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野口英世は何をした人?生涯・年表まとめ【名言や功績、死因も解説】

野口英世と言えば、千円札の肖像画(2020年5月現在)で有名ですよね。生涯を通じて黄熱病の研究、梅毒の研究を行いました。その結果、ノーベル賞の候補に3回も挙げられた日本を代表する偉人です。

野口は1歳の頃左手に大やけどを負い、自由に使えなくなってしまいます。そんなハンデを背負っていながらも、必死に勉強して医学の道を志し、数々の偉業を達成した人物なんです。

野口英世

野口英世は1876年に現在の福島県猪苗代町に生まれました。左手の障害から農作業を行うのは難しいと考え、勉強をして人の役に立つことを思い立ち、医師を目指します。アメリカのロックフェラー研究所を拠点として細菌学の研究を行い、数々の論文を発表します。

英世が成し遂げた、梅毒スピロヘータという病原体が麻痺性痴呆の原因であるという証明は後世に語り継がれる大きな業績です。日本の医学博士はさることながら、アメリカ・フランスをはじめとする名誉博士、名誉勲章にも選ばれ、その功績は世界に賞賛されています。

2004年に新千円札の肖像画に選ばれる前から野口英世が好きで、伝記や関連本を読み漁り、ロックフェラー研究所や英世の眠るウッドローン墓地を訪れたことのある筆者が野口英世の生涯を徹底解説します。

野口英世とはどんな人物か

名前野口英世
誕生日1876年(明治9年)11月9日
没日1928年(昭和3年)5月21日
(享年51歳)
生地福島県耶麻郡三ツ和村
(現・福島県耶麻郡猪苗代町)
没地ガーナ共和国・アクラ
配偶者メリー・ロレッタ・ダージス
埋葬場所アメリカ合衆国
ニューヨーク州 ニューヨーク
ウッドローン墓地

野口英世の生まれ、家族構成は?(母や姉、妻や子供など)

野口英世の家族構成は以下の通りです。

  • 父:野口佐代助
  • 母:野口シカ
  • 姉:野口イヌ
  • 弟:野口清三
  • 妻:野口メリー・ダージス(メリー・ロレッタ・ダージス)
野口メリー・ダージス

野口英世は父・佐代助と母・シカの間に生まれました。幼い頃の名前(幼名)は清作で、「英世」に改名したのは学生時代です。

清作の家庭は平均よりも裕福でしたが、父・佐代助が大酒飲みであったため、いつも貧乏をしていました。母・シカは教育に熱心で、猪苗代高等小学校の小林栄先生の経済的な援助を受けてまで清作を高等小学校へ入学させました。

妻のメリーとはロックフェラー研究所時代にニューヨークの酒場で知り合い、結婚しました。英世とメリーの間に子供はありません。

野口英世の手の火傷

野口英世 火傷の治療後

英世は1歳半の時に自宅にある囲炉裏に落ち、左手に大やけどを負います。左手は大きなコブ状に腫れ上がり、母・シカは自分の監視の目が甘かったと非常に悔やみます。このことがきっかけで農作業を行うのは難しいと判断し、勉学で世の中の役に立とうと思ったのです。

高等小学校四年生の時に左手の手術を受けますが、後遺症は残り、自由に動かすことはできませんでした。しかし、この時の手術の素晴らしさに感銘を受け、医師を目指すようになったのです。左手の大やけどがなければ、細菌学者の野口英世は生まれなかったことになります。

野口英世の仕事内容は?

野口英世は治療よりも研究する医師として活躍しました。

研究室の野口英世

20歳という若さで医師免許を取得、22歳には北里柴三郎が在籍する伝染病研究所の助手として働き始めます。25歳でフレクスナー博士の助手としてヘビ毒の研究に取り組み、同年11月には研究の成果を発表しました。

28歳でロックフェラー研究所の一等助手となり、梅毒の研究に着手。当時の英世は猛烈な勢いで研究をしていたそうです。37歳で麻痺性痴呆に梅毒スピロヘータが関連していると発表し、その後ノーベル賞候補に3度ノミネートされます。

42歳で黄熱病研究のためアフリカへ出張し、生涯を通して研究にいそしみます。自身も黄熱病にかかって亡くなるまで、オロヤ熱やトラコーマ病原体についての論文など数々の研究成果を残しました。

野口英世の死因は?黄熱病だった?

