妻子や家臣には優しかった?
戦場では黙々と任務をこなす光秀ですが、家臣や家族には思いやりに満ちた態度で接していたことが伝わっています。また領地では善政を敷いたため領民にも愛されていました。今でも京都府亀岡市や大阪府岸和田市などでは明智光秀を偲ぶ祭りなどが開催されています。
明智光秀の妻・煕子は長年連れ添った愛妻で、光秀は出世した後も側室を娶らず仲睦まじく過ごしていたと伝わっています。その煕子は天正3年(1575年)に過労で倒れた光秀の看病疲れから亡くなってしまいますが、一説には煕子が生きていたら本能寺の変もなかったのでは無いかといわれているほど妻の存在は光秀の心の支えだったようです。
本能寺の変が起こる前の光秀は過労死寸前なほど織田軍に酷使されていました。また長年織田信長に仕えていた佐久間信盛や林秀貞が織田軍を追放されるという事件が起こり、いつも冷静な光秀も加齢と疲労から「自分も用済みになったら追放されるのか」と疑心暗鬼になったことが謀反の原因とする説もあります。
確かに「本能寺の変」がどのような動機にしても、長年連れ添った妻ならいつも冷静な夫から謀反の話を聞いた段階で休養や隠居を勧めたことでしょう。
明智光秀の性格が反映された戦・合戦
本圀寺の変(vs三好三人衆)
本圀寺の変は1569年1月に将軍・足利義昭が三好三人衆に襲撃された事件のことをいいます。明智光秀はこの戦で一騎当千の活躍をしたために織田信長に抜擢されました。
光秀は自軍の5倍ほども多かった敵兵を鉄砲で討ち取り、将軍・足利義昭の身の安全を確保しました。三好軍は退却しますが岐阜から駆けつけた足利・織田信長の軍と合戦となり、織田軍の勝利となります。
将軍を守りながら大軍に勝利した上に、勝利の決定打は足利・織田軍が下したように戦を運ぶという怖いほど鮮やかな手腕です。光秀の冷静で合理的な性格が反映された戦と言えるでしょう。
八上城攻略戦(vs波多野軍)
八上城攻略戦は1576年1月15日の羽多野氏の謀反をきっかけに起こった戦です。高低差200mの天然の要塞・八上城はそれまでも三好長慶や松永久秀などにも攻められましたが攻略されることのなかった難攻不落の城でした。
光秀は兵糧攻めや人質交換などの策を巧みに使って3年近くかけて八上城を地道に攻略、またそのまま丹波全土を平定するという快挙を成し遂げました。しかしその間にも信長から一向一揆の鎮圧や松永久秀の討伐などを命じられて参戦し、無理が祟って体調を崩したり妻が病死したりするなど辛い戦いとなったようです。
執筆にあたって参考にした書籍・資料について
そのため冒頭でお伝えした通り、明智光秀は謎の多い人物なので、今回は次の3つを主に参考として記事を執筆しました。どれも読み物としてもとても面白い書籍・記事でしたので、皆様も是非お手にとってみて下さい。
明智光秀の性格に関するまとめ
冷静で有能、従順だったと推測される明智光秀は、組織の中で参謀として活躍できる人物だったのでしょう。そんな人物が日本史最大の番狂わせとも言える「本能寺の変」の首謀者であるということを思うと、やはり歴史って面白いな、と思います。
まだまだミステリアスな部分も多い明智光秀ですが、大河ドラマの主役に抜擢されるなど注目される機会も増えてきました。これからどのような考察・研究がされていくのか楽しみですね。
すごい。