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大老「井伊直弼」とはどんな人?生涯・年表まとめ【人物像や名言についても紹介】

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井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の江戸幕府にて大老と呼ばれる将軍の補佐役をつとめた人物です。

時代劇やドラマなどでは、多くの場合「悪役」として描かれる傾向が多い人物です。その理由は、朝廷の許可を得ずにほぼ独断で下した「違勅調印 ※1 」や、列強に対する弱腰な態度、また安政の大獄に代表されるように独裁的でワンマンなやり方などでしょう。結果、それらの反動を受けて暗殺されたのがかの有名な「桜田門外の変」です。

井伊直安「井伊直弼画像」

悪役と描かれていることは事実ではありますが、彼が行ったことが本当に悪いことなのかは、見方によっては変わる部分もあります。そのようなドラマの多くは「なぜ井伊直弼がそのように強硬な手段に出たのか?」や、「なぜ列強との条約調印に踏み切ったかのか?」などの直弼目線の描写が欠落しているようにも感じます。

今回はそのようにアメリカとの関係において近年評価が見直されつつある井伊直弼の人生を見ていきたいと思います。

※1 違勅調印
「今まで鎖国していたけどアメリカと貿易をするよ〜」という、事実上の「鎖国撤廃の意思決定」をする調印を天皇の許可なく勝手にしてしまったこと

井伊直弼とはどんな人?

井伊直弼の生い立ち

彦根城天守

井伊直弼は文化12年(西暦1815年)彦根城の別邸槻御殿にて井伊家十一代直中とその側室お富の方の間に生まれます。井伊直弼は幼名を鉄之介といい、直中の息子としては十四男、また富のもうけた子供の中でも三番目でした。

藩主の家に生まれたと聞くと体操お坊ちゃんだったんだろうと思われるかもしれませんが実は井伊直弼は14番目の子供でしかも庶子であることから世嗣となる可能性は非常に低かったようです。

父、直中の隠居中の子供ということもあり、幼少時は槻御殿で、また直中が死んだ天保2年(西暦1831年)には城下の御用屋敷へと引っ越します。

ある意味では普通藩主の子供が両親と長いあいだ過ごせるというのも珍しい時代でしたからそういう意味ではお坊ちゃんだったと言えるかもしれません。

また、直中が亡くなる少し前から弓術・銃槍・居合、また射的場においては銃術も習い始めます。他にも庶子が仏門に入ることも珍しくなかったことから禅にも傾倒を深め、和歌、国学、また茶の湯を習い、特に居合は31歳にして「新心新派」という新流派を開くほどまでに上達をします。

井伊直弼の名言

足る事を知りて楽しむ快楽ならでは 実の楽しみにあらず

世の中を よそに見つつも 埋もれ木の 埋もれておらむ 心なき身は

茶の湯の交会は、一期一会といひて、例えば幾度同じ主客交会するとも、今日の会に再びかえらざることを思えば、実に我が一世一度の会なり

井伊直弼の死因

井伊直弼の墓

安政7年(1860年)3月3日午前9時頃。それは雪の積もる日でした。

井伊直弼は登城のため江戸の彦根藩邸から桜田門に向けて総勢64名を率いて桜田濠に沿って進みます。その日は3月のなごり雪というには珍しいほどの大雪で彦根藩士たちは雨合羽を着用し、刀には柄袋もつけていました。

現在の桜田門

しかしその行列はある異変によって突然歩みをとめます。その異変は最前列で起きていました。大名行列見物人の中から一人の浪士が訴状を差し出すふりをして突如先頭を歩いていた供頭の彦根藩士に斬りかかったのです。

この事態に、護衛をしていた彦根藩士たちの注意が前方の浪士――水戸浪士の森五六郎に向き、一瞬かごを無防備にしてしまいます。

その次の瞬間あたりに一発の銃声が鳴り響き、直弼は下半身に激痛が走るのを感じます。一方かごの外はこれを皮切りにあたりに潜伏していた水戸浪士たちが一斉に籠をめがけて襲い掛かります。