黄熱病を媒介する蚊

野口英世は黄熱病の研究中にガーナ共和国のアクラで亡くなったことが知られています。黄熱病によって亡くなったとされる文献や資料が多いですが、英世が亡くなった当時、アクラの街では黄熱病は流行していなかったそうです。

実は自殺説や他殺説も上がっている野口英世の死ですが、やはり黄熱病の可能性が最も高いようです。英世の助手であったヤング医師が英世の血をサルへ投与すると、黄熱病にかかったそうです。また、ヤングの行った死体解剖でも黄熱病が死因であると断定されました。

野口英世の肝臓標本がロンドンに保存されていましたが、その標本からも黄熱病に犯されていたという証拠が残っています。以上のことから英世が黄熱病で亡くなったという説が濃厚です。

英世自身の作った薬が黄熱病に効かないということで自ら確認しようとアフリカへ飛び立ちましたが、奇しくもその研究中に当の病気によって英世は命を失ってしまったのです。

野口英世の名言

「人生の最大の幸福は一家の和楽である」

野口英世は妻メリーと仲睦まじく暮らしていました。二人の間に子供はいませんでしたが、メリーは優しく、大らかな人柄で英世が研究にのめり込んでいても、細菌の標本を家に持ち帰ってしまっても寛容に受け入れていたそうです。

ロックフェラー研究所時代、研究に没頭していた英世からこのような名言が出るのは意外ですよね。

「模倣から出発して独創にまで伸びてゆくのが、日本人の優れた性質である」

野口英世は研究者になる当初、北里柴三郎の研究室へ入り助手として修行、次いでフレクスナー博士に師事し、研究の腕を上げていきます。その後に自らの研究のテーマとなる梅毒や黄熱病の研究に取り組むようになったのです。

英世もはじめは人からの教えや真似によって修練して、のちに自分のやりたいことへ発展させるということの重要性にのっとって研究をしていたのです。

「障害者であることは、学問においては問題にならない」

1歳の時に大やけどをし、左手に障害が残っていても、勉強をすることによって人々の役に立つことができると考えた英世の信念を表した言葉です。農作業や土木業などの体を使う仕事では不自由な思いをするけれども、学問ならば人と対等に渡り合えるということです。

「人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ」

実はこの言葉の前には「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない」という文言が入っているのです。

もし左手が自由に使えていたら、もう少し裕福だったらなど幼い頃には悩んだことが多々あったけれども、過去はもう取り返せない、自分自身とこれから来たる未来を変えていくしかないんだという決意の表れのようにも聞こえます。

野口英世の功績は?何をした人だった?

功績1「黄熱病の病原菌を発見」

黄熱病 ウイルス

野口英世の生きた19世紀から20世紀にかけては細菌学が躍進している時代でした。しかし、主要な病原体はパスツールやコッホなどの有名な微生物学者に発見され尽くしていたため、新しい病原体の証明は極めて困難でした。

そのような中でも英世は諦めず、「日本人は眠らないのではないか」と言われるほどの猛烈な研究によって、小児麻痺、狂犬病、トラコーマなどを発見します。1918年にはエクアドルの地で黄熱病の病原体を同定します。これは当時の世界のトップニュースになりました。

現在では黄熱病の原因がウイルスであることが判明していますが、その研究成果に英世が大きく寄与していることは間違いありません。

功績2「梅毒菌の培養に成功」

梅毒 病原体

野口英世の功績として最も重要なのが梅毒の純粋培養です。1911年に培養に成功した当時、この培養技術は至難のわざとされており、世界的な賞賛を集めました。しかし、後年には誰も同一の方法で培養できなことなどから、この成果は否定されてしまいます。

