米内光政とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や子孫、内閣時代の政治、スパイの噂について紹介】

米内光政の年表

1880年 – 0歳「米内光政誕生」

盛岡城

米内光政誕生

米内光政は1880年3月2日に旧盛岡藩士の米内受政と、奥家老の娘だったとみの長男として生まれます。幼少期は裕福だったものの、5歳の時に火事に遭い屋敷は焼失しました。

受政は選挙好きで、何度も立候補しては落選しています。更に成功するはずのない発明に凝っているような人でした。遂には家族を残して上京し、後には膨大な借金が残ります。光政は生涯借金に苦しめられました。

母からの教え

光政を育てたのは母親のとみでした。とみは「いい振りするな。威張る人は一番嫌い」と光政に教えます。とみは礼儀作法に厳しいものの、温和で品格のある性格であり、光政もその影響を強く受けました。

1894年に光政は盛岡中学に進学。学業の傍ら仕事をして家計を支えました。

1898年 – 18歳「海軍兵学校に進学」

海軍兵学校

海軍兵学校29期生となる

家計の負担を減らす為に中学を中退し、学費のかからない海軍兵学校に進学します。当時詰め込み式が当たり前の海軍において、光政は1つの問題に様々な側面からアプローチする勉強法をとりました。

1901年に海軍兵学校を卒業

卒業時の席次は125番中68番。海軍は卒業時の席次が出世に直結し、光政の成績ではそこまでの出世は望めません。しかし同期の藤田尚徳はクラスで一番有能な人物を光政だと述べており、大物の気配があったようです。

日露戦争に従軍

1903年には少尉となり、1905年には日露戦争に従軍。第三艦隊に所属し日本海海戦を戦います。1906年には功四級金鵄勲章を受賞し、中尉になりました。こまと結婚しますが、数日後には赴任する等、多忙な日々を送ります。

1912年 – 32歳「海軍大学校に進学」

海軍大学校の入学選抜に選ばれる

光政は砲術専門の海軍将校の道を選びます。1911年には砲術学校の教官を務めますが、後の同志となる山本五十六と出会いました。

翌年には海軍大学校に選抜されます。大学校は海上自衛隊幹部学校に相当し、兵学校卒業者のエリートしか進学出来ませんでした。光政の成績で進学する事は珍しく、この頃より頭角を現したと言えるでしょう。

海軍大学校を卒業する

1914年に海軍大学校を卒業。旅順と付近の警備等を行う旅順要港部参謀に任命されました。海外赴任は手当が支給される為、父親の借金を返済するのに都合が良く、光政はその後も海外勤務が増えていきます。

1915年 – 35歳「ロシア大使館の駐在武官補佐官に任命される」

サンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館

サンクトペテルブルクに赴任

1915年2月より当時のロシア帝国の首都に赴任。当時のロシアは日露協商により日本とは友好関係にありました。光政はすぐにロシア語をマスターし、ロシア人教師を驚かせます。

海軍内のロシア・ソ連通となる

当時のロシア帝国は不安定な状況にあり、第一次世界大戦やロシア革命等が起きました。光政は冷静に国際情勢を分析し、後に論文も発表します。

1920年には大佐となりベルリンに駐在。第一次世界大戦後のドイツの情報収集を任されています。後年光政はドイツ人についてこう述べました。

ドイツ人は何でも経済原論の第一章から説き始めるから嫌いだ。私はドイツにもいましたが、とうとうドイツ語を覚えませんでした。

後に光政は日独伊三国同盟に反対していますが、ロシアとドイツに赴任した時の影響があるのは間違いありません。

1924年 – 44歳「戦艦陸奥の艦長となる」

戦艦 陸奥

順調に出世する

1924年には扶桑、陸奥の艦長に任命。1925年には少将となります。陸奥は日本の技術を詰め込んだ軍艦で、世界のビッグ7と呼ばれます(呼ぶのは国内のみ)。1928年には上海に赴任し第一遣外艦隊司令官となりました。

海軍内の争い

この時期の光政は目立った活動はありません。第一次世界大戦で各国が疲弊し、平和を求める声が高まっていた為です。1921年に列強は各国の軍艦保有量を決め、 日本の保有量は欧米よりも少なく設定されました。

海軍内では軍艦保有量を増やしたい艦隊派、軍縮に賛成する条約派に分かれます。光政は勿論条約派でした。この派閥が後に光政の人生を大きく変えると共に、日本を戦争へと推し進めていく事になるのです。

1930年 – 50歳「鎮海要港部司令官に就任」

大角人事を断行した大角岑生

鎮海要港部司令官

1930年に光政は中将となりますが、赴任先はクビ5分前と呼ばれる閑職でした。光政は腐る事なく読書の日々を送り教養を身につけます。1932年には第三艦隊司令長官、1933年には佐世保鎮守府司令長官となりました。

大角人事

この頃、満州事変(1931年)や国際連盟脱退(1933年)等、日本は暴走を始めます。海軍では艦隊派が台頭し、海軍大臣大角岑生に圧力をかけ条約派の軍人を次々と駆逐しました。この人事を大角人事と呼びます。

