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伊勢神宮の歴史・年表まとめ【参拝方法や歩き方についても紹介】

この記事では伊勢神宮について、歴史年表にまとめつつ、これまでの出来事などについてとことん掘り下げて紹介していきます。

正宮 内宮 鳥居

全国的に有名な観光スポットでもある伊勢神宮は興味を持っている方も多いと思いますが、誕生してから現在までにどんなことがあったのか知ることができます。

それではどうぞ。

伊勢神宮とは何か?

伊勢神宮の概要は?

伊勢神宮、別名「大神宮さん」

三重県伊勢市にある伊勢神宮。正式名称は単に「神宮」なのですが、他の神宮と区別するために伊勢神宮という呼び方が定着しています。

また親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」と称されることもありますが、全国に約8万箇所ある神社の総本社に当たります。

全国的にも有名な観光スポットになっている伊勢神宮ですが、本来は皇室や朝廷との関係が強く、天皇や内閣総理大臣といった権威者が参拝することが慣習になっていますね。

伊勢神宮の祭神は?

伊勢神宮が祀っている主祭神は太陽の神「天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)」と衣食住の神「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」。

まず内宮(ないくう)に祀られていて国民にとっての総氏神である「天照坐皇大御神」は、捉えようにもよりますが日本で一番偉い神様と言っても過言ではありません。「天岩戸の神隠れ」の神話でも有名で、縮めて「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」という呼ばれ方が一般的ですね。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)

続いて外宮(げくう)に祀られている「豊受大御神」は「トヨウケビメ」とも呼ばれますが、もともとは丹波国の神様。それが伊勢神宮に祀られるようになった理由は内宮の天照大御神です。

伊勢神宮外宮の社伝によると、雄略天皇の夢枕に天照大御神が現れ、自分一人では安らかに食事が取れないので、そのお供として丹波国与謝郡から豊受大御神を呼び寄せるよう神託を授けたそうです。

伊勢神宮の誕生は?

崇神天皇

伊勢神宮が誕生するきっかけとなったのは、実在した可能性がある最初の天皇である崇神天皇(すじんてんのう)の時代にまで遡ります。

崇神天皇5年(紀元前93年)、疫病が流行して人口の半分ほどが失われました。当時宮中では天照大御神と倭大国魂(やまとのおおくにたまのかみ)を祀っていたのですが、疫病がその二神の祟りだと考えた崇神天皇はそれぞれを宮の外へ出すことにします。

天照大御神は皇女である豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託され、現在の奈良県桜井市にあたる笠縫邑(かさぬいむら)に祀られることに。その後、疫病は無事鎮まります。

そして数十年が経ち、天皇は次の垂仁天皇(すいにんてんのう)に。その頃ずっと神事を担当してきた豊鍬入姫命の後を倭姫命(やまとひめのみこと)が引き継ぐことになります。

垂仁天皇(すいにんてんのう)

『日本書紀』によると垂仁天皇25年(紀元前5年)、倭姫命は永遠に天照大御神を祀るにふさわしい場所を求めて現在の東海地方各地を漫遊。最終的にたどり着いた場所こそが伊勢でした。海の幸・山の幸に恵まれたその地を天照大御神はたいそう気に入り、伊勢神宮の内宮となります。

そして外宮に豊受大御神が鎮座されたのはそれから約500年後の雄略天皇22年(478年)。理由は上記した通り、天照大御神の安らかな食事のためです。

伊勢神宮で行われる式年遷宮とは?

式年遷宮(しきねんせんぐう)

最近では2013年に行われた式年遷宮。こちらは原則20年に一度行われますが、内宮・外宮という二つの正宮(しょうぐう)、そして14の別宮の全ての社殿を造り替えて神座を遷す行事のことです。

建築物の他に衣服や宝物も制作されるのですが、それにかかる費用は膨大な額。しかし実はそれが制定された時代には既に現在まで建物を保存できるほどの建築技術が確立されていました。

古くからの慣習となった式年遷宮

事実、現存する世界最古の木造建築物群である法隆寺が建築されたのはそれ以前なのですが、なぜそれにも関わらず式年遷宮を定期的に行う道が選ばれたのかは不明。推測されている理由は以下のものです。

  • 過去の建築様式を保存するため
  • 神道の精神として、常に新しく清潔な状態を維持するため
  • 毎年行われる新嘗祭に対して、20年に一度行われる大神嘗祭とするため
  • 恒久的な藤原京の建設にあたり、それ以前までの遷移の意義を託すために遷宮が開始されたため

ちなみに残っている記録によると、式年遷宮を開始したのは天武天皇。現代までの途中、南北朝時代に120年以上中断されていた時期がありますが、持統天皇4年(690年)の第1回以降、1300年以上続く伝統行事となっています。

伊勢神宮の正しい参拝方法は?

