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井伊直弼とはどんな人?生涯・年表まとめ【人物像や名言も紹介】

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井伊直弼(いい なおすけ)は、幕末で大老と呼ばれる将軍の補佐役を務めた人物です。朝廷の許可を得ずに断行した「違勅調印 ※1 」や、安政の大獄は独断で前進的な人柄を象徴する出来事ですよね。

独断で前進的な人柄だった井伊直弼

時代劇やドラマでは「悪役」として描かれるケースが多く、悪行ならぬやり方に焦点を当てられがちですが、「なぜ井伊直弼がそのように強硬な手段に出たのか?」や、「なぜ列強との条約調印に踏み切ったかのか?」などといった井伊直弼目線の描写が欠落しているようにも感じます。

近年では、井伊直弼の動機や意図に着目し歴史を紐解くことで、彼の評価が見直されています。そこで今回は、近年評価が見直されつつある井伊直弼の生涯について解説します。

これまでには垣間見えなかった井伊直弼の神髄を解剖していきましょう。

※1 違勅調印
「今まで鎖国していたけどアメリカと貿易をするよ〜」という、事実上の「鎖国撤廃の意思決定」をする調印を天皇の許可なく勝手にしてしまったこと

井伊直弼とはどんな人物か

名前井伊直弼
改名鉄之介→鉄三郎(幼名)→ 直弼
生地現在の滋賀県彦根市
誕生日
1815年11月29日
没日1860年3月24日(44歳)
近江彦根藩主
幕府江戸幕府大老
主君徳川家慶、家定、家茂
配偶者
昌子(松平信豪女)
千田静江(千田高品の養女、秋山正家の娘)
西村里和(西村本慶の娘)
子供
直憲、直咸、直安、直達、弥千代 (松平頼聰室)、
待子(青山幸宜室)

井伊直弼の生涯をハイライト

1815年、井伊直弼は現在の滋賀県彦根市で生まれました。彦根藩主の息子とは言え、母は側室で、十四番目の男子だったために跡継ぎになるとは誰も思っていませんでした。

しかし長い下積み生活の後、1846年に藩主となっていた兄・直亮の養子が亡くなったため、直弼が藩主となります。民のための政治を行った直弼は名君と呼ばれるようになり、徐々に幕府の政治にも関わるようになります。

井伊家の家紋・井伊橘(いいたちばな)、または彦根橘(ひこねたちばな)

1853年にはアメリカから黒船が訪れ、日本に開国を迫ります。開国に反対する強い声はありましたが、当時の日本の武力ではアメリカの要求をのむしかありませんでした。

平和的に日本が開国できるように、直弼は老中よりもさらに権限のある大老に抜擢されました。しかし直弼の意に反して、日米修好通商条約は天皇に許可なく締結されました。これ以上引き延ばせば、日本が攻撃されるという危機感からの締結でしたが、直弼へ非難が集中します。

同時期に将軍の跡継ぎを誰にするかという問題も起こり、直弼は反対派を抑える必要がありました。このため「安政の大獄」という粛清が行われ、8人が死罪となりました。そのうち4人が水戸藩士でしたが、結局直弼は水戸藩士により襲撃され命を落とします。

この襲撃が1860年の「桜田門外の変」で、直弼は46歳でした。

お坊ちゃんならぬ英才教育を受けて育った幼少期

井伊直弼は文化12年(西暦1815年)彦根城の別邸槻御殿にて井伊家十一代直中とその側室お富の方の間に生まれます。井伊直弼は幼名を鉄之介といい、直中の息子としては十四男、また富のもうけた子供の中でも三番目でした。

藩主の家に生まれたと聞くと体操お坊ちゃんだったんだろうと思われるかもしれませんが実は井伊直弼は14番目の子供でしかも庶子であることから世嗣となる可能性は非常に低かったようです。

