山口誓子は日本を代表する俳人の一人で、1901(明治34)年に京都府で生まれた俳人です。誓子(せいし)は俳号(俳句を詠むときに用いるペンネームのようなもの)で、本名は新比古(ちかひこ)といいます。
彼の最大の功績は、俳人の水原秋桜子とともに、現代俳句の基礎を築いたことです。季語や定型といった俳句のルールは守りつつ、近代的・都会的な俳句を多く残し、1994(平成6)年に亡くなるまで20冊もの句集を発表し、90年にわたる俳句人生を全うしています。
京大三高俳句会で俳句を学び、はじめは日野草城と鈴鹿野風呂に、次いで「ホトトギス」の高浜虚子に師事しました。その後、水原秋桜子に従い「ホトトギス」を離脱すると、新興俳句運動を牽引しつつ、俳誌「天狼」を主宰しました。
今回は、そんな山口誓子の俳句に深い魅力を感じている筆者が、その生涯や人物像、名言、代表的なや俳句などについて簡単な年表も添えてご紹介していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
山口誓子とはどんな人物か
名前 | 山口新比古 |
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俳号 | 山口誓子 |
誕生日 | 1901(明治34)年11月3日 |
没日 | 1994(平成6)年3月26日 |
生地 | 京都府京都市 |
没地 | 兵庫県神戸市 |
配偶者 | 浅井梅子(山口波津女) |
埋葬場所 | 芦屋市営霊園 |
山口誓子の生まれ
山口誓子は、父・山口新助、母・岑子の長男として、1901年11月3日に京都府京都市に生まれました。
弟の寛(1歳で亡くなりました)、妹の辰江、サク、レツがおり、両親と妹たちに囲まれた幼少期を過ごしています。
なお、誓子の家庭環境は複雑でした。1908(明治31)年、一旦は京都の小学校に入学しますが、1909(明治32)年に東京へ転居し小学校も転校となってしまいました。これには、父親の女性関係を原因とする家庭不和があったとされています。
また、1911年には母が自殺しており、誓子、辰江、サク、レツの4人の兄妹は離れ離れの生活を余儀なくされました。
山口誓子の性格
山口誓子は非常に自律的な性格の持ち主でした。次のような逸話があります。
山口誓子は、新幹線や飛行機に乗る際、つねにシートを倒さずに乗っていたというのです。理由は「後ろに座る人に迷惑がかかるから」。もともとシートは倒すように設計されているので、少しくらい倒しても良さそうですが、それができない性格だったのでしょう。
妹の死に際しても、誓子は冷酷なまでに自律を貫いています。自身の仕事を優先し、葬儀に現れなかったのです。これも誓子の「先約を違えるわけにはいかない」という信念にもとづくものでした。
冷たい人間だ、と言ってしまうのは簡単ですが、12歳で母を失い、学費が底を尽きたときも人から助けられ学業を全うした誓子にとって、厳しすぎるほどに自分を律することで心の平衡を保ったのではないかと考えられます。
山口誓子の故郷
山口誓子の出身地は京都です。山口誓子にとって、京都は生まれ故郷であると同時に、青春時代をおくった思い出深い土地でもありました。
山口誓子の家庭は、複雑な事情を抱え、誓子自身親戚筋を頼るかたちで東京、樺太と住まいを転々としています。ふたたび京都に戻ってきたのは1917(大正6)年、誓子16歳の年でした。帰郷を果たした誓子は、京都府立第一中学校から、第三高等学校へと進学します。
その後、京大三高俳句会への参加がきっかけとなり、本格的に俳句の世界に踏込んでいった誓子。日野草城・鈴鹿野風呂といった俳人との出会いは、誓子にとって忘れられないものとなりました。
山口誓子の死因
山口誓子の死因は、呼吸不全です。1994(平成6)年3月に亡くなりました。
若い頃にも肺尖カタルや肺炎で療養を余儀なくされたことがあり、最期も呼吸器疾患によるものでした。
亡くなる前年1993(平成3)年から体調を崩しがちだった山口誓子。その辞世の句を、
一輪の花となりたる揚花火
と詠んでいます。
山口誓子の名言
われわれは、俳句的なる「素材」「用語」「表現様式」「趣味」を排除して、之等を新化することによって、俳句の伝統を新化しようと企てる。「十七字」と「季物」とを死守しつつ、其他一切のものを新化すること。
出典:「ホトトギスの人々とその主張」(1932(昭和7)年稿)
山口誓子の代表的な句集
- 『凍港』-(素人社、1932年)
- 『黄旗』-(竜星閣、1935年)
- 『炎昼』-(三省堂、1938年)
- 『七曜』-(三省堂、1942年)
- 『激浪』-(青磁社、1946年)
- 『遠星』-(創元社、1947年)
- 『晩刻』-(創元社、1947年)
- 『妻』-(細川書店、1949年)
- 『青女』-(中部日本新聞社、1950年)
- 『和服』-(角川書店、1955年)
- 『構橋』-(春秋社、1967年)
- 『方位』-(春秋社、1967年)
- 『青銅』-(春秋社、1967年)
- 『一隅』-(春秋社、1977年)
- 『不動』-(春秋社、1977年)
- 『遍境 句文集』-(五月書房、1979年)
- 『雪嶽』-(明治書院、1984年)
- 『紅日』-(明治書院、1991年)
- 『大洋』-(明治書院、1994年)
- 『新撰大洋』-(思文閣出版、1996年)
山口誓子の代表的な俳句
山口誓子×春の俳句
流氷や宗谷の門波荒れやまず
樺太でのくらしを想起させる句です。荒れた宗谷海峡に漂う流氷は、いかんともしがたい人生に漂流(京都から東京、そして樺太へと流れ)する誓子自身のようでもあります。「流氷」という季語からも、どん底は抜け出し春が兆しているものの、寂しさを感じる俳句です。誓子の心のよりどころは、どこにあったのでしょう。
星はみな西へ下りゆく猫の恋
「猫の恋」は春の季語です。発情期にある猫の行動は、恋に支配されたかのようでもあり、猫を飼っていなくとも啼き声などから、春の訪れを感じることができます。西へ下りゆく、というのは、季語にすれば「春の星」なのですが、星座としてはオリオン座、おおいぬ座などの冬の星座ではないでしょうか。
近づくにつれ塔重き春の暮
「春の暮」すなわち春の夕暮れ時です。暮れてゆくにつれ暖色に染まる空と陽光、それにともない陰を濃くしてゆく塔をみつめ、「近づくにつれ」「重き」と表現されています。「つれ」のはたらきによって、塔はいまなお、その重さを強めつづけているようにも感じられます。
山口誓子×夏の俳句
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る
夏の河のあたためられた水の気配、その周囲の熱気を感じさせる句です。赤き鉄鎖とは錆びている状態なのでしょう。錆びた鎖が夏の河に、その一端を浸している様子を詠んでいます。単純な風景のようでもありますが、なにか深い心の動静を思わせる句でもあります。
炎天の遠き帆やわがこころの帆
春の「流氷や」の句と同じく、誓子の孤独を感じる俳句です。炎天にあって、海をゆく船(その帆影)を眺めています。あの帆は私の心の帆だ、というのです。だとすれば、誓子はどこへ往きたいのでしょう。(心に帆はあれど……)というじれったさが滲むような俳句です。
ピストルがプールの硬き面にひびき
冒頭「ピストル」にすこしドキッとさせられるのですが、競泳の場面を詠んだ句です。ふつうに「水面」といわず「プールの硬き面(も)」と詠むあたりが誓子の誓子たる所以です。ピストルの音響の軽さと響きとが適格に表現されていると感じられます。