明智光秀はどんな性格だった?様々なエピソードから人物像を考察

明智光秀といえば「本能寺の変」で織田信長を討ち取った武将として有名です。当時天下統一直前だった織田信長があのまま政権を握っていたら、その後の豊臣秀吉・徳川家康の台頭はなく江戸幕府の成立もなかったでしょう。

そのような意味で「本能寺の変」は一武将の単なる下克上では留まらない大きな歴史的事件として、古今様々な研究がされています。

そんな明智光秀ですが、どのような性格の持ち主だったのでしょうか?いい人だったのか、それとも悪い人だったのか?様々な議論があるかと思います。

そこで今回は明智光秀の「性格」という部分にスポットを当てて考察してみたいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

前提:明智光秀は謎の多い人物

分かっていないことが多い

明智光秀は越前で朝倉義景に仕えるまでの記録や資料などがなく、特に前半生などは不明な点がとても多いです。出生についても記録がないほどの身分の低い家柄であった・土岐源氏の流れを汲む家柄であったなどの説があったり、美濃(岐阜県)出身説や近江(滋賀県)があったりと非常に様々な考察がされている人物なのです。

そのため、明智光秀の性格についても憶測の枠を出ないものであることをはじめにご理解いただきたいと思います。

明智光秀はどんな性格だった?

冷静かつ冷たい性格だった?

冷酷な一面もあった

明智光秀は冷静な性格だったのではないかと言われています。その証拠に生涯22戦の合戦を経験しながら16勝2敗4分けという恐ろしいほどの勝率があります。

単純に武術に長けていたということもあったと思いますが、戦において「うっかりミス」や「油断して負けた」ということがないことから常に落ち着いていた性格が伺えます。

また冷静を通り越して「冷酷」という一面もあったようで、織田信長が行った比叡山焼討ちでは、信長の命ずるまま光秀も多くの殺戮行為を行いました。明智光秀は上の立場の人が「やれ」と命じたことにはまるで機械のような正確さと従順さで実行する武人だったのです。しかし彼が本心では何をどう思っていたのか、誰も知る由はありません。

ルイス・フロイスによる明智光秀評

宣教師達には嫌われていた?

当時宣教のため来日していたルイス・フロイスによる光秀の人物評が散々なため、一つご紹介したいと思います。

ルイス・フロイスによると「(明智光秀は)織田軍の新参者のくせに織田信長には気に入られているからと家臣みんなに嫌われていた。裏切りや密会が大好きで、『人を騙す方法を72知っている』と周りに得意げに言いふらすし、冷酷で独りよがりである。嘘つきで妙な忍耐力もあったので、策を弄する達人だった」と、散々な評価です。とどめに「光秀は悪魔と友達に違いない」とまで言い切るほどの嫌われようでした。

ルイス・フロイス が記した「日本史」は、西洋から見た当時の日本の様子や庶民の目から見た武将たちの様子などがよくわかる資料として戦国時代の重要な研究史料といわれています。しかしフロイスの信長評が客観的な評価としてよく用いられているのに比べ、この光秀評は「フロイスの偏見である」という見方をされているのが一般的なようです。

「日本史」目次

大名たちの中にはイエズス会を単なる布教のみを目的とした団体ではなく、政治的な目的のために来日しているのではないかと警戒する見方もあり、光秀もその見方をする一人でした。キリスト教に改宗する武将も多くいた中、依然として打ち解ける様子のない光秀には「なんて冷たい嫌なやつだ」と宣教師達も思ったのかも知れません。

その後イエズス会は九州で日本人を奴隷として奴隷貿易を行うなど次々と日本国内でトラブルを起こしました。次いで宣教師たちを追放する法律が整備され、そして鎖国へとつながっていきます。ある意味で光秀の警戒は的中していたといえるでしょう。

徹底した合理主義者

織田信長とは気が合っていた?

歴史小説などのフィクション作品の中の明智光秀は伝統的な考えを重んじる常識人として描かれることが多く、対照的に織田信長は合理主義を徹底するあまり当時の常識では考えられないようなことを思いついたり実行したりする型破りな人物として描かれています。

しかし史実の中の光秀は信長のような合理主義者で、だからこそ信長も光秀を信頼し、自身の右腕として重宝していたのではないかと言われています。合理的な性格が伺える事柄としては、当時まだ新しい武器だった鉄砲を使いこなしていた点や、人材を家柄などではなく能力や人柄で判断していたらしいなどことから推測できます。

また明智光秀は武人でありながら連歌や茶の湯などに通じた文化人としての一面もありました。意外にも戦国武将には細川藤孝(幽斎)や松永久秀などの文化・芸術を愛する武人も多く、茶の湯の嗜みは人付き合いをスムーズにするためには必要な趣味だったとも言えます。

人脈作りのための努力ができるのも合理的な考えができる人物ならでと考えられるでしょう。

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