伊勢神宮とは?いつ、どこで、誰に、何のために作られた?【歴史や参拝方法、歩き方、年表も紹介】

伊勢神宮の年表を具体的にまとめると?

BC5年「伊勢神宮の内宮に鎮座」

全国に疫病が蔓延

大きな被害をもたらした疫病の蔓延

伊勢神宮誕生となったきっかけは崇神天皇5年、西暦に直すと紀元前5年なので今から2000年以上前のことになりますが、この頃全国的に疫病が蔓延。記録によると人口は実に半数にまで減少してしまったとあります。

当時皇居では天照大御神と倭大国魂神の二神を祀っていたのですが、崇神天皇はこれは恐れ多い行為であり、疫病はその祟りだと考えました。

天照大御神を豊鍬入姫命に託す

崇神天皇

崇神天皇は疫病を鎮めるために天照大御神と倭大国魂神をそれぞれ皇居の外に出すことを決心。天照大御神の分身とも言える八咫鏡(やたのかがみ)を皇女の豊鍬入姫命に託します。

豊鍬入姫命は八咫鏡を笠縫邑(現・奈良県桜井市)に祀ると、疫病は無事収まりました。

ちなみに倭大国魂神は長岡岬(新潟県長岡市)に祀られることに。同じく皇女の渟名城入媛命(ぬなきいりびめのみこと)に託されたのですが、髪は抜け落ち、身体は痩せ細り、祀ることができなかったそうです。

天照大御神が内宮に鎮座する

そして天皇は次の垂仁天皇に交代。紀元前5年には天照大御神は豊鍬入姫命から倭姫命に引き継がれたのですが、『日本書紀』には以下のように記録されています。

「倭姫命、菟田の篠幡に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」

天照大御神を永久に祀るにふさわしい場所を求めて旅に出ることになった倭姫命は、大和国を出発して伊賀・近江・美濃・尾張と東海地方の様々な場所を漫遊。移動中、天照大御神が一時的に祀られていた場所は元伊勢と呼ばれます。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)

そうしてついに伊勢に到着しますが、暖かい気候、そして海や山の幸に恵まれたその地を見た天照大御神は倭姫命に「ここに永住したい」と告げたそうです。

そうして天照大御神は伊勢に祀られ、伊勢神宮内宮の誕生。

ちなみに内宮のすぐそばに流れている五十鈴川(いすずがわ)は別名御裳濯川(みもすそがわ)とも呼ばれますが、その由来は倭姫命がこの川で衣服を濯いだからだそうです。

478年「伊勢神宮の外宮に鎮座」

豊受大御神が外宮に鎮座する

伊勢神宮 外宮

内宮誕生から約500年後、478年には豊受大御神が外宮に鎮座されます。豊受大御神はもともと丹波国(京都府・兵庫県・大阪府にかかる地域)に祀られていて、衣食住を司る神様なのですが、この年に丹波国から伊勢に遷座されたことが外宮誕生のきっかけとなりました。

また伊勢神宮外宮の社伝『止由気宮儀式帳』によると、遷座された理由は天照大御神が雄略天皇の夢に現れて以下のように告げたからだそうです。

「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる御饌の神、等由気太神(とゆけおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」

等由気太神が豊受大御神のことを指すのですが、つまり天照大御神が自分の食事を安定させるために豊受大御神を呼び寄せさせたということ。

そのため外宮では鎮座から約1500年間、天照大御神にお食事を供える日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という神事が毎日朝夕の二回、欠かさず行われています。

690年「第1回式年遷宮が行われる」

天武天皇が式年遷宮を制定する

外宮誕生から約200年後となる685年、天武天皇が式年遷宮を制定します。上で説明した通り、こちらは20年ごとに伊勢神宮などの建築物などを造り直す行事ですが、毎回膨大な国費が投じられる神宮最大のお祭りです。

しかしなぜ20年ごとに行われるのか、正確な理由は明らかになっていません。

ただそれにより古くからの建築物や宝物を現在でも変わらず綺麗な形で残せているのは確かで、神・人・国家の永遠を目指したと考えられています。

持統天皇が第1回式年遷宮を実施する

制定から5年後、690年には持統天皇がついに第1回式年遷宮を実施します。

ただしその年に完了したわけではなく、690年に内宮、692年に外宮の式年遷宮と分けて行われました。

1467年「応仁の乱により式年遷宮が中断」

応仁の乱が勃発

応仁の乱の勃発

しばらく経って1463年には第40回式年遷宮が行われたのですが、その頃世は戦国時代。1467年には応仁の乱が勃発します。

それが原因で朝廷は深刻な資金不足に陥ってしまい、式年遷宮の中断をせざるをえない状況に。第40回式年遷宮を最後に120年以上行われることはありませんでした。

1585年「式年遷宮が復活」

織田信長が伊勢神宮に参拝

織田信長は信仰心が厚い人物だった

長期間に渡り中断されていた式年遷宮を復活させたのはかの有名な戦国武将・織田信長でした。我々が持つ織田信長のイメージからは少し想像しにくいかもしれませんが、実は信仰心が厚い人物なんです。

