劉邦の生涯・年表まとめ【項羽との関係や家臣、漫画も紹介】

劉邦は古代中国において活躍した英雄です。劉邦は始皇帝やライバルであった項羽と戦い、400年にわたって繁栄する漢王朝を作り上げました。劉邦の活躍は、日本においても小説やドラマなどで描かれています。

劉邦は庶民として生まれながらも、最終的に中国を制覇し皇帝となります。中国史上最初の皇帝は始皇帝ですが、始皇帝は以後の中国にとって悪例として残りました。一方で、その後の混乱を収めた劉邦は「皇帝とはこうであるべきだ」という理想として、後世の多くの人々の心に残りました。

劉邦の肖像画

中国の人を「漢民族」と呼ぶことからも、劉邦が作った漢という国は中国のアイデンティティとして残り続けたと言えます。

この記事では、劉邦が庶民から皇帝に登り詰めることができた理由、劉邦の性格、活躍を支えた家臣など、劉邦と劉邦を取り巻く環境まで紹介していきます。あくまで史実としての劉邦を解説いたします。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

劉邦とはどんな人物か

名前劉邦
誕生日紀元前256年
没日紀元前195年6月1日
生地泗水郡沛県豊邑中陽里
配偶者呂雉
埋葬場所陝西省咸陽市渭城区窯店街道三義村

劉邦の生涯をハイライト

劉邦の画像

劉邦は、中国東部の泗水郡沛県の庶民の家に生まれました。劉邦は沛県の東に位置する泗水の亭長として、警察署長のような役職に就きましたが、勤務態度は悪かったといいます。

やがて秦の始皇帝がその圧政により民衆の反感を買うようになり、倒秦活動が活発になると、劉邦も活動に参加します。仲間から愛された劉邦は、みるみるうちに出世していき、ついには秦の都へ一番乗りを果たしました。

しかし、それが名門であった項羽の反感を買います。劉邦は、当時は未開の地であった現在の四川省のあたりに左遷されてしまいました。しかし、それでも劉邦は項羽と戦い続け、ついに中国統一を果たします。

そして劉邦は漢の国を作り上げ、初代皇帝として歴史に名前を残しました。

劉邦の家族構成や子孫は?

劉邦は、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生します。長兄に劉伯、次兄に劉喜がいました。

やがて、劉邦は妻を持ちます。これが歴史に名前を残す悪女として知られる呂雉です。呂雉との間に、恵帝などの子供をつくりました。

また、それ以外にも曹氏や戚氏といった妾を持ち、劉如意、劉肥といったたくさんの子供を作りましたが、その多くは呂雉の反感をかって殺されてしまいました。

劉邦と項羽の関係性は?

項羽の肖像画

項羽は、劉邦と同じ時代に生きたもうひとりの英雄です。当初は劉邦と項羽は共に秦と戦う仲間でしたが、やがてライバル関係になりました。劉邦は庶民の出身で戦にも強くないけれども、人望があったと言われています。

一方で項羽は、名門の生まれで誰よりも戦に強かったですが、苛烈な性格から人望はありませんでした。劉邦と項羽は長年戦い続けますが、その実力は項羽のほうが圧倒的に上でした。

しかし、劉邦の周りに集まった優秀な人材たちが劉邦を支え、ついには項羽を打ち破るまでになったのです。

劉邦の有力な家臣は?