1913年には進行性麻痺の患者の脳内から梅毒を発見しました。現在ではこちらの業績が英世の生涯で最も偉大な業績であるとされています。当時、すでに治療薬も開発されていましたが、進行性の麻痺の原因が梅毒と断定されてはいませんでした。

それを確定するために英世は数えきれないほどの標本を顕微鏡で確認し、患者の脳内には梅毒が潜んでいることを発表し、世界からも認められたのです。

功績3「オロヤ熱とペルー疣が同じ病気であると証明 」

オロヤ熱の病原体を媒介するとされるサシチョウバエ

現在はバルトネラ症と呼ばれているオロヤ熱とペルー疣ですが、南米の山間部で流行っていた1920年代当時、この二つの原因菌が同じなのか激しく議論がなされていました。

バルトネラ症によって引き起こされる溶血性貧血で毎年たくさんの人が犠牲になっているため、なんとかこの病の原因を解明したいと世界中の細菌学者が躍起になります。英世も膨大な量の患者の血といぼのサンプルを顕微鏡で観察し、原因解明につとめます。

そして1926年、ついに英世がこの二つの病の病原体が同じであることを突き止めました。この成果は後年、正しいということが改めて証明されています。

功績4「その他、数々の受賞歴・名誉称号」

野口英世は、その他数々の賞を受賞しました。

  • 1913年 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)
  • 1914年 勲三等(スウェーデン)
  • 1914年 (ノーベル賞候補)
  • 1915年 勲四等旭日子綬章(日本)
  • 1915年 (ノーベル賞候補)
  • 1918年 (ノーベル賞候補)
  • 1920年 ジョンスコットメダル名誉賞(アメリカ合衆国)
  • 1924年 レジオンドヌール勲章(フランス)
  • 1925年 正五位(日本)
  • 1928年 勲二等旭日重光章(日本)、貿易功労金牌(フランス)

名誉称号も以下のようにもらっています。

  • 1907年 ペンシルベニア大学名誉修士
  • 1918年 エクアドル陸軍名誉軍医監名誉大佐
  • 1918年 グアヤキル大学名誉教授
  • 1918年 キトー大学名誉教授
  • 1920年 サン・マルコス大学名誉教授 名誉博士
  • 1921年 ブラウン大学名誉理学博士
  • 1921年 エール大学名誉理学博士
  • 1925年 パリ大学名誉医学博士

野口英世の人物相関図

野口英世にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「日本のお札『1000円札』の顔に」

野口英世 千円札

野口英世は2004年(平成16年)11月1日から千円札の顔として印刷されています。採用理由としては初の科学者であるということ、教科書にも頻繁に登場するような有名な文化人であることが挙げられています。

また、ヒゲやしわ、髪の毛の特徴など偽装をしづらい見た目であったことも選定のポイントになっています。肖像画のモチーフには英世の故郷に建てられている「野口英世記念館」所蔵の写真を使用しています。

裏面は英世と特に関係ありませんが、富士山がプリントされています。こちらは一万円札の鳥と五千円札の花とのバランスを考えて、風景が選択されたようです。

都市伝説・武勇伝2「会津時代に何度もラブレターを送る」

英世は山内ヨネという初恋の女性がいました。

山内ヨネの家 案内

会津若松にいた際に、匿名でなんども漢文の難しい手紙を送ります。しかし、ヨネは内容を理解できず、親しい牧師の元へ行き、代わりに読んでもらいました。

牧師はこのような難しい手紙を書くことができるのはこの辺りでは英世しかいないと思い、英世に連絡をします。英世はラブレターを送ったことを認めましたが、ヨネには気持ちが伝わりませんでした。