お伊勢参り

伊勢神宮の参拝、いわゆる「お伊勢参り」「お蔭参り」は最初に外宮、次に内宮を回るのが昔からの習わし。時間などの都合で内宮のみ参拝していく観光客も多いですが、外宮から内宮まではバスか車で15分ほどで移動できるので、可能であればぜひ外宮からお参りすることをおすすめします。

お参りに要するおおよその時間は外宮が30分前後、内宮が60分前後といったところです。もちろん歩くペースにもよりますが、じっくりとその場その場を堪能しながらお参りしていればそのくらいはかかります。

そして外宮には火除橋、内宮には宇治橋という橋がそれぞれの入り口にかかっているのですが、鳥居の前でまず一礼し、外宮は左側通行、内宮は右側通行で進みましょう。中央は神様が通る道とされているからです。

道中にある手水舎で手や口を清めるのですが、内宮の場合はご正宮の手前から五十鈴川に降りられる通路があります。眺めも良く、清らかな気分に浸れるので、ぜひそばまで寄ってみてください。

伊勢神宮ならではの決まりごとには注意

そしていよいよご正宮ですが、以下の三つの注意事項があります。

  • 個人的なお願い事をしてはいけない
  • お賽銭を投げてはいけない
  • 写真撮影をしてはいけない

なぜなのかというと、伊勢神宮は本来「私幣禁断」。つまり天皇以外の参拝は許されておらず、一般人が個人的なお願いをする場所ではないからです。

よく見るとお賽銭箱もないのですが、そうはいってもお賽銭を投げる人が後を絶たないため、ご正宮の敷地内には聖域を守るために白い布が敷かれています。

またご神前は「心静かにお参りをするためだけの場所」であり、あまり騒がずに参拝するのがマナー。写真撮影も禁止されているので、外宮では板垣の外、内宮では石段の下で撮影するようにしましょう。

伊勢神宮の神宮125社とは?

一般的に伊勢神宮というと正宮である内宮と外宮の二つを指しますが、広義では以下のものも含みます。

別宮 外宮 多賀宮
  • 別宮(べつぐう)…「正宮のわけみや」の意味で、神宮の社宮のうち正宮に次いで尊いとされる神社
  • 摂社(せっしゃ)… 正宮・別宮を除いた、『延喜式神名帳』に記載されている神社
  • 末社(まっしゃ)… 正宮・別宮・摂社を除いた、『延暦儀式帳』に記載されている神社
  • 所管社(しょかんしゃ)…それ以外の神社

内訳は別宮14、摂社43、末社24、所管社42、それらに内宮・外宮の二つを加えて合計125社になりますが、それらを総じて「神宮125社」と呼び、伊勢市以外にも三重県内の4市2郡に分布しています。

そのため全てを回ろうとするときりがありませんが、時間に余裕があればいくつかの別宮くらいには足を伸ばしてみるのもおすすめです。例えば内宮の境内には荒祭宮(あらまつりのみや)、外宮の境内には多賀宮(たかのみや)という別宮がそれぞれあり、そこでなら個人的なお願いをしてもいいとされています。

伊勢神宮にはおみくじがない?

伊勢神宮にはおみくじがない

ちなみに伊勢神宮はおみくじがないことでも有名ですが、なぜ全国に数多くある神社の総本社である伊勢神宮におみくじがないのかというと、それは吉凶を占う場所ではないとされているからです。

十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』でも語られていますが、江戸時代にはお伊勢参りが全国的に大流行。しかし当時に車や電車などあるわけもなく、老若男女問わず、ほとんどの人は遠方からでも徒歩で伊勢神宮を目指しました。当然時間やお金も必要ですし、時には道中に命を落としてしまった人も決して少なくないはずです。

しかし総氏神の天照大御神が祀られている伊勢神宮とは、それほどまでの苦労をしてでも人生に一度は訪れてみたい夢のような場所。その地に足を踏み入れることができただけでも非常に喜ばしいことであり、参拝すればそれが“大吉”ということですね。

また参拝の後はおかげ横丁で赤福・伊勢うどん・海産物などを楽しむこともお伊勢参りの醍醐味なので、歩き疲れた足を休めながらご当地グルメも楽しみましょう。

伊勢神宮の年表を簡単にまとめると?