張良の肖像画

劉邦の周りには、優れた家臣たちが集まりました。有名なところでは、「背水の陣」という諺で有名な「韓信」、また稀代の名参謀と言われた「張良」、そして事務官として国を管理する能力に長けた「蕭何」などです。

この3人は漢の三傑とよばれ、劉邦の天下統一に大きな役割を果たしました。劉邦は、これらの優秀な家臣たちの言うことをよく聞き、時には耳の痛い諫言も受け入れました。これが劉邦が天下を取ることができた理由と言われています。

劉邦の功績

功績1「始皇帝や項羽と戦い、中国を統一した」

始皇帝の肖像画

劉邦は、庶民の生まれであり地元の小さな警察署長出身でありながら、その人望に惹かれた優秀な人材たちに助けられ、強敵たちを打ち破っていきます。

劉邦は秦の始皇帝と戦い、勝利を収めます。さらに、始皇帝と共に戦った項羽と敵対関係になると、一時は敗戦に次ぐ敗戦で追い込まれますが、最後は項羽に見事勝利します。そして、ついに中国を統一したのです。

功績2「漢王朝を樹立し、中国における皇帝の理想像となった」

漢王朝の皇帝「光武帝」

中国統一後、劉邦は漢王朝の初代皇帝として君臨しました。始皇帝の作った秦が僅かな間で滅びてしまったのに対して、漢の国は400年続くことになります。これは、初代皇帝であった劉邦の力によるところも大きいと言えるでしょう。

始皇帝が悪の象徴であったのに対し、人望に優れた劉邦は理想の皇帝像となりました。漢の国から隋、、宋と中国の王朝は移り変わっていきますが、劉邦は皇帝のあるべき姿として受け継がれていきました。

劉邦の名言

男たるものが天下を定め諸侯を征服したというのにどうして仮の王などとケチくさいことを言う。真の王となれ。今日より韓信は正真正銘の斉王じゃ。

この言葉は、漫画「項羽と劉邦(横山光輝著)」からの出典です。多大なる功績を挙げた韓信が、遠慮して「仮の王」にならせてほしいと劉邦に申し出たのに対して、劉邦は「真の王となれ」と度量深く答えます。

わしは張良、蕭何、韓信の三人をよく用いることができた。これが天下を取った所以だ。

劉邦は、自分に実力のないことをよくわかっていました。そのかわりに、優秀な人材の言葉を聞いて採用する能力に優れていたのです。この言葉は、そんな劉邦の性格をよく表している言葉と言えるでしょう。

劉邦の人物相関図

劉邦にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「苦しむ民衆のために法律を3つだけにした」

法律のイメージ画像

劉邦が秦の始皇帝と戦っていたとき、民衆はその厳しく苛烈な法律に苦しめられていました。そこで劉邦は秦の都であった咸陽に一番乗りすると、法律を3つだけにします。具体的には「人を殺してはいけない」「人を傷つけては行けない」「ものを盗んではいけない」という3つだけです。

これに、咸陽の民衆は大喜びしました。劉邦のこの行いが後々までの民衆の支持に繋がったのです。

都市伝説・武勇伝2「40万の敵軍に乗り込み、停戦を実現した」

映画「項羽と劉邦 鴻門の会」より

劉邦は、項羽と比べると圧倒的に戦いに弱かったと言われています。さらに、戦力においても圧倒的に劣っていました。

項羽は、40万の軍勢で劉邦に襲いかかります。このままでは劉邦の負けは必定です。そこで劉邦は、敵陣に乗り込み、直接項羽と会うことで停戦を実現させました。このとき劉邦は、わざと駄目な人間であることを装い、項羽を油断させたと言われています。

この出来事は、後世に「鴻門の会」として言い伝えられており、様々な劇や舞台の題材となっています。

都市伝説・武勇伝3「人間的な魅力で韓信・張良などの名臣を集めた」

劉邦は人間的な魅力に優れていました。地元の警察署長として半ば無頼漢の状態であったときから、自然と人々が集まったのです。その時から張良や蕭何といった後の名臣が劉邦のそばにいました。

さらに、劉邦は韓信という名将を味方につけます。当初、劉邦は韓信のことを高く買ってはいませんでした。しかし、部下の蕭何の強いすすめで、韓信をいきなり大将軍に任命することにします。劉邦がいかに周りの意見を聞く人間であったかがわかるエピソードと言えるでしょう。

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