もちろん井伊直弼はこれに抵抗しようとします。なにせ彼は流派を立ち上げるほどの居合いの達人です、が今回は勝手が違いました。

実は最初の銃声は井伊直弼の乗っていたかごに向けて発砲されたもので、その銃弾は太股から腰を貫通しており井伊直弼は激痛で立ち上がることすらできなかったのです。一方外の彦根藩士たちは雨合羽という動きにくい出で立ち、さらに柄袋をかけた刀という迎撃に出にくい装備で、中には素手で敵の刀を掴んで応戦するものまで出る始末だったようです。

やがて守るものがいなくなったかごに水戸浪士たちの刀が突き立てられます。

井伊直弼にとどめをさした有村次左衛門

この時点でもう致命傷を負ったと思われる井伊直弼ですが、さらに襲撃者たちは虫の息となった井伊直弼をかごから引きずり下ろし、最後には襲撃者側で唯一薩摩藩士だった有村次左衛門が井伊直弼の首を落とします。

享年46、この登城中の大老が白昼堂々暗殺されるという事件は日本中に衝撃を与え、また幕府の混乱を象徴するような出来事として幕府の敵たちが台頭するきっかけとなっていきます。

井伊直弼の年表

1815年
井伊直弼誕生
井伊直弼は第十一代彦根藩主の井伊直中の14男として生まれます。14番目の子供で側室の子供であるということもあり、生まれてから31年という非常に長い期間を彦根藩の屋敷の中で過ごします。

本人が埋木舎と呼ぶこの時期を井伊直弼は様々な学問を修める時期と位置づけ、武芸学問両方に打ち込んでいきます。これは後の井伊直弼の政治へと生きていきます

1842 年
アヘン戦争終結、南京条約締結

清国はイギリスに敗北、南京条約という不平等な条約を結ばされます。お隣清国を先進国と見ていた日本にとってこの出来事は非常に大きな衝撃を与えるものでした。

1846年
世嗣に選ばれる

この年に突然元の世嗣の急死により世嗣に選ばれた井伊直弼は彦根藩主として江戸で暮らすようになります。この間も政治に積極的に参加し、人脈を築いていきます。

1850年
彦根藩主に就任

第十二代藩主井伊直亮がなくなったことにより予定通り彦根藩主へと就任。優秀な人材の発掘や藩校の改革を始め、より優秀な人材を集めやすくします

1853年
ペリー来航
ペリー率いる黒船の艦隊が浦賀に来航します。この時は幕府は回答を保留します。この年プチャーチンも長崎に来航します。

老中の阿部正弘はこれにどう対応するべきかを広く意見を求めます。

1854年
日米和親条約
二度目のペリー来航に対し幕府はアメリカの条件をのみ、日米和親条約が締結されます。
1855年
阿部正弘、老中首座を堀田正睦に譲る
徳川斉昭の反対を視野に入れて阿部正弘は井伊直弼の推挙により開国派の堀田正睦を老中首座に据えます。また、開明的な視野を持ってると見た島津斉彬や松平慶永といった人たちを幕政に加え、徳川斉昭を懐柔しようとします
1856年
アロー号事件をきっかけにアロー戦争が勃発
清国とイギリス都の間で起きた戦争をきっかけにアメリカは更に幕府にプレッシャーをかけてきます。幕府もアヘン戦争に引き続き起きたこの戦争に対し一刻も早く日本も近代化する必要性を感じていきます。
1857年
阿部正弘死去

調整役の阿部正弘が死に、これに伴い徳川斉昭が幕政から去りさらに、開国派と攘夷派の対立が将軍の後継者問題などで激化します。またアメリカ領事のハリスはさらに強く通商を求めてくるようになります。

1858年
井伊直弼大老就任、日米修好通商条約締結
朝廷からの通商の許可を求めた堀田正睦が失敗に終わった受け、井伊直弼が大老に就任。朝廷の許可は得られていませんでしたが日米修好通商条約を結びます。

