天草四郎『フツメン説』
イケメン説の根拠は大別して上記の3つに集約されますが、「イケメン説」がある以上、やはり「イケメンではなかった説」も存在しています。
それでは次に、「イケメンではなかった説」の根拠となる部分を見ていきましょう。
実像についての資料が少ない
「イケメンではなかった説」を補強するのは、まず真っ先に「実像についての資料が少ない」ことでしょう。日本の歴史上でも有数の大規模反乱を指揮した人物でありながら、天草四郎という人物の記録は非常に少なく、とりわけその”外見”に関する記述は、遺された数少ない資料の中にはほとんど見受けられません。
例えば「天草四郎」としておそらく大多数の方がイメージする「マントを羽織った和洋折衷のキリシタン系若武者」というイメージも、実は戦国時代の天正遣欧少年使節や、伊達政宗の家臣であり、ヨーロッパとの外交を行った支倉常長(はせくら つねなが)のイメージを踏襲した、昭和初期に確立されたイメージ像という見方が実は一般的です。
もしも天草四郎が、本当に「絶世の美男子」だったなら、記録にほとんど外見的特徴の記述がないなどあり得るでしょうか?そう言った疑念がある以上、「天草四郎イケメンではなかった説」は、かなり信ぴょう性の高いものであるようにも思えます。
”あばた面”だったという資料が残る
天草四郎がイケメンではなかったという説には、残念ながら資料的な裏付けも残されてもいます。
その裏付けとなるのは、天草四郎が討ちとられた後の首実検の記録。当時の幕府軍には、天草四郎の外見的特徴の記録が存在しておらず、彼らは四郎を討ち取ったことを確認するために、原城で戦死した一揆衆の少年の首実検に、四郎の母を立ち会わせました。
首実検に際して多くの少年の首を見ても、顔色一つ変えなかった四郎の母ですが、ある一人の少年の首を見た時、彼女は泣き崩れました。その首と言うのが、「あばたの目立つ、十代半ばほどの少年の首」。四郎の母のこの反応を得て、幕府軍はその首を天草四郎の首だと断定したということです。
もちろん、あくまでも”幕府側”の記録である以上、それが本当に真実であるかどうかは定かではありません。しかし幕府がわざわざ、討ち取った天草四郎の外見を悪く書く必要もさほどないため、この記録は真実であると考えるのが無難だと言えるでしょう。
結論:天草四郎はイケメンではない説が濃厚
以上の「イケメン説」の根拠と「イケメンではない説」の根拠を照らし合わせると、筆者としては「イケメンではない説」の方が真実に近いような印象を受けました。
記録の捏造などが普通に行われた時代のため、「この説が正しい!」と一概に言える問題ではありませんが、やはり客観的な記録による記述が残っているのは非常に大きく、翻ってイケメン説は、どうにも「創作」という感じが拭えない印象を受けたためです。
とはいえ、やはり「天草四郎=絶世の美男子」と言う方が夢があるのも事実。ということで続いては、『何故「天草四郎=イケメン」というイメージがついたのか』を考えていきたいと思います。
何故『天草四郎=イケメン』のイメージがついたのか
史実の資料からすると「イケメンではなかった説」が濃厚に見える天草四郎ですが、実際の所多くの創作を見るに「美男子」として描かれがちというのは事実です。
pixivなどのイラスト投稿サイトで「天草四郎」の名前を検索するだけでも、その事は一目瞭然にお分かりいただけると思います。
ということで以降のこの記事では、「何故、天草四郎は『イケメン』として描かれがちなのか」を深掘りして幾つか考察していきたいと思います。
カリスマ性を増すための情報操作?
「集団を動かす」には、得てして実務以外の能力が求められることが多々あります。極端なことを言えば、「人望のない実務者」よりも「人望のある無能」の方が、効率的に集団を動かしているという事実だって、歴史からは多々読み取ることができるのです。
そういう観点から考えると、「天草四郎イケメン説」は、総大将である四郎に対する権威付けや、カリスマ性を増すための情報操作だと考えることも出来そうです。
四郎が起こしたとされる”奇跡”のエピソードなど、彼のカリスマ性を物語るエピソードのほとんどが、一揆衆側の遺した書物の記述によるものであることや、幕府軍が四郎の外見的な特徴を全く知らなかった(つまり、四郎の外見は報告書などに特筆されなかった=目立ったものではなかった?)事を考えると、「天草四郎イケメン説」は、そうした情報操作の一環だったと考えるのが妥当なように思えます。
「豊臣秀頼の子=天草四郎」説の影響?
「豊臣秀頼=天草四郎の実父」という風説は、現在ではトンデモ説の一つとなっていますが、非常に長く語り継がれた都市伝説です。そしてこの「秀頼=四郎の実父説」も、「天草四郎イケメン説」の引き金となっている可能性があります。
実は秀頼は、外見的特徴として「色白かつ長身の美男子」と記録されるほどの人物。更に「若くして周囲を従えるだけのカリスマ性を持っていた」という部分など、四郎との共通点の多い人物でもあります。
そして、そういった秀頼の特徴と、「イケメン説」における四郎の特徴が一致しているところから見るに、「天草四郎イケメン説」は「豊臣秀頼=天草四郎の実父説」から生まれた、言わば派生的な風説だった可能性も十分に考えられるでしょう。
後世の創作物の影響?
「島原の乱」という悲劇の舞台は、非常に創作の題材にされやすく、その戦いの中心人物であった天草四郎も、当然ながら物語のキーファクターの一つとして描かれることがほとんどです。
そして、とりわけ漫画やアニメ、ドラマなどでは、絵的な見栄えや人気を考慮して登場人物を「イケメン」に描くもの。つまり、「天草四郎イケメン説」は歴史に根差したものではなく、むしろそれらを題材にした創作物から派生した説であると考えても、多少の筋は通るのではないでしょうか?
天草四郎イケメン説に関するまとめ
以上「天草四郎イケメン説」について、考察をさせていただきました。
沖田総司や伊達政宗など、イケメンのイメージが根強い歴史上の人物の「本当の所」同様に、天草四郎のイケメン説もまた、割と生臭い情報戦や、いつのまにか付加された尾ひれの部分が大きかったようです。夢を壊された方がいらっしゃったら、申し訳ございません。
とはいえ、現実問題として記録が残っていない以上、「イケメン説」も「そうでない説」も、シュレディンガーの猫のように混在しているとも考えられます。
「○○説が絶対に正しい!」と言い張るのは間違いですが、それぞれの思い描く天草四郎像を抱き続けていれば、もしかすると遠くない未来に、それを証明する証拠が発見されたりするかもしれません。
それでは、この記事におつきあいくださいまして誠にありがとうございました。