山梨勝之進や堀悌吉等、優れた国際感覚を持つ海軍大臣候補達は軒並み退役か左遷されました。山本五十六は人事を聞き激怒しています。条約派で生き残るのは米内光政、山本五十六、井上成美等ごく僅かでした。

1937年 – 57歳「海軍大臣に就任」

海軍大臣就任

1937年2月に光政は林内閣の海軍大臣に就任。光政を強く推したのは後に自衛隊に関わる保科善四郎と、光政と共に条約派の山本五十六でした。4月には光政はついに海軍大将となったのです。

日中戦争勃発

1937年6月に発足した近衛内閣でも光政は留任しています。7月には日中戦争の引き金となった盧溝橋事件が発生。その後に勃発した第二次上海事変で光政は強硬に兵を派遣する事を主張します。

満州事変を引き起こした関東軍ですが、日中戦争では不拡大を主張しました。世間では陸軍が戦争を推し進めたと言われますが、この戦争においては陸軍と海軍の立場は真逆だったのです。

1938年 – 57歳「トラウトマン和平工作を拒否する」

和平を主張した陸軍中将多田駿

交渉決裂

1937年11月頃から日中は和平の道を探ります。仲介に当たったのはドイツのトラウトマンでした。話し合いは続くものの、1938年1月に光政は首相の近衛文麿や外務大臣の広田弘毅らと、トラウトマン工作を打ち切ります。

光政の真意は不明です。戦場が海軍の管轄外である事、勝てる戦争だと思った、首相の意見に追随した等の説はありますね。日中戦争で光政は強気であり、その結果戦争が長引いた事は事実です。

平沼内閣での光政

1939年1月に平沼内閣が発足。ドイツから同盟を持ちかけられますが、光政はアメリカを敵に回せば勝ち目はないと反対します。ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結。平沼内閣は総辞職し、光政も海軍大臣を辞任しました。

1940年 – 60歳「内閣総理大臣に就任」

米内内閣の陸軍大臣 畑俊六

内閣総理大臣に就任

日中戦争が泥沼する中、ドイツは更に勢力を拡大。陸軍や世論から日独伊三国同盟案が再度浮上します。昭和天皇は情勢を憂いて光政を直々に総理大臣に指名し、1940年1月に米内内閣が発足します。

当時は財界や革新官僚、国民すらも同盟論が高まっていました。孤立無援な光政が頼りにしたのは、政友会、民政党の2大政党でした。更に昭和天皇は穏健派の陸軍大臣、畑俊六に米内を助ける事を要望します。

反軍演説

2月2日には民政党の斎藤隆夫が日中戦争に対する反軍演説を実施。演説は1時間半に及び、畑や他の陸軍の軍人も「上手い事を言う」と感心していました。

しかし民政党は陸軍に忖度して斎藤を除名します。この出来事は民政党が軍部に屈服した事を示しており、政府内、国民の支持を失っていくのです。

1940年 – 60歳「米内内閣倒閣」

新体制運動を報道する新聞

陸軍が倒閣に動く

6月にはドイツがフランスを陥落させると、世論はドイツに湧き上がります。一度独ソ不可侵条約で裏切られたにもかかわらず、陸軍は日独伊三国同盟を本格的に画策します。

そんな中、近衛文麿が軍や政党等全ての意思を統一させて国難に臨む、新体制運動を提唱。陸軍だけでなく、政党、官僚、更には国民も流れに乗ろうとします。陸軍は米内内閣の倒閣に動き出すのです。

畑俊六が陸軍大臣を辞任

当時は軍の大臣は現役でないと就任出来ず、軍が後任を出さないと内閣は総辞職する決まりでした。陸軍は皇族軍人の閑院宮載仁親王から畑を説得させました。皇族への信仰心が高い畑は断り切れずに陸軍を辞職します。

畑は辞職届を光政が受け取れないよう根回しをしますが、畑の身を案じて光政は届けを受理し、内閣は総辞職しました。辞表を提出する際の畑の表情は険しく、「畑が自殺するのではないか」と心配しました。

1944年 – 64歳「海軍大臣に再就任」

小磯国昭

太平洋戦争勃発

その後、第二次近衛内閣が発足し、日独伊三国同盟はあっさりと締結されます。海軍大臣へ光政を復帰させる意見はあったものの、艦隊派の意見は強く、この頃の光政の発言権はほぼありませんでした。

小磯内閣の海軍大臣に就任

1944年7月に東条内閣がサイパン島陥落に伴い総辞職します。後任の小磯国昭は政官界から長らく離れており、大局を乗り切るには不安と判断された為、光政は海軍大臣として入閣。更に副総理格という立場でした。

1945年3月にアメリカ軍は沖縄に上陸。小磯は中国国民党の繆斌との和平交渉に乗り気でしたが、外務大臣の重光葵が正規の交渉を主張。光政も同意しています。間も無く小磯内閣は責任を取り、総辞職しました。

1945年 – 65歳「終戦工作」

鈴木貫太郎内閣

鈴木内閣の海軍大臣に就任

1945年4月に鈴木貫太郎内閣が発足し、光政は留任します。6月に光政はソ連を仲介としたアメリカとの講和を提案。ソ連とは日ソ中立条約が締結されていた為、ソ連に期待を抱いていたと思われます。