これに諸藩は動揺を隠せず、徳川斉昭や松平慶永は抗議。さらに島津斉彬は兵を率いて京に上りさらに孝明天皇は井伊直弼を非難する密勅を出す事件なども起きる騒ぎとなりました。

井伊直弼はこれに関連して、一橋派として貴族に接触した人物を処罰するいわゆる安政の大獄にまで発展します。処罰された人物の中には一橋派の人物だけでなく井伊直弼の開国政策を非難していた吉田松陰も含まれていました。

1860年
桜田門外の変
登城途中、水戸浪士を中心とした武装グループに襲われ、抵抗しようとするも下半身を撃ち抜かれてしまったために反撃できずに首を取られます。享年は46でした。

井伊直弼の具体年表

1815年 – 0歳「彦根藩主の家に生まれる」

彦根城にある井伊直弼像

井伊直弼は文化12年(西暦1815年)彦根城の別邸槻御殿にて井伊家十一代直中とその側室お富の方の間に生まれます。

同年に生まれた人物は後にプロイセンの宰相、ドイツ皇帝となるビスマルクや、また皮肉なことに後に安政の大獄の際敵対する梅田雲浜なども同年の生まれになります。

ビスマルクと同じ世代

井伊直弼は幼名を鉄之介といい、直中の息子としては十四男、また富の儲けた子供の中でも三番目でした。

当然14番目の子供でしかも庶子であることから世継ぎとなる可能性は非常に低かったものの、父、直中の隠居中の子供ということもあり、幼少時は槻御殿で、また直中が死んだ天保2年(西暦1831年)には城下の御用屋敷へと引っ越します。

また、直中が亡くなる少し前から弓術・銃槍・居合、また射的場においては銃術も習い始めます。他にも庶子が仏門に入ることも珍しくなかったことから禅にも傾倒を深め、和歌、国学、また茶の湯を習い、特に居合は31歳の折に「新心新派」という新流派を開くほどまでに上達をします。

茶の湯の思想が影響を与える

また、茶の湯や禅の考え方も後に彼の思想に大きな影響を与えます。
その一つが「知足」と呼ばれる禅の考え方です。「知足」、つまり「足りることを知り、自分の分をわきまえる」ということですが直弼はこの考えをさらに発展させそれゆえに身分の低いものと高いものにはそれぞれの分があり、身分の高いものがむやみに侘びを追求したり身分の低いものが不相応な高価な道具や豪勢な料理で人をもてなすことは茶の湯の本質ではないと後に説いています。

また、直弼は「茶論書」において「喫茶の法は(中略)政道などに預かるべきの器にあらず」と前置きをしつつ、この喫茶の法が国中に正しく行われれば天下はただちに安寧を取り戻すだろうとして、この茶道の考え方が彼の政治についての考え方にも大きな影響を及ぼしたことをうかがい知れます。

少し脱線しましたが、とにかくこのようにして直弼は17歳から32歳になるまでの実に長い期間を御用屋敷にて教養を深めながら過ごします。

直弼はこの期間過ごした屋敷のひとつを自虐して「埋木舎」とも呼んでいます。おそらく自分自身をこのまま一生花を咲かせることもない埋もれた木のように消えていく存在だと感じていたのだと思います。

1846年 – 32歳「世嗣に選ばれる」

世嗣としての江戸出府

江戸出府を命じられる

転機が訪れるのは弘化3年(西暦1846年)、直弼が32歳になった時に当時の藩主であった十二代藩主直亮の世嗣であり、直弼の兄でもあった直元が急死したことでした。

代わりの世嗣として誰が良いかという話になった際国許に残っていた井伊直弼に白羽の矢が立ったことで江戸出府を命じられた事でした。

ついこの間まで埋木として一生を終えるかと思っていた自分が突然世嗣に選ばれるという降って沸いたかのような事態にさすがの直弼も親友摂専への書状において、

「実にもって存じ寄らざる儀にて、小子身に余り有りがたき仕合せに存じ奉り候えども、何分愚昧者の儀、大心配仕り居り候」

と思いもよらなかった境遇の変化に驚きを隠せませんでした。このように困惑をしつつも直弼は世嗣、つまり時期藩主となる身として活動を始めます。

例えば、将来藩主となるに際しますます読書などを通じて先人に学んだり、また、藩内の頼れる人物を訪ねて意見を求めるなどして人脈を築いていきます。また、現藩主である井伊直亮の政策にも積極的に意見をしていきます。

