いくつ答えられる?ダヴィンチクイズ

明智光秀はどんな性格だった?様々なエピソードから人物像を考察

明智光秀といえば「本能寺の変」で織田信長を討ち取った武将として有名です。当時天下統一直前だった織田信長があのまま政権を握っていたら、その後の豊臣秀吉・徳川家康の台頭はなく江戸幕府の成立もなかったでしょう。

そのような意味で「本能寺の変」は一武将の単なる下克上では留まらない大きな歴史的事件として、古今様々な研究がされています。

そんな明智光秀ですが、どのような性格の持ち主だったのでしょうか?いい人だったのか、それとも悪い人だったのか?様々な議論があるかと思います。

そこで今回は明智光秀の「性格」という部分にスポットを当てて考察してみたいと思います。

前提:明智光秀は謎の多い人物

分かっていないことが多い

明智光秀は越前で朝倉義景に仕えるまでの記録や資料などがなく、特に前半生などは不明な点がとても多いです。出生についても記録がないほどの身分の低い家柄であった・土岐源氏の流れを汲む家柄であったなどの説があったり、美濃(岐阜県)出身説や近江(滋賀県)があったりと非常に様々な考察がされている人物なのです。

そのため、明智光秀の性格についても憶測の枠を出ないものであることをはじめにご理解いただきたいと思います。

明智光秀はどんな性格だった?

冷静かつ冷たい性格だった?

冷酷な一面もあった

明智光秀は冷静な性格だったのではないかと言われています。その証拠に生涯22戦の合戦を経験しながら16勝2敗4分けという恐ろしいほどの勝率があります。

単純に武術に長けていたということもあったと思いますが、戦において「うっかりミス」や「油断して負けた」ということがないことから常に落ち着いていた性格が伺えます。

また冷静を通り越して「冷酷」という一面もあったようで、織田信長が行った比叡山焼討ちでは、信長の命ずるまま光秀も多くの殺戮行為を行いました。明智光秀は上の立場の人が「やれ」と命じたことにはまるで機械のような正確さと従順さで実行する武人だったのです。しかし彼が本心では何をどう思っていたのか、誰も知る由はありません。

ルイス・フロイスによる明智光秀評

宣教師達には嫌われていた?

当時宣教のため来日していたルイス・フロイスによる光秀の人物評が散々なため、一つご紹介したいと思います。

ルイス・フロイスによると「(明智光秀は)織田軍の新参者のくせに織田信長には気に入られているからと家臣みんなに嫌われていた。裏切りや密会が大好きで、『人を騙す方法を72知っている』と周りに得意げに言いふらすし、冷酷で独りよがりである。嘘つきで妙な忍耐力もあったので、策を弄する達人だった」と、散々な評価です。とどめに「光秀は悪魔と友達に違いない」とまで言い切るほどの嫌われようでした。

ルイス・フロイス が記した「日本史」は、西洋から見た当時の日本の様子や庶民の目から見た武将たちの様子などがよくわかる資料として戦国時代の重要な研究史料といわれています。しかしフロイスの信長評が客観的な評価としてよく用いられているのに比べ、この光秀評は「フロイスの偏見である」という見方をされているのが一般的なようです。

「日本史」目次

大名たちの中にはイエズス会を単なる布教のみを目的とした団体ではなく、政治的な目的のために来日しているのではないかと警戒する見方もあり、光秀もその見方をする一人でした。キリスト教に改宗する武将も多くいた中、依然として打ち解ける様子のない光秀には「なんて冷たい嫌なやつだ」と宣教師達も思ったのかも知れません。

その後イエズス会は九州で日本人を奴隷として奴隷貿易を行うなど次々と日本国内でトラブルを起こしました。次いで宣教師たちを追放する法律が整備され、そして鎖国へとつながっていきます。ある意味で光秀の警戒は的中していたといえるでしょう。

徹底した合理主義者

織田信長とは気が合っていた?

