山口誓子×秋の俳句
突き抜けて天上の紺曼珠沙華
色彩の対比がうつくしい句です。「天高く馬肥ゆる秋」という言葉が連想され、秋の晴れ渡る空に、まっかな曼殊沙華の花が映えている様子がありありと伝わってきます。「突き抜けて」の爽快感がこの句の生命です。それだけでなく、空だの晴だのいわずに「天上の紺」としたのも詩的で、非常に精巧な俳句になっています。
月出でていまだ五重の塔越さず
「月」といえば、秋。「花鳥風月」とか「雪月花」というように、月は日本の風物の代表格です。月とともに塔を見ています。さらに「出でて」「いまだ」の二語によって、時間的な隔たりを含んでいることがわかります。その時間の隔たりを、誓子はどう過ごしていたのでしょうか。興味をそそられる俳句です。
秋の雲天のたむろに寄りあへる「たむろ」とは仲間があつまる場所やその集団をあらわす言葉です。この俳句の全体的な意味は「秋の雲が天、すなわち空の一つ所に集まって、寄り添っている」というようなものです。(季節はやがて冬へと移ろってゆく)という心情のもと「秋の雲」を見つめています。一抹の寂しさの中にも温かみのある俳句です。
山口誓子×冬の俳句
スケートの紐結ぶ間もはやりつつ
スキーやスケート、ラグビーなどスポーツを、いちやはく俳句の素材としたのが山口誓子でした。「紐結ぶ間もはやりつつ」は、実際にスケートリンクへ行ったことのある人ならばわかる気持ちではないでしょうか。焦る手元や心拍数、吐く息の白さまで伝わってくる俳句です。
学問のさびしさに堪へ炭をつぐ
山口誓子の孤独シリーズとでも銘打ちたくなるような句がここにも。寒い日の夜、火鉢に炭をつぎ足しながら勉強をしています。孤独感と、それに伴う焦燥感は、夜の闇によって増幅し、身も心も取り込まれそうです。せめてもの抗いとして、炭をつぎ、その光によって体を温めている様子です。
除夜の鐘吾が身の奈落より聞ゆ
除夜の鐘、ということは大晦日ですね。ゆく年を惜しみ、新しい年を迎えるそのとき、誓子はなにか重大な考え事をしていたのでしょう。「吾が身の奈落」という底知れない闇から、ふと心を開くと、除夜の鐘が聞こえています。まるでいままで覗いていた自身の心の深淵から響いているような、鐘の音です。
山口誓子にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「読み間違えられた俳号・誓子」
山口誓子は、本名を山口新比古といいます。新しいに比古と書いて、読みは「ちかひこ」でした。俳号を考えるとき、誓子はこの本名をベースに「誓い」という言葉を用い「誓子」とします。
読みは「ちかいこ」。だったのですが、当時「ホトトギス」に加入し、俳句界の重鎮・高浜虚子に師事するため対面したおり「せいし」と読まれてしまいました。
「いえ、『せいし』ではありません。『ちかいこ』です」とは、言えなかったのでしょう。そのまま「山口誓子(やまぐちせいし)」の俳号を使い、終生変えることはありませんでした。
もし対面のときに高浜虚子が「ちかいこ」と読んでいたら、当然今でも「山口誓子(やまぐちちかいこ)」だったはずです。
都市伝説・武勇伝2「妹との再会」
山口誓子には、生き別れの妹がいました。祖父に引きとられた誓子と、父に引きとられた妹・辰江。その下の双子の妹サクとレツは、それぞれ養子に出されています。
そのうちのレツが、のちの下田実花(1907年-1984年)です。下田実花は、養父が亡くなると養家をささえるため、14歳にして花柳界に身をおくようになりました。のち新橋の芸者となり、やがて高浜虚子に師事するようになります。
奇しくも兄・誓子と同じ俳句の道に足を踏込んだ妹・実花。昭和20年にはホトトギス同人となり、一時はホトトギス社に勤務もしています。「血は争えない」といわれるとおり、この兄妹もまた、俳句という文芸においてそれぞれ才能を開花させていったのでした。
山口誓子の簡単年表
1901(明治34)年、山口誓子は、京都府京都市において父・山口新助、母・岑子の長男として誕生しました。
1908(明治41)年には、京都錦林尋常小学校に入学しますが、家庭の事情から、翌年祖父に預けられるかたちで東京に転居します。
1911(明治44)年、母・岑子が亡くなります。自殺でした。翌年、祖父とともに樺太に転居します。
1914(大正3)年に入学した庁立大泊中学校時代には、俳句をはじめるようになりました。
1917(大正6)年には、京都へ帰郷をはたし、府立第一中学校に入学しています。
1919(大正8)年、誓子は第三高等学校に入学します。京大三高俳句会で日野草城の俳句にふれ、本格的に俳句活動を開始するようになりました。