しかし秘密裏にソ連は日本に参戦する事が決められていた為、ソ連からの返事は引き延ばされるだけでした。

降伏が勧告される

7月末にはアメリカ側から降伏を勧告するポツダム宣言が出されます。日本側は明確な返答をしなかった為、8月6日と9日に原爆が投下され、更にソ連が突如条約を破棄して参戦します。

その後光政はポツダム宣言を受諾して、戦争を終わらせる事を強く主張。徹底抗戦を唱える阿南惟幾陸軍大臣や、豊田副武海軍大将等を光政は声を荒げて叱責しています。

ポツダム宣言受諾

8月14日に昭和天皇はポツダム宣言受諾を決定し、戦争は終結しました。阿南は終戦の日に自決します。光政は海軍の不穏分子に対して直接諭す等、国内の不安情勢の収束に尽力しました。

1945年 – 65歳「戦後処理」

米内光政の特集が掲載されたタイム誌

戦後の海軍大臣も留任する

終戦後の東久邇宮内閣、幣原内閣でも光政は海軍大臣として留任し、戦後処理に当たります。GHQが戦争犯罪者を次々と逮捕し、光政も裁かれる事を覚悟していましたが、GHQからはこのように言われます。

「米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」

光政の評価は海外ではとても高かったようですね。11月30日には海軍省は解体され、光政は最後の海軍大臣となりました。

東京裁判

1946年には東京裁判が始まり、光政は証人として出廷します。天皇の立場を擁護しつつ、陸軍の戦争責任について言明します。米内内閣を倒閣させた畑も戦争責任を問われる事になりました。

光政はこの件は徹底的にしらを切り、知らぬ存ぜぬを突き通します。この態度がウェッブ裁判官に公衆の面前で非難されますが、光政は笑っていました。光政は畑が自分の意思で倒閣させたのではないと見抜いていました。

1948年 – 68歳「米内光政死去」

盛岡八幡宮にある光政の銅像

米内光政死去

出廷後の光政は釧路にて部下達と牧場を経営します。晩年に脳溢血を起こしますが、長年の高血圧や心労の影響があるかもしれません。1948年4月20日に光政は肺炎で死去しました。享年68歳です。

光政の母とみは92歳で存命であり、光政の葬儀にも参列しています。自分の教育を受け継ぎ、日本を守りぬいた光政の事を、とみはどのように思っていたのでしょうか。

銅像が設置される

余談ですが、1960年に光政の偉業を讃える為、盛岡八幡宮に銅像が建てられます。除幕式の直前に1人の老人が黙々と草むしりをしています。

それは光政がかばったおかげで東京裁判で死刑を免れた畑でした。光政は死後も多くの人々に感謝されていたのですね。

米内光政の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

米内光政/阿川弘之

米内光政の生涯を描いた小説であり、同シリーズとして山本五十六と井上成美の小説もあります。多くの伝聞や証言を調べた上で執筆されており、見落とされがちな終戦後の光政の功績にも触れられています。

光政の生涯を知る上でオススメの1冊です。

海軍一軍人の生涯―最後の海軍大臣米内光政

阿川弘之の書籍は光政の全体像を包括していますが、こちらは盛岡での人間関係に主軸をおいた書籍です。光政が皆に慕われたのは、少年時代の体験や母の教育によるものでした。阿川弘之の小説とセットで読みましょう。

米内光政と山本五十六は愚将だった―「海軍善玉論」の虚妄を糺す

彼らについて批判的にまとめた書籍です。偏った見方はありますが、日中戦争での行動等、完全に否定できない部分もあります。肯定的な意見だけでなく、否定的な部分も知る事で光政の実像を深く学べると思います。

おすすめの動画

米内光政 「政府の所信」

光政がラジオを通じて国民に今の状況を伝えた演説です。光政は他の閣僚よりも極端に演説回数が少なく、肉声は貴重です。生涯東北訛りを気にしていたとも言われますが、渋くて芯の通った声ですね。

おすすめの映画

日本のいちばん長い日

ポツダム宣言受諾の前日から玉音放送までの激動の24時間を描いた作品です。2015年にリメイクされていますが、今回紹介するのは1967年版になります。

米内光政を演じているのは故人の山村聰。ポツダム宣言受諾を巡る阿南惟幾とのやり取りは圧巻の一言であり、リメイク版よりも光政の存在がキーパーソンとなっています。

関連外部リンク

米内光政についてのまとめ

今回は米内光政について紹介しました。日中戦争での強硬策に疑問は持たれるものの、日独伊三国同盟に最後まで諦めずに反対し、終戦工作にも関与した光政の功績はとても大きいでしょう。

中には光政をソ連のスパイと考える人もいますが、光政は昭和天皇からも信頼され、高血圧で体調が優れない中で、難題を乗り切っています。スパイにそんな事は出来ないと個人的には思いますね。

今回の記事を通じて、光政だけではなく、戦前の歴史についても興味を持って学んでいただけたら幸いです。

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