いとして食事を運んだり使い走りをする代わりに、授業料や食費を免除されるという身分での入学となりました。
ニュートンは、トリニティ・カレッジで哲学や自然科学について本格的に学んでいくことになります。
師匠との出会い
ここでニュートンは、アイザック・バローという良き師にめぐり会います。バローは、ニュートンの才能を高く評価し、多大な庇護を与えました。バローのおかげもあり、1664年にニュートンは「スカラー」という奨学金が支給される学生にしてもらうことができました。
バローとの出会いによってニュートンの才能は開花し、バローとのディスカッションを通して万有引力や微分積分学の着想を固めていきます。
1667年 – 24歳「ケンブリッジ大学で研究者として研究を行う」
ペストが収束し、研究者として採用される
当時ヨーロッパで流行していたペストが収束し、それまで故郷に帰っていたニュートンは再びロンドンに戻ることになります。
偶然もありましたが、そこでニュートンは研究者として正式に大学に採用してもらい、研究に没頭できる環境を与えられました。
研究成果についてまとめる
さらに大学教授となったニュートンは、彼の最大の著書である「光学」と「自然哲学の数学的諸原理を執筆し、出版します。この本でニュートンは一流の科学者として認められました。
ニュートンは自然科学にとどまらず、哲学や神学、錬金術といったオカルト的な分野まで、あらゆることを研究し著作にまとめていきます。
1669年 – 26歳「大学教授に就任し活躍する」
若くしてケンブリッジ大学の教授に
ニュートンは師匠であったアイザック・バローの推薦を受けて、弱冠26歳にしてケンブリッジ大学の教授に就任します。ニュートンは学生に自分の研究分野について講義を行いましたが、内容が斬新すぎて学生には理解が難しかったそうです。
また、ニュートンはこの時代に、錬金術や哲学、聖書研究にも没頭します。ニュートンの死後、残された蔵書のうち、神学や哲学の本は、数学・自然学・天文学関連の2倍もあったそうです。
1688年 – 45歳「議員の道へ」
大学から推薦され、議員になる
ニュートンは45歳のときに大学から推薦され、下院議員の議員に選出されます。この時期のニュートンは、研究成果の執筆が終わり疲れていたことや、ライバルの科学者たちとの戦いの中で疲れてたいと言われています。そんなニュートンは、新しい道を模索し始めました。
議員になったあとも、ダーウィンは教え子であり政界に人脈を持っていたチャールズ・モンタギューに対して政治関連のポストを探すようにお願いしていました。しかし、なかなか良いポストを得ることができなかったニュートンは、やがて精神を病むようになります。この時期のニュートンは、不眠や食欲減退、被害妄想などに悩まされたそうです。
1696年 – 53歳「造幣局の局長に就任する」
ついにポストを得る
そんな中、ニュートンはチャールズ・モンタギューの力でついにイギリス造幣局局長のポストを得ることができます。ニュートンは大学教授出身でありながら、就任早々に通貨偽造人を逮捕するなど、汚職に対して厳しく対処していきました。
自然科学分野以外でも、ニュートンは才覚を持っていました。ニュートンが造幣局の局長で合った時代は、貨幣の偽造が格段に少なくなったと言われています。
1705年 – 62歳「晩年、ナイトの称号を授与される」
イギリス王室から功績が認められる
晩年、ニュートンはその大きすぎる功績が認められ、イギリス王室のアン女王からナイトの称号を授けられます。自然科学の業績でナイトの称号が与えられたのは、ニュートンが最初であったそうです。
1727年 – 84歳「長い生涯を終える」
長寿であったニュートン
1727年に84歳でニュートンは亡くなります。当時の平均寿命は40〜50歳と言われており、ニュートンは長寿であったと言えるでしょう。亡くなったニュートンは、ウェストミンスター寺院の中に埋葬されました。
さらに、ニュートンの自宅はウェストミンスター公立図書館として再利用され人々の役にたっています。死後も、ニュートンの考え出した理論は私達の生活に欠かせないものとなっています。
ニュートンの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
プリンシピア 自然哲学の数学的原理 第1編 物体の運動 (ブルーバックス)
こちらは、ニュートンの執筆したプリンシピアを、現代の科学者が内容そのものの理解を目的として翻訳した一冊です。出版当時から難解と言われたプリンシピアですが、現代訳を読むことで理解の助けになると思います。
大人が読みたいニュートンの話
この記事でも紹介したように、物理法則を中心に多くの功績を残したニュートンですが、そんな偉大な科学者ニュートンの足跡を軽快に綴った一冊です。造幣局長官や国会議員を務めたエピソードなども満載の大人が読んで面白い作品となっています。
アイザック・ニュートン―すべてを変えた科学者
続いて紹介するのは、ビジュアル伝記シリーズからニュートンについて紹介した作品です。ニュートンの様々なエピソードについて図とともに紹介してくれます。
ニュートンをよく知ることができるおすすめ本9選【自伝から哲学、光学の解説書まで】
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【巨人の肩】大巨人アイザック・ニュートンを知る!
「巨人の肩」シリーズとして、著名な科学者について紹介しているチャンネルから、ニュートンについて紹介している動画です。2人の解説者がわかりやすくニュートンについて教えてくれます。
ニュートンのゆりかご
ニュートンのゆりかごとして知られる、力学の実験装置を実際に作成し、紹介している動画です。ニュートンのゆりかごは、もしかすると学校で習った方も多いかもしれませんが、あらためて動画で学んで見るのもいいかもしれません。
関連外部リンク
ニュートンについてのまとめ
この記事では、ニュートンについてまとめました。科学者としての業績はもちろん、錬金術や宗教・哲学など、ニュートンの幅広い顔について紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
ニュートンは、世界の科学史上で最も重要な人物と言えるかもしれないくらい、多くの業績を残しました。この記事を読んで、ニュートンについて詳しく伝えることができましたら嬉しいです。
どうも
ありがとう