米内光政とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や子孫、内閣時代の政治、スパイの噂について紹介】

米内光政は戦前に海軍大臣や総理大臣を務めた人物です。日独伊三国同盟に反対し、アメリカやイギリスとの開戦を回避する事を主張しました。太平洋戦争ではポツダム宣言受諾を強く主張し、戦争終結に努めています。

終戦直前に本土決戦を唱える人もいたものの、光政はこれを強く否定しています。もし光政が終戦を唱えなければ、本土決戦が行われ、日本の領土は奪われていたでしょう。そして今よりも更に多くの犠牲者が出たかもしれません。そういう意味で光政は命がけで日本を守った人物なのです。

米内光政

彼は昭和天皇の信任も厚く、海軍内にも多くの支持者がいました。尊敬を集めた光政ですが、実は日中戦争では強硬論を唱える等、一貫して戦争反対を唱えていたわけではありません。

また実はスパイという都市伝説もあり、彼の真意については当時の情勢を見ながら論じる必要があります。今回は戦前の歴史について学んだ筆者が、米内光政の生涯や功績、都市伝説について詳しく紹介していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

米内光政とはどんな人物か

名前米内光政
誕生日1880年3月2日
没日1948年4月20日
生地岩手県盛岡市
没地東京都目黒の自宅
配偶者米内こま
埋葬場所円光寺(盛岡市)

米内光政の生涯をダイジェスト

米内光政

光政の人生をダイジェストすると、以下のようになります。

  • 岩手県盛岡市で誕生し、海軍兵学校に入学。
  • 海軍大学校卒業後、ロシアやベルリン等に赴任。
  • 1937年に海軍大臣に就任。
  • 1940年に総理大臣として日独伊三国同盟に抵抗。
  • 太平洋戦争時に終戦工作に関与。
  • 戦後は敗戦処理の対応に関与。
  • 1948年に68歳で死去。

米内光政の家族構成や子孫

三女和子の配偶者の竹中錬一

父親の受政は子どもの頃に行方不明となった為、光政は母親とみに育てられます。とみは日頃から「いい振りするな。威張る人は一番嫌い」と教えており、光政の行動理念となりました。

光政は1906年に旧紀州藩士の大隅宗岷の娘こまと結婚。次女は早逝したものの、二男三女をもうけます(ふき・剛政・和子・中子・尚志)。

長男の剛政は1941年に三菱重工業に入社し、後に東京三菱ふそう自動車販売専務となります。1999年には『長男が語る米内光政-時間に厳しい寡黙の人』という著書を表しました。剛政は二男一女をもうけていますね。

また三女の和子は大手建設会社竹中工務店の15代当主竹中錬一に嫁ぎ、現在にその血を伝えています。

米内光政の性格や身長は?

近衛文麿(中央)と米内光政(左後方)

光政は温厚で実直な性格から、多くの人達に慕われていました。成績が良くないにもかかわらず海軍大臣に就任したのも、その性格に起因しています。

後輩の井上成美は「米内さんに仕えた者は、誰でも自分が一番信頼されていると思いこむ。まさに将たるものの人徳というべきであろう。」と述べています。大将としての器と度量を兼ね揃えた人だったのですね。

更に光政は大変な勉強家、読書家として知られています。兵学校時代は1つの問題に納得の行くまでアプローチして解決する勉強法を取り、閑職に赴任した際には読書を通じて教養を身につけていました。

身長は180cmか173cmという説があります。明治の成人男性の平均身長は157cmであり、光政は高身長でした。180cmの近衛文麿と並ぶ写真では(後方にいるとは言え)光政の方が低い為、173cmが正しいと思われます。

米内内閣の政治は?日独伊三国同盟とは?