父であり藩主だった井伊直亮

当時彦根藩は京都守護職を幕府より仰せつかっていましたが、それに加え度々現れる外国船の警護強化の一環で相州警護の任をも命じられました。

井伊直弼はこれに反対します。直弼が言うには当時の彦根藩はすでに京都守護を果たしていることからこれに加え相州警護を行うのは「家格相違之儀」だとして反対するのです。

これもある意味で前述の茶の湯や禅で直弼が学んだ価値観「知足」に通じるもので、自分の分、今回で言うと京都守護という仕事に集中するための意見でした。

結果的に意見は容れられず、相州護衛は行われることとなりますが、井伊直弼が当時から藩政に強い意欲を示していたことをうかがい知れます。

1850年 – 34歳「彦根藩主就任」

彦根藩主として

嘉永3年(西暦1850年)に井伊直亮が亡くなると当初の予定通り井伊直弼は彦根藩主へと就任します。

まず直亮の遺志であるとして一説によると十五万両という大金を領民に分配。度重なる倹約令にあえいでいた領民たちを喜ばせます。
さらに新たな人材の登用の一環として長野主膳や宇津木景福といった優秀な人材を積極的に登用します。

ほかにも弘道館と呼ばれる藩校の教育方針を改革にも着手、師範の世襲制をやめ、より優秀なものへ師範を譲るよう命じたり、またこのように改革に着手して藩主や家老自らが積極的に学問に意欲を示す姿勢を見せることによって藩士たちの好学の雰囲気を高めて、さらなる在野の人材登用にも尽力します。

黒船来航

ペリーの来航

ペリー率いる黒船の艦隊が浦賀に来航したのはそれから3年後、嘉永6年(西暦1853年)のことでした。

地球を半周以上もして日本にやってきたペリーの要件は日本との永世不朽の和親、下田と函館の開港、また食料、石炭、薪水などの供給や領事の駐留の許可などなどでした。

この艦隊の来航は日本を大きく揺るがすこととなり、また彦根藩においてもアメリカに対する対応をどうするかで意見が割れます。中川禄郎など、アメリカを追い払うことは不可能であるとしてひとまずは国交を行って外国の大砲や船の技術を知ることが重要という人も少数ながらいましたが、おおむねこの要求を拒絶するべきだという意見でした。

船団の突然の来航は日本に衝撃を与えた

井伊直弼自身も最初こそ拒絶するべきだと考えていましたが、同年の7月18日にロシアのプチャーチン艦隊までもが来航したことで意見を改め、中川の言うとおり一時開国するべきだという意見に転じ、意見書を提出します。

ちなみにこの件に関して意見書を提出した各大名31家の内、この通商に肯定的な意見を示したのは佐倉藩、福岡藩、そして彦根藩の3つだけだったようです。

翌年に日米和親条約が締結され、さらにその翌年には老中首座の阿部正弘が堀田正睦に老中の首座を譲ります。この堀田正睦こそ前述の通商に肯定的な意見を示した佐倉藩の藩主であり、この就任には井伊直弼の推挙もありました。

日本開国100年記念切手の中心に描かれた井伊直弼

このように、老中たちの意見は開国で固まりつつありました。というのも、現にこれより10年以上前の1840年、開国を拒んでイギリスと戦争となった隣の清国は今やイギリスの支配下のような状態にあり阿部正弘や井伊直弼は日本を清国の二の舞としてはならないという強く考えていました。