BC93年
日本各地で疫病が蔓延
西暦では紀元前93年にあたる崇神天皇5年、日本各地で疫病が蔓延します。人口の約半数が亡くなったとされていますが、崇神天皇はこれを皇居に祀っていた天照大御神と倭大国魂神の祟りだと考えました。
BC92年
天照大御神と倭大国魂神を宮中の外に出す
疫病を鎮めるために崇神天皇は天照大御神と倭大国魂神を皇居の外に出すことに。豊鍬入姫命に天照大御神を授けると疫病は無事なくなり、世に平和が訪れます。
BC5年
伊勢神宮の内宮に鎮座
天皇が次の垂仁天皇に移った時、豊鍬入姫命も自分の任を倭姫命に引き継ぎます。そして倭姫命は天照大御神を祀るための地を探し求めて伊勢に到着。天照大御神が伊勢神宮の内宮に鎮座するのでした。
478年
伊勢神宮の外宮に鎮座
内宮の鎮座から約500年後、雄略天皇の夢枕に天照大御神が現れます。天照大御神は自分一人では安らかに食事が取れないと告げると、衣食住を司る神である豊受大御神を丹波国から呼び寄せるように命じました。

これがきっかけで、豊受大御神が伊勢神宮の外宮に鎮座することになります。

690年
初めて式年遷宮が行われる
外宮が誕生してから200年と少し経った頃、持統天皇の時代には初めて式年遷宮が行われました。690年には内宮、692年には外宮でそれぞれ第1回式年遷宮が行われ、各建築物などが造り替えられたとされています
1467年
応仁の乱が勃発
しばらく経って1463年には第40回式年遷宮が行われるのですが、その後世は戦国時代に突入。応仁の乱により朝廷は窮乏の淵に追いやられ、123年もの間式年遷宮を行うことができませんでした。
1650年
江戸時代にお蔭参りが大流行
江戸時代には伊勢神宮への参拝、つまりお蔭参り・お伊勢参りが全国的に大流行します。中世で荒廃した伊勢神宮を立て直すため、衣食住の神である豊受大御神を農民に布教し、参拝を促したためです。

それにより江戸や大阪からはもちろん、東北や九州からも大勢の人が徒歩で伊勢を目指しました。

1959年
伊勢湾台風により甚大な被害を受ける
1959年には昭和の三大台風の一つに数えられ、その中でも最大の被害を出した伊勢湾台風が発生。3,000人以上の犠牲者が出ましたが特に三重県と愛知県への被害が甚大で、伊勢神宮では敷地内での倒木などの被害が発生しました。
2013年
第62回式年遷宮が行われる
2013年には第62回式年遷宮が行われました。現在における最新の式年遷宮で、かかった費用の総額は550億円にまで登ったと発表されています。

ちなみに2005年には既に各行事が進行され出していました。

2016年
伊勢志摩サミットが開催される
2016年には第42回先進国首脳会議が伊勢市の隣にある志摩市で開催。通称伊勢志摩サミットと称されましたが、その際G7首脳陣が伊勢神宮内宮に参拝されました。

伊勢神宮の年表を具体的にまとめると?

BC5年「伊勢神宮の内宮に鎮座」

全国に疫病が蔓延

大きな被害をもたらした疫病の蔓延

伊勢神宮誕生となったきっかけは崇神天皇5年、西暦に直すと紀元前5年なので今から2000年以上前のことになりますが、この頃全国的に疫病が蔓延。記録によると人口は実に半数にまで減少してしまったとあります。

当時皇居では天照大御神と倭大国魂神の二神を祀っていたのですが、崇神天皇はこれは恐れ多い行為であり、疫病はその祟りだと考えました。

天照大御神を豊鍬入姫命に託す

崇神天皇

崇神天皇は疫病を鎮めるために天照大御神と倭大国魂神をそれぞれ皇居の外に出すことを決心。天照大御神の分身とも言える八咫鏡(やたのかがみ)を皇女の豊鍬入姫命に託します。

豊鍬入姫命は八咫鏡を笠縫邑(現・奈良県桜井市)に祀ると、疫病は無事収まりました。

ちなみに倭大国魂神は長岡岬(新潟県長岡市)に祀られることに。同じく皇女の渟名城入媛命(ぬなきいりびめのみこと)に託されたのですが、髪は抜け落ち、身体は痩せ細り、祀ることができなかったそうです。