歴史小説などのフィクション作品の中の明智光秀は伝統的な考えを重んじる常識人として描かれることが多く、対照的に織田信長は合理主義を徹底するあまり当時の常識では考えられないようなことを思いついたり実行したりする型破りな人物として描かれています。

しかし史実の中の光秀は信長のような合理主義者で、だからこそ信長も光秀を信頼し、自身の右腕として重宝していたのではないかと言われています。合理的な性格が伺える事柄としては、当時まだ新しい武器だった鉄砲を使いこなしていた点や、人材を家柄などではなく能力や人柄で判断していたらしいなどことから推測できます。

また明智光秀は武人でありながら連歌や茶の湯などに通じた文化人としての一面もありました。意外にも戦国武将には細川藤孝(幽斎)や松永久秀などの文化・芸術を愛する武人も多く、茶の湯の嗜みは人付き合いをスムーズにするためには必要な趣味だったとも言えます。

人脈作りのための努力ができるのも合理的な考えができる人物ならでと考えられるでしょう。

妻子や家臣には優しかった?

領民からの評判も良かった

戦場では黙々と任務をこなす光秀ですが、家臣や家族には思いやりに満ちた態度で接していたことが伝わっています。また領地では善政を敷いたため領民にも愛されていました。今でも京都府亀岡市や大阪府岸和田市などでは明智光秀を偲ぶ祭りなどが開催されています。

明智光秀の妻・煕子は長年連れ添った愛妻で、光秀は出世した後も側室を娶らず仲睦まじく過ごしていたと伝わっています。その煕子は天正3年(1575年)に過労で倒れた光秀の看病疲れから亡くなってしまいますが、一説には煕子が生きていたら本能寺の変もなかったのでは無いかといわれているほど妻の存在は光秀の心の支えだったようです。

本能寺の変

本能寺の変が起こる前の光秀は過労死寸前なほど織田軍に酷使されていました。また長年織田信長に仕えていた佐久間信盛や林秀貞が織田軍を追放されるという事件が起こり、いつも冷静な光秀も加齢と疲労から「自分も用済みになったら追放されるのか」と疑心暗鬼になったことが謀反の原因とする説もあります。

確かに「本能寺の変」がどのような動機にしても、長年連れ添った妻ならいつも冷静な夫から謀反の話を聞いた段階で休養や隠居を勧めたことでしょう。

明智光秀の性格が反映された戦・合戦

本圀寺の変(vs三好三人衆)

出世のきっかけとなった戦

本圀寺の変は1569年1月に将軍・足利義昭が三好三人衆に襲撃された事件のことをいいます。明智光秀はこの戦で一騎当千の活躍をしたために織田信長に抜擢されました。

光秀は自軍の5倍ほども多かった敵兵を鉄砲で討ち取り、将軍・足利義昭の身の安全を確保しました。三好軍は退却しますが岐阜から駆けつけた足利・織田信長の軍と合戦となり、織田軍の勝利となります。

将軍を守りながら大軍に勝利した上に、勝利の決定打は足利・織田軍が下したように戦を運ぶという怖いほど鮮やかな手腕です。光秀の冷静で合理的な性格が反映された戦と言えるでしょう。

八上城攻略戦(vs波多野軍)

難攻不落の城を地道に攻略しました

八上城攻略戦は1576年1月15日の羽多野氏の謀反をきっかけに起こった戦です。高低差200mの天然の要塞・八上城はそれまでも三好長慶や松永久秀などにも攻められましたが攻略されることのなかった難攻不落の城でした。

光秀は兵糧攻めや人質交換などの策を巧みに使って3年近くかけて八上城を地道に攻略、またそのまま丹波全土を平定するという快挙を成し遂げました。しかしその間にも信長から一向一揆の鎮圧や松永久秀の討伐などを命じられて参戦し、無理が祟って体調を崩したり妻が病死したりするなど辛い戦いとなったようです。

執筆にあたって参考にした書籍・資料について

そのため冒頭でお伝えした通り、明智光秀は謎の多い人物なので、今回は次の3つを主に参考として記事を執筆しました。どれも読み物としてもとても面白い書籍・記事でしたので、皆様も是非お手にとってみて下さい。

明智光秀の性格に関するまとめ

冷静で有能、従順だったと推測される明智光秀は、組織の中で参謀として活躍できる人物だったのでしょう。そんな人物が日本史最大の番狂わせとも言える「本能寺の変」の首謀者であるということを思うと、やはり歴史って面白いな、と思います。

まだまだミステリアスな部分も多い明智光秀ですが、大河ドラマの主役に抜擢されるなど注目される機会も増えてきました。これからどのような考察・研究がされていくのか楽しみですね。

コメントを残す