井伊直弼は彦根の別邸「槻御殿」にて生まれ育った

父、直中の隠居中の子供ということもあり、幼少時は槻御殿で、また直中が死んだ天保2年(西暦1831年)には城下の御用屋敷へと引っ越します。

ある意味では普通藩主の子供が両親と長いあいだ過ごせるというのも珍しい時代でしたからそういう意味ではお坊ちゃんだったと言えるかもしれません。

また、直中が亡くなる少し前から弓術・銃槍・居合、また射的場においては銃術も習い始めます。他にも庶子が仏門に入ることも珍しくなかったことから禅にも傾倒を深め、和歌、国学、また茶の湯を習い、特に居合は31歳にして「新心新派」という新流派を開くほどまでに上達をします。

真面目で努力を惜しまない性分だった

真面目な直弼の性格を象徴する埋木舎

茶の湯や禅に詳しかった直弼は「知足」という言葉を大切にしていました。それは分不相応なことは求めず、常に自分ができることを賢明に行う性格の現れでした。

彼の性格は、自らの住まいを「埋木舎」と名付けていたことからもわかります。地中に埋もれた木には花が咲きません。直弼は跡継ぎではなく、長い間世に出ることがなかった自分を埋もれ木に例えました。

そんな立場でも直弼は自らを磨き、茶の湯や禅だけでなく、国学、兵学、居合術にも優れた才能を発揮します。

思わぬ運命で彦根藩主となった後は藩政を大切にし、まず自らの足元を盤石にしました。その後は大老として日本を守ろうとします。すべては直弼の堅実な性格の現れだったのです。

桜田門にて暗殺された井伊直弼

桜田門にて暗殺された井伊直弼

安政7年(1860年)3月3日午前9時頃。それは雪の積もる日でした。

井伊直弼は登城のため江戸の彦根藩邸から桜田門に向けて総勢64名を率いて桜田濠に沿って進みます。その日は3月のなごり雪というには珍しいほどの大雪で彦根藩士たちは雨合羽を着用し、刀には柄袋もつけていました。

しかしその行列はある異変によって突然歩みをとめます。その異変は最前列で起きていました。大名行列見物人の中から一人の浪士が訴状を差し出すふりをして突如先頭を歩いていた供頭の彦根藩士に斬りかかったのです。

この事態に、護衛をしていた彦根藩士たちの注意が前方の浪士――水戸浪士の森五六郎に向き、一瞬かごを無防備にしてしまいます。

その次の瞬間あたりに一発の銃声が鳴り響き、直弼は下半身に激痛が走るのを感じます。一方かごの外はこれを皮切りにあたりに潜伏していた水戸浪士たちが一斉に籠をめがけて襲い掛かります。

井伊直弼が暗殺された桜田門の現在の姿

もちろん井伊直弼はこれに抵抗しようとします。なにせ彼は流派を立ち上げるほどの居合いの達人です、が今回は勝手が違いました。

実は最初の銃声は井伊直弼の乗っていたかごに向けて発砲されたもので、その銃弾は太股から腰を貫通しており井伊直弼は激痛で立ち上がることすらできなかったのです。

一方外の彦根藩士たちは雨合羽という動きにくい出で立ち、さらに柄袋をかけた刀という迎撃に出にくい装備で、中には素手で敵の刀を掴んで応戦するものまで出る始末だったようです。

やがて守るものがいなくなったかごに水戸浪士たちの刀が突き立てられます。

井伊直弼にとどめをさした有村次左衛門

この時点でもう致命傷を負ったと思われる井伊直弼ですが、さらに襲撃者たちは虫の息となった井伊直弼をかごから引きずり下ろし、最後には襲撃者側で唯一薩摩藩士だった有村次左衛門が井伊直弼の首を落とします。

享年46、この登城中の大老が白昼堂々暗殺されるという事件は日本中に衝撃を与え、また幕府の混乱を象徴するような出来事として幕府の敵たちが台頭するきっかけとなっていきます。