その後、ヨネが医師を目指して済生学舎にいた頃に同じく上京していた英世は、中国へ赴任する前に再びアプローチをしますが、振られてしまうのでした。その後、結婚したヨネに「ヨネの夫を見返すだけの人間になってみせる」と手紙を送ったそうです。

都市伝説・武勇伝3「「医学の天才」の父は「借金の天才」」

野口英世の父・佐代助は英世の伝記の中で「無類の酒好きで怠け者」と書かれていますが、実は人好きで周囲の人には好印象を与えていたようです。農業にも長けており、地元の子供達には釣りの名人とも慕われているほどあらゆる方面に精通していたようです。

酒好き

英世もお金に困った際には友人や恩師から負債を抱えていましたが、これは父親譲りのもので、父・佐代助も多額の借金をしたことがあったそうです。しかし、持ち前の人たらしな性格からあまり咎められることはなかったようです。

そんな父・佐代助ですが、「英世は私と違って学問で世の中の役に立つようになるのだ」と周囲に吹聴していました。そして。英世の活躍後も息子自慢をするようなことはなかったそうです。結局は息子思いの父親なのですね。

野口英世の簡単年表

1876年 - 0歳
野口英世誕生

11月9日に福島県三ツ和村三城潟(現福島県耶麻郡猪苗代町)で誕生します。

1878年 - 1歳
左手にやけどを負う

自宅にあった囲炉裏の中に手を伸ばした際にそのまま落っこち、左手に大やけどを負います。母・シカは自分の監視の目が甘かったと非常に後悔します。

1884年 - 7歳
左手の手術を受ける

斉藤幸元医師に左手の手術を執刀してもらいます。大やけどをした当初よりは不自由がなくなりました。

1889年 - 12歳
猪苗代高等小学校へ入学

英世の生きていた当時、高等小学校へ入学するのはごく一部の裕福な家庭の子供のみでした。英世は貧乏でしたが、母・シカが高等小学校の先生に懇願し、学費を多少工面してもらいながら高等小学校へ通うこととなりました。

1892年 - 15歳
左手の手術を再び受ける

会津若松にある会陽医院の渡部先生に左手を再度手術をしてもらいます。この時の手術に感動し、英世はのちのち医師を目指すようになります。

1893年 - 16歳
会陽医院に書生として入門

会陽医院に書生として入門し、医学・英語などを学びます。

1896年 - 20歳
医術開業試験に合格

9月に試験を受けるために上京し、10月の医術開業前期試験に見事合格します。その後、血脇守之助先生の厚意により高山歯科医学院のもとで勉強をするようになります。そして、一年後医術開業後期試験にも合格し、晴れて医師の道を歩み始めます。

1898年 - 22歳
伝染病研究所助手となる

北里柴三郎が在籍する伝染病研究所で助手として働き始めます。その後、横浜や中国などへ赴任し医師として勤務します。研究者として渡米し、フィラデルフィアにてフレクスナー博士の助手となり、ヘビ毒の研究をします。

1904年 - 27歳
ロックフェラー研究所の一等助手に

フレクスナー博士が所長を務めるロックフェラー研究所で一等助手として迎えられます。ここでの梅毒の研究は世界中から賞賛されることとなります。

1911年 - 34歳
メリー・ロレッタ・ダージスと結婚

ニューヨークでメリー・ロレッタ・ダージスと出会い、意気投合した二人はそのまま結婚に至ります。生涯、子供には恵まれませんでしたが、英世の研究に理解のある奥さんとともに仲睦まじく暮らしました。

1913年 - 36歳
進行性麻痺の原因に梅毒が関連していることを証明

進行性麻痺は当時すでに治療薬も開発されていましたが、原因が梅毒とは断定されてはいませんでした。英世は1913年に進行性麻痺の患者の脳内から梅毒を発見。確定するためには数えきれないほどの標本を顕微鏡で確認しました。

