バッハはどんな性格だった?発言や行動から人物像を考察

ヨハン・ゼバスティアン・バッハは18世紀のドイツで活躍した音楽家の一人で、彼の作品や音楽観は後世の音楽家たちに非常に多くの影響を与えました。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

そんな「音楽の父」とも称されるバッハについて、

「どんな性格だったのだろう?」
「やはり非凡な人だったのかな?」

と気になっている人も多いのではないでしょうか?

そこで今回は、幼いころからバッハの作品が大好きな筆者が、バッハの性格について、彼の行動や発言から考察してみたいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

バッハはどんな性格だった?

「洋服を着た勤勉」バッハは頑固で真面目?

真面目な性格だった?

バッハはモーツァルトやベートーヴェンなど他の有名な音楽家たちと比べて、残っている手紙や語録が少ない人物です。しかしそんな中でもバッハの研究家や学者たちは口を揃えて「バッハは真面目で頑固、そして勤勉である」という考察をしています。「勤勉が洋服を着て歩いているような人物」と言い表す学者もいるほど、やや極端な一面もあるようでした。

そんなバッハの性格を象徴している事件を一つご紹介します。1705年バッハが当時20歳の頃、アルンシュタットの新教会で彼はオルガニストと聖歌隊の指揮の仕事をいていました。ある日バッハが街を歩いていると後ろからファゴット奏者に切りつけられるという事件が起こり、後の聖職者会議でそのファゴット奏者は「バッハに自分の演奏を悪く言われた」ということを根に持っていたことなどを伝えたようです。

決闘寸前の事件を起こしていた

バッハは若い頃から400km離れた土地に歩いてオルガンを習いに行くほど音楽に対して情熱があり、弛まぬ努力によって職や地位を得ていました。彼にとって、音楽に対して少しでもいい加減な態度を見せるような人間は理解のできない存在だったのでしょう。

そのためバッハは例のファゴット奏者などの共演者や自らの教え子に対しても一切の妥協ができず、時には大変厳しい態度をとるようなこともあったようです。この頑固で真面目過ぎる性格は生涯を通じて一貫しており、仕事などではトラブルが絶えなかったともいわれています。しかしバッハの場合、真面目=保守的ということではなかったようで、ときに斬新な教会音楽を作曲して聖職者を驚かせることもあったようです。

「金銭の執着」バッハは倹約家なのにお金に困っていた?

お金で苦労することが多かった

敬虔なルター派のプロテスタント信者であったバッハは贅沢な生活を好まず、質素な生活を送っていたと言われています。しかしバッハ家が大家族であったことなどからお金にはよく困っていたことがわかっています。

またバッハはそのストイックなイメージとは裏腹に、食欲を慎めないという意外な欠点がありました。一食で2000kcalほど摂取することもあるほどの大食漢だったため、そのことも金銭的な問題に拍車をかけていたようです。真面目すぎる性格が災いしてストレスを溜めやすかったのでしょうか。

29歳の頃ヴァイマルの宮廷音楽家として招聘された際は金銭的な条件を理由に招聘を受け入れ、それまで仕事をしていたミュールハウゼンの市議会には「生活に困っている故、どうかヴァイマルで働くことを許してほしい」と辞職願を書いていることがわかっています。

「家族愛」バッハは愛情深い父親だった?

家族を深く愛し、創作や労働の原動力としました

バッハの生涯や音楽観を理解するために重要なのが、バッハの家族愛です。バッハは代々続く辻音楽師の末子(8男)として生まれ、生活のために物心ついた頃から演奏でお金を稼ぐようになっていました。

大家族に生まれた自身も結婚後は何人もの子どもをもうけ、生涯で子どもは20人もいたといわれています。バッハは生涯に1000曲以上作曲し、そのジャンルも非常に多岐にわたっています。教会や宮廷などの公的な依頼から、少しでもお金になるならと私的な作曲依頼や演奏も多数請負いました。また妻や子どものために練習曲を作曲しています。

1 2

1 COMMENT

コメントを残す