その意識はちょうどこの時期の安政3年(1856年)にアロー号事件と呼ばれる、イギリスが清国に対して、イギリス人の船長を不当に逮捕したとして謝罪と賠償金を要求するという事件が起こるとさらに強まりました。

しかしそれは簡単なことではなく、多くの懸念要素がありました。
中でも大きな懸念要素が水戸藩の藩主、徳川斉昭の存在です。徳川斉昭は徳川御三家のひとつ、水戸の元藩主でありながら攘夷派の権威のような人物で開国派の阿部正弘や井伊直弼らにとって乗り越えるべき非常に大きな障壁でした。

徳川斉昭

阿部正弘は当初、徳川斉昭に海防参与を与えてある程度幕政にも参加させることによって飼いならす作戦に出ます。阿部は斉昭を「獅子のような方」と評し、「獅子は古来毬(まり)にじゃれて遊ぶもの」と揶揄していました。

その一方で越前の松平春嶽や、薩摩の島津斉彬などの開明的な見方を持つ大名を外様も関係なく幕政に参加させます。こうすることによって斉昭の発言力を抑えつつ議論の方向性を有利に展開しようとしたのです。しかしこの作戦は安政4年(1557年)に阿部正弘が死去したことで頓挫します。

さらに調整役の阿部正弘がいなくなったことに伴って本来開国派と攘夷派して対立していた井伊直弼らと徳川斉昭の対立が再燃し、対外路線や将軍の世嗣を紀伊の徳川慶福か水戸の徳川慶喜にするかをめぐってぶつかります。この対立により徳川斉昭は海防参与を辞任。幕政は堀田正睦が仕切ることになります。

その頃アメリカの駐日領事ハリスは日本との通商をさらに強く求めます。特に前述のアロー号事件などの出来事を例をとって、ことさらに英仏の脅威から身を守るために一刻も早くアメリカと通商を初めて軍備を整えるのが有益かを説き、10月21日には将軍徳川家定の前で演説をすることさえします。

タウンゼント・ハリス駐日領事

この対応を一身に担っていたのが下田奉行の井上清直と岩瀬忠震でした。協議を重ねていきおおむねアメリカの出す合意できる条件に達したと感じた二人でした。しかしその一方でアメリカと通商を始めることでこれまで200年以上続けてきた鎖国体制に終止符を打つという大変化に国が混乱しないかという心配もありました。

老中たちは協議した結果、普段は基本事後報告であった天皇への対応に対し、今回はまず孝明天皇の許可を先に得ることとします。
このように武家と公家が意見を一致させることによりより磐石な挙国一致を成し遂げようと考えたからです。

しかしこれが難航します。安政5年(1858年)2月9日堀田正睦は自ら京都に向かい天皇に対し勅許を得ようとしますが3月20日に孝明天皇は自ら堀田正睦と対面し、左大臣近衛忠煕を通じて自らの意見を伝えます。

その内容は「鎖国の良法を変革すれば人身の行き着くところに関わる、公家の群臣も国体に関係することだからのちのちのことなどを心配している。だから再度三家、諸大名で衆議して、もう一度言上するように」という内容でした。

1858年 – 42歳「大老に就任」

大老井伊直弼

大老就任時に記した宣詩の控え

おそらくこの孝明天皇の意見には周りの公家たちの意見が大きく関わっていたものだと考えられます。異人嫌いな公家に囲まれていたために孝明天皇自身も異人嫌いとなっていたのです。

それと当時の公家たちの認識不足というのも無視はできません。

あるとき公家衆の説得の一環で岩瀬忠震が公家衆に会った時の話ですが、開国のメリットを熱心に話す岩瀬に対し公家の反応は

「ところで、キリシタンバテレンゆう国はどこにありますのえ?」

という反応で、当時の幕府以上の認識不足が公家や朝廷にはあったということが示唆されています。

岩瀬忠震

とにもかくにも、せっかく京都に登った堀田正睦ですが残念ながらむなしでで江戸に戻ることになりました。

もはや阿部正弘のように水戸の顔色を伺ったり、堀田正睦のようにいつ賛成を得られるかもわからない天皇の勅許を得るのを待っている暇はない。

そのように考えた幕府は老中首座よりもさらに大きな権限を持つ大老という職を選出することを決定し、さらにその座に井伊直弼を選出します。そうです、発言力のある徳川斉昭などにも負けないリーダーとして選出されたのが彼だったのです。