1914年 - 37歳
ノーベル賞候補に挙げられる

梅毒の研究成果が認められ、ノーベル賞にノミネートされます。この後1915年、1918年にもノミネートされましたが、結局受賞には至りませんでした。

1918年 - 41歳
黄熱病研究のためエクアドルへ

エクアドルで黄熱病の病原体を同定し、世界のトップニュースになります。現在では黄熱病の原因がウイルスであることが判明していますが、その研究成果に英世が大きく寄与していることは間違いありません。

1926年 - 49歳
オロヤ熱について論文を発表

オロヤ熱とペルー疣が南米の山間部で流行っていた1920年代当時、この二つの原因菌が同じなのか激しく議論がなされていました。英世は膨大な量の患者の血といぼのサンプルを顕微鏡で観察し、二つの病の病原体が同じであることを突き止めました。

1928年 - 51歳
黄熱病に罹患し死去

英世の開発した黄熱病に対する薬が効かないとの報告を受けアフリカのガーナへ飛び立ちますが、自身が病気にかかってしまい、そのまま帰らぬ人となりました。

野口英世の年表

1876年 – 0歳「野口英世誕生・幼少期の生活」

猪苗代湖

野口英世の誕生

野口英世は父・佐代助と母・シカの間に生まれ、清作と名付けられます。一般的な家庭よりは収入のある家でしたが、父親の放蕩により貧しい生活を強いられていました。1歳半の時に囲炉裏へ落ちて大やけどを負い、左手は障害が残ったままの状態となります。

小学校は何事もなく順調に経過し、猪苗代高等小学校の小林栄清作の経済的な援助を受けて、高等小学校へ入学することになりました。これは教育熱心な母・シカのおかげでしょう。

左手の手術を受け、医師を目指すようになる

7歳の時にも一度手術をしましたが、15歳になってから再度手術を受け、その技術に英世は感銘を受けます。そして、自分も医学の道を志したいと思い、執刀を担当した先生に師事することとなりました。

1896年 – 20歳「医師開業試験に合格し医師の道を歩み始める」

医師免許

医師開業前期・後期試験に合格

会津若松の会陽医院に書生として入門すると、医学、英語、フランス語などを学びます。その3年後に医術開業試験を受けるために上京し、後日医術開業前期試験に合格します。翌年には後期試験にも無事合格し、晴れて医師としてのキャリアをスタートさせます。

研究者としての道を選ぶ

22歳の時に北里柴三郎のいる伝染病研究所の助手となります。翌年にはロックフェラー研究所の所長であるフレクスナー博士を紹介され、ヘビ毒の研究などを行います。その後も国内外を飛び回って研究を重ね、論文も発表するようになります。

1904年 – 27歳「ロックフェラー研究所の一等助手となる」

英世とフレクスナー博士

蛇毒や梅毒の研究成果を発表

1909年には以前から研究を重ねていた蛇毒についての論文を発表し、翌年の1910年には「梅毒の血清診断」を刊行します。1911年には梅毒の純粋培養に成功しました。この培養技術は至難のわざとされており、世界的な賞賛を集めました。

また、この期間中に妻・メリー・ロレッタ・ダージスと結婚しています。

1913年には進行性麻痺の患者の脳内から梅毒を発見しました。梅毒の純粋培養が疑問視されるようになった現在ではこちらの業績が英世の生涯で最も偉大な業績であるとされています。

ノーベル賞候補に挙げられる

1911年から1913年にかけての梅毒の研究成果が認められ、ノーベル賞にノミネートされます。残念ながら受賞には至りませんでしたが、英世の研究は世界から注目を集め、1915年、1918年にもノミネートされています。

英世はノーベル賞候補のみならず様々な受賞歴や名誉称号の授与をなされています。

1918年 – 41歳「黄熱病研究のため南米へ」

エクアドルにある野口英世の像

黄熱病の研究のため世界各地へ

当時、黄熱病にはワクチンが開発されておらず、南米で大流行していました。英世は黄熱病の病原体発見とワクチン開発のため南米へ飛び立ちます。患者の臨床症状がワイル病という病気に似ていたことをヒントに研究を進め、病原体の特定に至りました。