草城のすすめで「ホトトギス」に投句をはじめ、俳号を「山口誓子」としています。
1922(大正11)年、東京帝国大学法学部に進学し、ここでも「東大俳句会」に加わり俳句活動を行います。1924(大正13)年、誓子は肺尖カタルを患い大学を休学しました。
1926(昭和11)年、大阪住友合資会社に就職した誓子は、翌年「ホトトギス」の課題選者となります。
1928(昭和3)年、山口青邨の講演で「ホトトギスの四S(誓子のほか、水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝)」と紹介され、誓子は一躍著名俳人となりました。同年、浅井梅子と結婚しています。梅子もまた「波津女(はつじょ)」の俳号をもつ俳人でした。
1929(昭和4)年、誓子は「ホトトギス」同人となります。
1932(昭和7)年には第一句集『凍港』、1935(昭和10)年には第二句集『黄旗』を著しました。
1935(昭和10)年、急性肺炎を患った誓子は、療養中に「ホトトギス」を離脱し、さきに「ホトトギス」を離脱した秋桜子の主宰する「馬酔木」に加わりました。
1941(昭和16)年、療養をかねて伊勢冨田に移ります。
1942(昭和17)年、誓子は住友合資会社を退職し以降は嘱託となりました。また1945(昭和20)年には空襲により家財一切を失ってしまいます。
1948(昭和23)年、誓子は、西東三鬼、秋元不死男らと「天狼」を創刊、あたらしい俳句のあり方を提唱しました。「酷烈なる俳句精神」により俳句の根源を問うことを求めたのです。
誓子は、俳句を他の文芸より劣るものとする「第二芸術論」(1946(昭和21)年、桑原武夫)に対しいち早く反論を行っています。
1953(昭和28)年、誓子は兵庫県西宮市へ転居しました。
1957(昭和32)年には、朝日俳壇の選者に加わっています。
1976(昭和51)年に勲三等瑞宝章を受章したほか、1987(昭和62)年の日本芸術院賞、1989(平成元)年の朝日賞、1992(平成4)年の文化功労者と受章・受賞がつづきました。
1993(平成5)年、誓子の体調悪化を受け「天狼」が休刊となります。
1994(平成6)年3月26日、誓子は呼吸不全のため亡くなりました。享年92歳、文字通り俳句にささげた生涯でした。
生前に誓子が暮らした屋敷は、翌1995(平成7)年の阪神大震災で倒壊し、いまは記念碑と句碑が建てられています。その後、神戸大学キャンパス内に「山口誓子記念館」として再建されました。なお、山口誓子の墓地は、芦屋市営霊園にあります。
山口誓子の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
俳句添削教室
山口誓子が一句一句に鑑賞を入れつつ、添削を加えて解説をした書籍です。非常にわかりやすい語り口が魅力です。理路整然と指摘される一語一語が、いちいちもっともなので、頷きながら時間をわすれて読み進めることができました。
俳画入門
俳句のみを味わう句集とはまたちがった趣を感じることができる「俳画」。それだけに俳画にとりくむ俳人は多く、与謝蕪村や正岡子規も俳画を残しています。俳画作成に必要となる技法について紹介している本です。入門編とうたうだけあって、筆の使い方など丁寧な解説がされています。
おすすめの動画
ピストルがプールの硬き面にひびき 山口誓子
山口誓子の俳句「ピストルがプールの硬き面にひびき」を解説する動画です。一字一句の解説がなされていることはもちろん、誓子自身の解説も紹介されています。競泳のスタート直前、緊張の一瞬を見つめる観衆の息づかいまで感じられる俳句であると、改めて感じ入りました。
山口誓子記念館にて1
山口誓子記念館を紹介する動画です。余計な解説はなく、実際におとずれた者の視線に沿って館内が映像に写されています。背景音楽に、ショパンのノクターン第20番嬰ハ短調「遺作」が流れており、実際の記念館の雰囲気を感じることができます。
関連外部リンク
山口誓子についてのまとめ
この記事では、山口誓子の人生を、俳句とともに振り返りました。
厳格な性格の持ち主だった山口誓子ですが、ユーモアや情もしっかり持ち合わせていました。例えば、講演の冒頭「私のことをちかこさんとか、せいこさんとかいう方がありますが、私は山口せいし 」と前置きしたり、阿波浄瑠璃で親子の悲哀に感激のあまり涙を流したり。しかし、そういった感情はつとめて俳句には持ち込みませんでした。
山口誓子の生き方や俳句に、一人でも多くの方が共鳴していただけたら嬉しいです!