米内内閣

当時ドイツは破竹の勢いで領土を広げ、陸軍や政治家だけでなく、世論さえも日独伊三国同盟を締結する声が高まりました。同盟はアメリカを牽制しつつ、仮想敵国であるソ連に対抗する狙いがありました。

そんな世論の中、昭和天皇の強い意向で1940年1月に米内内閣が組閣します。使命はドイツと手を組まない事でした。昭和天皇は光政に大命を授けると共に、陸軍大臣の畑俊六に光政を助けるよう伝えます。

陸軍は畑俊六に大命が下ったと当初は勘違いをしていた為、米内内閣に反感を抱きました。1940年6月にドイツがフランスを降伏させると、陸軍は同盟を本格的に画策。

当時の内閣は現役軍人しか大臣につけず、代わりの軍人を立てないと内閣は総辞職となる決まりがありました。陸軍は畑に圧力をかけて辞任させ、内閣を総辞職させたのです。

米内光政の功績

功績1「国際的視野を持ち日独伊三国同盟に反対した」

日独伊三国同盟を締結するヒトラーと松岡洋介

光政は一貫して日独伊三国同盟に反対します。ドイツと手を組む事はアメリカを敵に回す事になります。日本の海軍はアメリカやイギリスを手本にしていた為、光政は戦争をしても勝てる見込みがないとわかっていました。

結果的に同盟は1940年9月に締結されるものの、光政は総理大臣として半年もの間、同盟推進派の意見を抑えています。当時の海軍の親英米派は軒並み左遷されており、光政達は圧倒的少数の中で戦っていたのですね。

功績2「昭和天皇からの信頼も厚く、終戦工作の際に尽力した」

玉音放送を聴く人々

小磯内閣と鈴木内閣でも光政は海軍大臣に就任します。当時の海軍大臣も現役の軍人しか就任出来なかった為、昭和天皇が光政を現役の軍人に復帰させるよう画策しました。それ程までに昭和天皇の信頼は厚かったのです。

原発が投下され、ソ連が戦争に参戦すると光政は戦争終結を強く主張。陸軍と共に徹底抗戦派に回った豊田副武大将と大西瀧治郎中将を声を荒げて説得し、海軍内の意見をポツダム宣言受諾に尽力します。

1945年8月15日に終戦を告げる玉音放送が流れますが、陸軍の一部は受諾を認めずにクーデターを起こしています。海軍も徹底抗戦派はいたものの、陸軍よりは規模は小さかったのは光政の功績ですね。

功績3「海軍の伝統を後世に伝えた」

光政の遺志を後世に伝えた保科善四郎

終戦に伴い陸海軍は解体されますが、光政は「連合国も永久に日本に軍備を撤廃させることはない」と部下の保科善四郎に話しています。そして「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」を彼に託しました。

善四郎は後に政界入りを果たし、海上自衛隊の創設に関わる事で、光政の「遺志」を反映させます。海上自衛隊は日本の平和を守る為の組織です。光政の遺志は日本の平和に大きな影響を与えているのです。

米内光政の名言

人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇を、もっとも意義あらしめることが大切だ。

光政は1930年に閑職に赴任されますが、腐らずに職務に励み、様々な本を読む事で膨大な知識を手に入れます。当時の経験が後の終戦工作に活かされているそうです。どんな時でも諦めない事が大切だと分かりますね。

勝てる見込みはありません。大体日本の海軍は米英を向こうにまわして戦争するように建造されておりません

日独伊の海軍が米英ソ連と戦って勝算があるのかを尋ねられた時に発した言葉です。光政は太平洋戦争の前から日本に勝ち目がない事を知っており、同盟に反対していました。光政の分析力、知識が分かる名言です。

米内光政の人物相関図

こちら終戦時に和平工作に携わった人達とその役職になります。様々な意見はあったものの、彼らは日本を終戦へと導きました。

米内光政にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「海軍1のモテ男だった」

米内光政と山本五十六

軍から坊主にするよう注意されたにもかかわらず、光政は髪を七三に分け、鼻眼鏡を愛用していました。海外では坊主は囚人の髪型と言う事を知っており、外国人と接する立場として相応しくないと思っていたからです。

その風貌と温和な性格、更に酒にも強かった為、花柳界では非常にモテたそうです。佐世保の長官を退任して横須賀に戻る際は芸者の見送りで駅は大混雑し、ストーカーも沢山いました。