天照大御神が内宮に鎮座する

そして天皇は次の垂仁天皇に交代。紀元前5年には天照大御神は豊鍬入姫命から倭姫命に引き継がれたのですが、『日本書紀』には以下のように記録されています。

「倭姫命、菟田の篠幡に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」

天照大御神を永久に祀るにふさわしい場所を求めて旅に出ることになった倭姫命は、大和国を出発して伊賀・近江・美濃・尾張と東海地方の様々な場所を漫遊。移動中、天照大御神が一時的に祀られていた場所は元伊勢と呼ばれます。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)

そうしてついに伊勢に到着しますが、暖かい気候、そして海や山の幸に恵まれたその地を見た天照大御神は倭姫命に「ここに永住したい」と告げたそうです。

そうして天照大御神は伊勢に祀られ、伊勢神宮内宮の誕生。

ちなみに内宮のすぐそばに流れている五十鈴川(いすずがわ)は別名御裳濯川(みもすそがわ)とも呼ばれますが、その由来は倭姫命がこの川で衣服を濯いだからだそうです。

478年「伊勢神宮の外宮に鎮座」

豊受大御神が外宮に鎮座する

伊勢神宮 外宮

内宮誕生から約500年後、478年には豊受大御神が外宮に鎮座されます。豊受大御神はもともと丹波国(京都府・兵庫県・大阪府にかかる地域)に祀られていて、衣食住を司る神様なのですが、この年に丹波国から伊勢に遷座されたことが外宮誕生のきっかけとなりました。

また伊勢神宮外宮の社伝『止由気宮儀式帳』によると、遷座された理由は天照大御神が雄略天皇の夢に現れて以下のように告げたからだそうです。

「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌の神、等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」

等由気太神が豊受大御神のことを指すのですが、つまり天照大御神が自分の食事を安定させるために豊受大御神を呼び寄せさせたということ。

そのため外宮では鎮座から約1500年間、天照大御神にお食事を供える日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という神事が毎日朝夕の二回、欠かさず行われています。

690年「第1回式年遷宮が行われる」

天武天皇が式年遷宮を制定する

天武天皇

外宮誕生から約200年後となる685年、天武天皇が式年遷宮を制定します。上で説明した通り、こちらは20年ごとに伊勢神宮などの建築物などを造り直す行事ですが、毎回膨大な国費が投じられる神宮最大のお祭りです。

しかしなぜ20年ごとに行われるのか、正確な理由は明らかになっていません。

ただそれにより古くからの建築物や宝物を現在でも変わらず綺麗な形で残せているのは確かで、神・人・国家の永遠を目指したと考えられています。

持統天皇が第1回式年遷宮を実施する

制定から5年後、690年には持統天皇がついに第1回式年遷宮を実施します。

ただしその年に完了したわけではなく、690年に内宮、692年に外宮の式年遷宮と分けて行われました。

1467年「応仁の乱により式年遷宮が中断」

応仁の乱が勃発

応仁の乱の勃発

しばらく経って1463年には第40回式年遷宮が行われたのですが、その頃世は戦国時代。1467年には応仁の乱が勃発します。

それが原因で朝廷は深刻な資金不足に陥ってしまい、式年遷宮の中断をせざるをえない状況に。第40回式年遷宮を最後に120年以上行われることはありませんでした。

1585年「式年遷宮が復活」

織田信長が伊勢神宮に参拝

織田信長は信仰心が厚い人物だった

長期間に渡り中断されていた式年遷宮を復活させたのはかの有名な戦国武将・織田信長でした。我々が持つ織田信長のイメージからは少し想像しにくいかもしれませんが、実は信仰心が厚い人物なんです。

1569年には実際に伊勢神宮に参拝したこともあるのですが、戦国時代において経済難に瀕していた伊勢神宮に3000貫文(現・3億円相当)の募金を行なっています。

1582年の本能寺の変で亡くなってしまいましたが、豊臣秀吉がその後を継いで、1585年には約120年ぶりに式年遷宮が復活することになりました。

1650年「江戸時代にお蔭参りが大流行」

慶安のお蔭参り

歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」

式年遷宮も復活した伊勢神宮ですが、江戸時代に入るとお蔭参りが大流行します。1650年の「慶安のお蔭参り」についてはほとんど記録が残っていないようなのですが、『寛明日記』によると流行らせたのは江戸の商人。

復活したとはいえまだまだ資金難の伊勢神宮を立て直すため、衣食住を司る豊受大御神を農民に布教して参拝するよう広めたんだとか。

資料が少ないためこの年の参拝者数はわかっていないのですが、正月下旬〜3月上旬までで平均500〜600人、3月中旬〜5月までで平均2100人が1日に訪れたそうです。