1569年には実際に伊勢神宮に参拝したこともあるのですが、戦国時代において経済難に瀕していた伊勢神宮に3000貫文(現・3億円相当)の募金を行なっています。

1582年の本能寺の変で亡くなってしまいましたが、豊臣秀吉がその後を継いで、1585年には約120年ぶりに式年遷宮が復活することになりました。

1650年「江戸時代にお蔭参りが大流行」

慶安のお蔭参り

歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」

式年遷宮も復活した伊勢神宮ですが、江戸時代に入るとお蔭参りが大流行します。1650年の「慶安のお蔭参り」についてはほとんど記録が残っていないようなのですが、『寛明日記』によると流行らせたのは江戸の商人。

復活したとはいえまだまだ資金難の伊勢神宮を立て直すため、衣食住を司る豊受大御神を農民に布教して参拝するよう広めたんだとか。

資料が少ないためこの年の参拝者数はわかっていないのですが、正月下旬〜3月上旬までで平均500〜600人、3月中旬〜5月までで平均2100人が1日に訪れたそうです。

宝永のお蔭参り

1705年の「宝永のお陰参り」ではお蔭参りの流行がいよいよ本格化します。この流行は主に京都で発生したそうなのですが、2ヶ月間に330万~370万人が参拝しました。

本居宣長の『玉勝間』によると4月上旬から1日に2,000〜3,000人が松阪を通り、最高で1日23万人が通ったとの記録があります。

明和のお蔭参り

現代以上に参拝客でごったがえしていた

1771年の「明和のお蔭参り」は宇治から女性や子供たちの集団が仕事場や家族に無断で参拝してきたことが始まりとされていますが、それが由来でお蔭参りは「抜け参り」とも呼ばれています。また当時松坂では道路を横切ることすら難しいほどの参拝者がいたそうです。

参拝者の数は実に200万人に登ったらしいのですが、この時の特徴は街道沿いの富豪たちが通行人に施しをしていたこと。もちろんそれは宗教的な考えによるものらしいのですが、徐々にお金目的で参拝に来る人も増加したそうです。

文政のお蔭参り

そして江戸時代最後のブームは1830年の「文政のお蔭参り」。流行が発生した範囲は以前より狭かったらしいのですが、参拝者の数は427万と逆に増えていました。

この時は手や口を清める時に使うひしゃくを持ち込んでは外宮の北門に置いていくという行為が流行ったそうなのですが、その理由は不明。また流行発生源である阿波の風習が広まったとも言われています。

ちなみに歴史の教科書にも載っていた「ええじゃないか」はお蔭参りには含まれないのですが、それによる影響を受けて発生した騒動なんだそうです。

1869年「明治天皇が参拝」

明治天皇が在位中の天皇としては初めて参拝した

明治天皇

1869年に明治天皇が伊勢神宮に参拝したのですが、実は在位中の天皇が参拝するのはこれが初。意外にもそれ以前にはなかったことでした。

決定的な理由は明らかになっていないものの、以下の諸説が有力だとされています。

  • 疫病を引き起こした天照大御神を恐れている
  • 単純に交通費・旅費が不足していた

1949年「第59回式年遷宮が延期される」

占領政策の影響で第59回式年遷宮が延期に

第59回内宮式年遷宮

1945年に日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦の敗戦国になりましたが、その後の占領政策の影響で第59回式年遷宮は延期せざるをえない状況でした。

本来であれば1949年に実施されるはずだったのですが、当時は内宮の宇治橋のみ架け替えられ、その他は4年後の1953年に行われました。

1959年「伊勢湾台風により甚大な被害を受ける」

伊勢湾台風により倒木などの被害

広範囲に被害を及ぼした伊勢湾台風

1959年には歴史に残るほどの大災害である伊勢湾台風が発生しました。室戸台風・枕崎台風と合わせて昭和の三大台風と称されていますが、伊勢湾台風はその中で最も被害が大きかった台風です。

特に影響を受けたのは三重県と愛知県ですが、それ以外にも被害は全国的なもので、阪神・淡路大震災の数倍、そして関東大震災に匹敵する経済的ダメージがありました。

当時の犠牲者は3,000人以上と言われていて、伊勢神宮では内宮・外宮共に倒木などの被害に遭ったそうです。

2013年「第62回式年遷宮が行われる」

550億円をかけて第62回式年遷宮が執行される

現在までに行われた式年遷宮で最新のものは2013年の第62回式年遷宮です。

2005年から徐々に各行事が始まっていたのですが、その時かかった費用の総額はなんと550億円。そのうち330億円は伊勢神宮の自己負担で、残りの220億円は寄付により賄われました。

2016年「伊勢志摩サミットが開催される」

G7首脳が内宮に参拝

伊勢志摩サミット

そして伊勢といえば2016年に開催された伊勢志摩サミットもまだ記憶に新しいと思います。正式名称は第42回先進国首脳会議で、伊勢市の隣にある志摩市阿児町神明賢島で開かれることになります。

その場所が選ばれた理由には三重県警察が伊勢神宮に参拝する要人の警護に慣れているということも含まれていて、実際にG7首脳が内宮に参拝しました。

最後に

いかがでしたか?この記事では伊勢神宮の長い歴史を誕生のきっかけから振り返ってみました。私自身、伊勢神宮は地元の近くにあるので毎年初詣に行くのですが、やはり何度訪れても素敵な場所だと思います。

そして参拝の後におかげ横丁で食べ歩きをするのも楽しみで、それもまたお伊勢参りの醍醐味だと言えるでしょう。この記事でもし伊勢神宮に魅力を感じたら、ぜひ一度足を運んでみてください!

1 2

コメントを残す