大老というのは緊急時に臨時に置かれる将軍の補佐役とも言える職で、非常に大きな権限を持つ役職でした。共和制ローマの「独裁官(ディクタトール)」とちょっと似ている役職です。

横浜に設置された井伊直弼像

大老に就任した井伊直弼はまず天皇の勅許を得るまでに時間を稼ぐため堀田正睦をしてハリスと交渉させて通商条約の調印を延期します。

しかしその一方で井上直清と岩瀬忠震に、「もし調印せざるを得ない状況だと二人現場の判断で感じるのであれば調印をしても良い。もしそうなったときは自分が全ての責任を負う」とも言います。

ここでいう「調印せざるを得ない状況」というのはもちろん、いらだったアメリカが清国に対するイギリスのように攻め寄せてきそうな状況であると感じたならということです。

日米修好通商条約

日米修好通商条約

しかし引き伸ばしも限界が訪れた6月19日。ついにアメリカの軍艦ポーハタン号艦上にて井上直清、岩瀬忠震とハリスは日米修好通商条約を結びます。

そして大方の予想通り、轟々たる非難の嵐が井伊直弼に降りかかります。もちろん天皇の許可を得ずに通商条約を結んだのがその原因です。

井伊直弼もこれは覚悟の上でした。公用方秘録によると井伊直弼はこの時「勅許を待たざる重罪は甘んじて我ら一人に受候決意」と述べているように責任を自分ひとりでとることを決めていたようです。

そして、日米修好通商条約が結ばれてからわずか5日後に最初の訪問者がやってきます。

まず6月24日、徳川斉昭とその息子で水戸藩主の徳川慶篤、そして尾張藩主の徳川慶恕が突如登城して井伊直弼に面会を求めます。

面会の中で三人は今回の一件は違勅にあたる重罪であるのだから今すぐに大老を辞任し、大老職を松平春嶽に譲るようにと要求します。

徳川慶恕

しかし翌日の25日、井伊直弼は次期将軍が徳川慶福(家茂)に決定したことを公表。また7月5日には徳川斉昭に謹慎、また徳川慶恕にも謹慎・隠居を命じます。また大老職を譲るようにと斉昭が名前を出し、同じく無許可で登城した松平春嶽もこれに関与したとして謹慎・隠居を命じます。

無許可の登城ならびに大老への批判への罰としては確かに重い罰でした。孝明天皇もこれに激怒します。6月27日、幕府はアメリカとの通商条約に調印したことを文書にまとめ朝廷に届けます。

開国前の最後の天皇となった孝明天皇

朝廷は普段であれば追認するのが慣例でありますが、孝明天皇はこれに激怒し譲位するとまで口にする事態となりましたが関白らになだめられます。

しかし孝明天皇はやはり納得ができなかったようで8月8日に井伊直弼個人を糾弾する勅書を京都に滞在していた水戸藩士に下し、さらにこれを諸藩にも伝達するように命じました。

しかしこれは紛れもなく幕府が禁じている「密勅」にあたる政治的行為です。これまで基本幕府とは協調路線の孝明天皇ではありましたが、この商条約だけはそれほどまでに受け入れられない行為だったようです。

安政の大獄

粛清を強行

この事態を重くみた井伊直弼は安政の大獄と呼ばれることになる粛清を強行します。この事件で死罪となったのは8人でそのほとんどが前述の将軍の後継者問題にて水戸藩の徳川慶喜を支援した人々でした。

例えば水戸藩家老の安島帯刀(切腹)、茅根伊代之助(斬首)ら水戸藩士4人が死罪となります。また水戸派を支援して朝廷と接触した人物も罪に問われました。例えば三条家や鷹司家と繰り返し接触していた越前藩士の橋本左内(斬首)や、また追っ手を逃れて西郷隆盛が月照とともに心中未遂をして奄美大島に流された話などもよく知られていると思います。