宝永のお蔭参り

1705年の「宝永のお陰参り」ではお蔭参りの流行がいよいよ本格化します。この流行は主に京都で発生したそうなのですが、2ヶ月間に330万~370万人が参拝しました。

本居宣長の『玉勝間』によると4月上旬から1日に2,000〜3,000人が松阪を通り、最高で1日23万人が通ったとの記録があります。

明和のお蔭参り

現代以上に参拝客でごったがえしていた

1771年の「明和のお蔭参り」は宇治から女性や子供たちの集団が仕事場や家族に無断で参拝してきたことが始まりとされていますが、それが由来でお蔭参りは「抜け参り」とも呼ばれています。また当時松坂では道路を横切ることすら難しいほどの参拝者がいたそうです。

参拝者の数は実に200万人に登ったらしいのですが、この時の特徴は街道沿いの富豪たちが通行人に施しをしていたこと。もちろんそれは宗教的な考えによるものらしいのですが、徐々にお金目的で参拝に来る人も増加したそうです。

文政のお蔭参り

そして江戸時代最後のブームは1830年の「文政のお蔭参り」。流行が発生した範囲は以前より狭かったらしいのですが、参拝者の数は427万と逆に増えていました。

この時は手や口を清める時に使うひしゃくを持ち込んでは外宮の北門に置いていくという行為が流行ったそうなのですが、その理由は不明。また流行発生源である阿波の風習が広まったとも言われています。

ちなみに歴史の教科書にも載っていた「ええじゃないか」はお蔭参りには含まれないのですが、それによる影響を受けて発生した騒動なんだそうです。

1869年「明治天皇が参拝」

明治天皇が在位中の天皇としては初めて参拝した

明治天皇

1869年に明治天皇が伊勢神宮に参拝したのですが、実は在位中の天皇が参拝するのはこれが初。意外にもそれ以前にはなかったことでした。

決定的な理由は明らかになっていないものの、以下の諸説が有力だとされています。

  • 疫病を引き起こした天照大御神を恐れている
  • 単純に交通費・旅費が不足していた

1949年「第59回式年遷宮が延期される」

占領政策の影響で第59回式年遷宮が延期に

第59回内宮式年遷宮

1945年に日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦の敗戦国になりましたが、その後の占領政策の影響で第59回式年遷宮は延期せざるをえない状況でした。

本来であれば1949年に実施されるはずだったのですが、当時は内宮の宇治橋のみ架け替えられ、その他は4年後の1953年に行われました。

1959年「伊勢湾台風により甚大な被害を受ける」

伊勢湾台風により倒木などの被害

広範囲に被害を及ぼした伊勢湾台風

1959年には歴史に残るほどの大災害である伊勢湾台風が発生しました。室戸台風・枕崎台風と合わせて昭和の三大台風と称されていますが、伊勢湾台風はその中で最も被害が大きかった台風です。

特に影響を受けたのは三重県と愛知県ですが、それ以外にも被害は全国的なもので、阪神・淡路大震災の数倍、そして関東大震災に匹敵する経済的ダメージがありました。

当時の犠牲者は3,000人以上と言われていて、伊勢神宮では内宮・外宮共に倒木などの被害に遭ったそうです。

2013年「第62回式年遷宮が行われる」

550億円をかけて第62回式年遷宮が執行される

現在までに行われた式年遷宮で最新のものは2013年の第62回式年遷宮です。

2005年から徐々に各行事が始まっていたのですが、その時かかった費用の総額はなんと550億円。そのうち330億円は伊勢神宮の自己負担で、残りの220億円は寄付により賄われました。

2016年「伊勢志摩サミットが開催される」

G7首脳が内宮に参拝

伊勢志摩サミット

そして伊勢といえば2016年に開催された伊勢志摩サミットもまだ記憶に新しいと思います。正式名称は第42回先進国首脳会議で、伊勢市の隣にある志摩市阿児町神明賢島で開かれることになります。

その場所が選ばれた理由には三重県警察が伊勢神宮に参拝する要人の警護に慣れているということも含まれていて、実際にG7首脳が内宮に参拝しました。

最後に

いかがでしたか?この記事では伊勢神宮の長い歴史を誕生のきっかけから振り返ってみました。私自身、伊勢神宮は地元の近くにあるので毎年初詣に行くのですが、やはり何度訪れても素敵な場所だと思います。

そして参拝の後におかげ横丁で食べ歩きをするのも楽しみで、それもまたお伊勢参りの醍醐味だと言えるでしょう。この記事でもし伊勢神宮に魅力を感じたら、ぜひ一度足を運んでみてください!

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