井伊直弼の功績

功績1「藩金15万両を配布!亡兄の評判を気にかけた直弼」

兄の遺志を継ぎ15万両を配布した直弼

彦根藩主への就任直後、直弼は兄で前藩主だった直亮の遺志を継ぎ15万両という多額の藩金を民に分配しました。

藩金の分配で生活苦にあえいでいた民は大変喜びます。しかし直弼の父も藩主に就任してすぐに同じことをしているので、直弼は前例に習っただけと言うこともできます。

藩金の分配を兄の遺志としたのは、直弼が民からの評判が芳しくなかった兄の立場を思いやったからでした。同時に自らの治世が始まるアピールもしたわけですから、優しく堅実なだけでなく、効率の良い政治ができる人物だったと言えるでしょう。

功績2「藩士教育に熱を注ぎ士気を高めた直弼」

弘道館は希望の場だった

直弼は藩を治めるためには優秀な人材が必要だとわかっていました。そこで彼は良い意見を言い、熱心に務める藩士には出世ができる道を作ります。

また、優秀な人材を得るためには学校や家庭での教育が大切だと考え、藩校「弘道館」での教育にも熱心に取り組みました。自分の能力次第では道が拓けることが藩の若者たちには希望となり、意識も高まりました。

同時に直弼は藩内を9回も視察し、人々の暮らしぶりを知ろうとします。希望を与え、常に庶民に寄り添う直弼は彦根藩の人々に広く支持されるようになり、藩内の士気も高まったのです。

功績3「日本救済を目的に日米修好通商条約を締結 」

結果と評判が相反した日米修好通商条約

「日米修好通商条約」の締結は、日本を救う目的とは裏腹に直弼の悪評判を広めるものとなりました。日本が輸入品への関税を決める権利がなかったために不平等条約とも言われていましたが、当時の日本にはこれを拒んでも、アメリカと互角に戦う武力はありませんでした。

また、この条約にはヨーロッパの列強と日本に揉め事が起こったときは、アメリカが仲介すると明記されていて、条約を締結したから日本が無事でいられたとも考えられます。

条約締結後、直弼への風当たりは強く、反対派を抑えるために安政の大獄が行われます。これが直弼の命を奪う桜田門外の変へと繋がってしまったのは、運命の皮肉と言えるでしょう。

井伊直弼の名言

様々な名言を後世に残した井伊直弼

世の中を よそに見つつも 埋もれ木の 埋もれておらむ 心なき身は

直弼は世の中から外れている埋もれ木のような身ですが、心までは埋もれていませんよ、と言っているようです。

自分を埋もれ木に例えた直弼ですが、それでも自由があるのだと明言しています。そして多くの楽しみを見つけ、才能を開花させまました。

この「心なき身」というのは、俗世間の感情から解き放たれた僧などに使われる言葉です。直弼は出家したわけではありませんが、世間のしがらみからは自由であると考えたのでしょう。

足る事を知りて楽しむ快楽ならでは 実の楽しみにあらず

自分の状況はもう十分なのだ(つまり足りている)とわかって、心の安定を得ていないと、本当の楽しさは期待できないという意味に受け取れます。

「快楽(けらく)」は仏教用語で、煩悩から開放されて初めて味わえる楽しさのことです。現在使われている「快楽(かいらく)」とは意味合いがかなり違います。

確かに身の丈に合わない楽しみを求めても、自分の心や体に無理がかかってしまいます。直弼はそれでは本当に楽しめないよ、と言ってくれているわけです。とても納得できますね。

人は上なるも下なるも楽しむ心がなくては一日も世を渡ることはむずかしい

人はどんな身分であっても、楽しむ心がなくては1日だって生活することは難しい、と言っているわけですから、直弼は日々をいかに楽しむかに相当気を遣っていたようです。

自分で楽しむことを忘れてしまえば、藩主になる前の長い下積み生活で心が折れてしまったでしょう。また、大老となってからの厳しい職務も楽しむ気持ちがなければ、ただの義務となってしまったに違いありません。

それでは日本の国を海外の列強から救うことは難しかったでしょう。直弼の楽しむ心は自分自身だけでなく、日本も救ったのです。

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2 COMMENTS

レキシル編集部

> 匿名さま

大変失礼しました。修正致しました。
ご指摘ありがとうございます。

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