この結果からワクチンを開発し、南米の黄熱病収束に貢献したとされています。

オロヤ熱とペルー疣の病原体特定

南米の山間部でオロヤ熱とペルー疣が流行っていた1920年代当時、この二つの原因菌が同じなのか激しく議論がなされていました。

現在はバルトネラ症と呼ばれているオロヤ熱とペルー疣ですが、この病気によって引き起こされる溶血性貧血により命を落とす人が後を絶たず、病原体の特定が急がれていました。英世もこの研究に着手し、膨大な量の患者の血といぼのサンプルを顕微鏡で観察し、原因解明につとめます。

研究を始めてから6年後の1926年、病原体分離と猿への実験により、この二つの病の病原体が同じであることを突き止めました。

1928年 – 51歳「黄熱病に感染し、病に倒れる」

ガーナの切手

ガーナの地で黄熱病に罹患

英世が開発した黄熱ワクチンがガーナの患者に聞かないということを聞き、ガーナに向けて出発します。患者の血清を調査し、自身が過去に出した黄熱に関する研究成果を否定しましたが、真の病原体を特定できたという旨をフレクスナー博士宛に電報を送ります。

黄熱病の病原体特定まであと一歩というところで、英世は自身も黄熱病に罹患してしまいます。病状は改善したり、悪化したり一進一退の状況が続きましたが、完全回復には至らず、1928年5月21日に息を引き取りました。

野口英世の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

学習漫画 世界の伝記 野口英世 伝染病にたちむかった医学の父

福島県の貧しい家に生まれ、幼い頃に左手に大やけどを負いながらも勉学にひたすら励み、世界の野口となっていく姿を描いています。漫画なので子供でも大人でも読みやすく、理解もしやすいです。まずは大まかな英世の生涯を知りたいという方におすすめの一冊です。

野口英世-見えない人類の敵にいどむ

比較的平易な言葉で野口英世の生涯を解説している伝記です。小学生向けの書籍となっているので、すらすら読めると思います。漫画よりも文章を読みたいという方やサクッと野口英世の伝記を読みたいという方にはおすすめの一冊です。

遠き落日

ベストセラー「失楽園」で有名な渡辺淳一が野口英世の生涯を描いた小説です。吉川英治文学賞受賞作でもあります。渡辺淳一自身も医師であることから、英世の研究や業績を正しく把握し、詳細に書き記しています。英世の生涯を詳しく知りたい方におすすめの一冊です。

おすすめの動画

【漫画】野口英世の偉人伝!破天荒すぎる人生

野口英世の生涯を約10分の動画にまとめています。幼い頃の苦労話から、活躍した功績まで簡潔に解説をしています。特に母・シカからの手紙は感動的内容となっています。

野口英世(日本の偉人/歴史 動く絵本)

野口英世の人生や数々の研究についてを約4分の動画に編集しています。イラストで製作されているので理解しやすく、また、短い時間なのでサクッと見ることができます。

おすすめの映画

遠き落日

渡辺淳一原作の野口英世の生涯を描いた作品です。研究の成果だけでなく、英世がどんな性格だったのか、実は借金癖があったなどという人間味のあふれる姿がよくわかる作品となっています。本が苦手な人はぜひこの映画で野口英世の生き様に触れてみてください。

野口英世についてのまとめ

野口英世は貧しい家の出身で左手の障害というハンディキャップを抱えながらも常に努力を怠らず、世界的に有名な研究者として活躍しました。この生き様は子供をはじめとして多くの人々の胸に響くのではないでしょうか。

今回の記事で野口英世に興味を持っていただけたら幸いです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

1 COMMENT

アバター 匿名

野口英世の歌小学生の音楽の時間で歌いました3番まで聴きたいです、歌詞忘れております。
コロナのこの時細菌と向き合っていらっしゃる
研究者の方々、命大切に明日の為に光下さい。

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