さらに開国した幕府を非難する攘夷派の人物も厳しく処罰します。長州藩士の吉田松陰がそうです。大名であっても徳川慶喜を支援した人物は処罰されました。前述の松平春嶽の謹慎はおそらくこれが原因と思われ、またこの時すでに亡くなっていた島津斉彬もおそらく生きていれば処罰を免れなかったであろうと言われています。

強い幕府を取り戻すため反発を恐れずに処罰を断行し、またこの壮大な開国事業を速やかに成し遂げんとする井伊直弼でしたが、彼自身の予想通り、いや、もしかしたら彼の予想以上に反発は高まっていました。

1860年 – 46歳「桜田門外の変」

桜田門外の変

1860年3月3日午前9時頃、その日もいつものように登城しようとしていた井伊直弼の行列を付近に潜伏していた水戸浪士の一団が襲います。

この水戸浪士集団が持っていた拳銃が通常手に入らないものであることから一説にはこの事件の黒幕は徳川斉昭だとも言われています。

この事件が終わり井伊直弼亡き後日本は井伊直弼がなんとしても避けようとしていた攘夷戦争、そして倒幕運動へと動いていきます。享年は46。

最後に、暗殺者が自分を狙っているという動きを察知していたと言われる井伊直弼が桜田門外にて襲われる直前に詠んだ歌を紹介しておきたいと思います。

春浅みの中の清水氷いて 底の心を汲む人ぞなき (春の浅い氷の張った清水の底にあるような私の心を理解してくれる人はいないであろう)

まとめ

さて、こうして見るといかがでしょうか。冒頭で井伊直弼という人物は悪役として描かれることが多いと述べました。

その原因は朝廷の許可を得ずにほぼ独断で下した違勅調印や、列強に対する弱腰な態度、また安政の大獄に代表されるように独裁的でワンマンなやり方だとも述べました。

こうして書いていくとこれらも全くその通りではあるのですがそれと同時にそれらのイメージは彼のほんの一面しか描けていないとも思います。

列強に対する態度は、日本が清国のように列強に食物にされないため、天皇に許可を取らなかったのは一刻も早く近代化する重要性を知っていたから、またそれに続く安政の大獄なども自分の信念が正しいという強い自信を持っていたからこその処置だと思いますし、だからこそ大老という責任の重い仕事をこなしていくことができ、また井伊直弼にはその覚悟ができていたこともうかがい知れます。

果たして彼を非難できるような人間などいるのでしょうか。井伊直弼が死んだ後、抑えのなくなった日本は攘夷戦争へと向かっていきます。1863年には下関戦争、そして薩英戦争などが起きて日本はようやく海外列強の力を思い知ることになります。

もし海外列強との力の差を認識していた井伊直弼が生きていればそのように一戦を交える手間もなく日本を近代化へと導いたことだと思います。

これから近代日本を作っていこうという時に凶刃に倒れた大老井伊直弼、彼は果たしてどんな日本を作ろうとしていたのでしょうか、彼が目指していたものとはなんだったのでしょうか、今の日本は彼の目指していた日本となっているのでしょうか。

歴史家よりももしかすると一服のお茶の方が知っているかもしれない事実を考えつつ日本の外交ニュースなどを見ながら、井伊直弼だったらどんな抜本的解決策を提示してくれるんだろうか、と考えてしまいます。

参考にさせていただいた文献

  • 井伊直弼 wikipedia
  • 『井伊直弼』母利美和著
  • 『官賊と幕臣たち~列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート~』 原田伊織著
  • 『幕末史』佐々木克著

2 COMMENTS

アバター 匿名

いや、有馬新七じゃなくて、、有村次左衛門ね、、常識です

レキシル編集部 レキシル編集部

> 匿名さま

大変失礼しました。修正致しました。
ご指摘ありがとうございます。

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