息子の剛政は光政の死後に、光政の愛人を名乗る人に沢山会ったそうです。光政は男女問わず人を惹きつける魅力があったのは間違いありません。

都市伝説・武勇伝2「米内光政はソ連のスパイとして働いていた?」

ソ連のトップだったスターリン

多くの人を惹きつけた光政ですが、ソ連のスパイだったと言う説があります。根拠として

  • 1915年頃から数年間ロシアに赴任し、風土に溶け込んでいた
  • ドイツ降伏後の会議でソ連に対する和平仲介を提案した
  • ポツダム宣言受諾を主張したのは、ソ連が日本に攻めてきてから

等が挙げられます。

光政はソ連に隠し子がいたと主張する人もいます。光政がスパイだったなら、日独伊三国同盟に反対したのはソ連を守る為だった事になりますね。

光政は終戦時に日記やメモ類をすべて焼却処分しています。今となっては知る由はありません。

都市伝説・武勇伝1「晩年の血圧は270」

米内光政

1944年頃から光政は高血圧に悩まれていました。海軍大臣に再度就任した際には250mmHg、終戦間近には270mmHgまで上昇しています。

ここまで血圧が高いと頭痛等の様々な症状も出てきます。それでも光政が終戦を迎える事が出来たのは、国を守る為の矜持だったのかもしれません。

戦後の光政の高血圧は、既に対処不能の段階だった為、医師からお酒が解禁されています。光政は「いい医者だよ」と述べており、本人はいたって落ち着いていたようですね。

米内光政の簡単年表

1880年 – 0歳
米内光政誕生

米内光政は岩手県盛岡市で生まれました。家庭は貧しく、光政は賃仕事をして家庭を助けます。子供の頃の光政は無口でおとなしいものの、明るい少年として育ちました。

1898年 – 18歳
海軍兵学校に入校

家計の負担を減らす為、中学を中退して海軍兵学校に進学。卒業後は日露戦争等に従軍しています。 1911年には海軍大学校に進学し、1914年に卒業。卒業後は旅順要港部の参謀に任命されました。

1915年 – 35歳
ロシア大使館補佐官に就任

1915年にロシア帝国の首都サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官に任命されます。ロシア革命の混乱も目にし、論文を作成しています。光政は語学上達の速さからすぐにロシア語をマスターし、ロシア人教師を驚かせました。

1930年 – 50歳
鎮海警備府司令官に就任

1930年に韓国にある鎮海警備府司令官に任命されます。この役職は「クビ5分前」と呼ばれる閑職でしたが、読書三昧の日々を送る事で様々な教養を身につけます。

1937年 – 57歳
海軍大臣に就任

2月に林内閣の海軍大臣に任命され、4月には海軍大将となります。後の第一次近衛内閣や平沼内閣でも留任しました。平沼内閣では日独伊三国同盟に反対を唱え内閣は対立。平沼内閣の退陣に伴い、光政は海軍大臣を辞任し、軍事参与官となりました。

1940年 – 60歳
内閣総理大臣に就任

昭和天皇の強い意向で内閣総理大臣に就任するも、内閣は6ヶ月で退陣。後の内閣で光政を海軍大臣へ復帰させる案もありましたが、実現はしませんでした。1941年に太平洋戦争が勃発します。

1944年 – 64歳
小磯内閣で再び海軍大臣に就任

東条内閣の倒閣後、光政は現役に復帰して小磯内閣の海軍大臣となります。続く鈴木内閣でも留任。終戦に向けた和平工作を行います。普段は穏やかで無口でだった光政ですが、徹底抗戦を主張する軍人達には声を荒げて叱責しています。

1948年 – 68歳
肺炎にて死去
終戦後、光政は戦犯として裁かれる日を待ちましたが、アメリカは光政が戦争回避に尽力した事を知っており、むしろ尊敬の意を述べました。戦後の処理を終えると部下達と北海道で牧場経営等を行います。1968年に肺炎で死去しました。

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