井伊直弼とはどんな人?生涯・年表まとめ【人物像や名言も紹介】

1858年 – 42歳「大老に就任」

大老井伊直弼

大老就任時に記した宣詩の控え

おそらくこの孝明天皇の意見には周りの公家たちの意見が大きく関わっていたものだと考えられます。異人嫌いな公家に囲まれていたために孝明天皇自身も異人嫌いとなっていたのです。

それと当時の公家たちの認識不足というのも無視はできません。

あるとき公家衆の説得の一環で岩瀬忠震が公家衆に会った時の話ですが、開国のメリットを熱心に話す岩瀬に対し公家の反応は

「ところで、キリシタンバテレンゆう国はどこにありますのえ?」

という反応で、当時の幕府以上の認識不足が公家や朝廷にはあったということが示唆されています。

開国を民衆へ熱心に訴えていた岩瀬忠震

とにもかくにも、せっかく京都に登った堀田正睦ですが残念ながらむなしでで江戸に戻ることになりました。

もはや阿部正弘のように水戸の顔色を伺ったり、堀田正睦のようにいつ賛成を得られるかもわからない天皇の勅許を得るのを待っている暇はない。

そのように考えた幕府は老中首座よりもさらに大きな権限を持つ大老という職を選出することを決定し、さらにその座に井伊直弼を選出します。そうです、発言力のある徳川斉昭などにも負けないリーダーとして選出されたのが彼だったのです。

大老というのは緊急時に臨時に置かれる将軍の補佐役とも言える職で、非常に大きな権限を持つ役職でした。共和制ローマの「独裁官(ディクタトール)」とちょっと似ている役職です。

横浜に設置された井伊直弼像

大老に就任した井伊直弼はまず天皇の勅許を得るまでに時間を稼ぐため堀田正睦にハリスと交渉させて通商条約の調印を延期します。

しかしその一方で井上直清と岩瀬忠震に、「もし調印せざるを得ない状況だと二人現場の判断で感じるのであれば調印をしても良い。もしそうなったときは自分が全ての責任を負う」とも言います。

ここでいう「調印せざるを得ない状況」というのはもちろん、いらだったアメリカが清国に対するイギリスのように攻め寄せてきそうな状況であると感じたならということです。

日米修好通商条約

日本救済を目的に締結された日米修好通商条約

しかし引き伸ばしも限界が訪れた6月19日。ついにアメリカの軍艦ポーハタン号艦上にて井上直清、岩瀬忠震とハリスは日米修好通商条約を結びます。

そして大方の予想通り、轟々たる非難の嵐が井伊直弼に降りかかります。もちろん天皇の許可を得ずに通商条約を結んだのがその原因です。

井伊直弼もこれは覚悟の上でした。公用方秘録によると井伊直弼はこの時「勅許を待たざる重罪は甘んじて我ら一人に受候決意」と述べているように責任を自分ひとりでとることを決めていたようです。

そして、日米修好通商条約が結ばれてからわずか5日後に最初の訪問者がやってきます。

まず6月24日、徳川斉昭とその息子で水戸藩主の徳川慶篤、そして尾張藩主の徳川慶恕が突如登城して井伊直弼に面会を求めます。

面会の中で三人は今回の一件は違勅にあたる重罪であるのだから今すぐに大老を辞任し、大老職を松平春嶽に譲るようにと要求します。

直弼への異議により謹慎・隠居を命じられた徳川慶恕

しかし翌日の25日、井伊直弼は次期将軍が徳川慶福(家茂)に決定したことを公表。また7月5日には徳川斉昭に謹慎、また徳川慶恕にも謹慎・隠居を命じます。

また大老職を譲るようにと斉昭が名前を出し、同じく無許可で登城した松平春嶽もこれに関与したとして謹慎・隠居を命じます。

無許可の登城ならびに大老への批判への罰としては確かに重い罰でした。孝明天皇もこれに激怒します。6月27日、幕府はアメリカとの通商条約に調印したことを文書にまとめ朝廷に届けます。

開国前の最後の天皇となった孝明天皇

朝廷は普段であれば追認するのが慣例でありますが、孝明天皇はこれに激怒し譲位するとまで口にする事態となりましたが関白らになだめられます。

しかし孝明天皇はやはり納得ができなかったようで8月8日に井伊直弼個人を糾弾する勅書を京都に滞在していた水戸藩士に下し、さらにこれを諸藩にも伝達するように命じました。

しかしこれは紛れもなく幕府が禁じている「密勅」にあたる政治的行為です。これまで基本幕府とは協調路線の孝明天皇ではありましたが、この商条約だけはそれほどまでに受け入れられない行為だったようです。

安政の大獄

禁止行為には徹底的に粛清を強行した直弼

この事態を重くみた井伊直弼はのち安政の大獄と呼ばれる粛清を強行します。この事件で死罪となったのは8人でそのほとんどが前述の将軍の後継者問題にて水戸藩の徳川慶喜を支援した人々でした。

例えば水戸藩家老の安島帯刀(切腹)、茅根伊代之助(斬首)ら水戸藩士4人が死罪となります。また水戸派を支援して朝廷と接触した人物も罪に問われました。

他にも三条家や鷹司家と繰り返し接触していた越前藩士の橋本左内(斬首)や、また追っ手を逃れて西郷隆盛が月照とともに心中未遂をして奄美大島に流された話などもよく知られていると思います。

さらに開国した幕府を非難する攘夷派の人物も厳しく処罰します。長州藩士の吉田松陰がそうです。大名であっても徳川慶喜を支援した人物は処罰されました。

前述の松平春嶽の謹慎はおそらくこれが原因と思われ、またこの時すでに亡くなっていた島津斉彬もおそらく生きていれば処罰を免れなかったであろうと言われています。

強い幕府を取り戻すため反発を恐れずに処罰を断行し、またこの壮大な開国事業を速やかに成し遂げんとする井伊直弼でしたが、彼自身の予想通り、いや、もしかしたら彼の予想以上に反発は高まっていました。

1860年 – 46歳「桜田門外の変」

直弼は桜田門外にて水戸浪士の襲撃に遭う

1860年3月3日午前9時頃、その日もいつものように登城しようとしていた井伊直弼の行列を付近に潜伏していた水戸浪士の一団が襲います。

この水戸浪士集団が持っていた拳銃が通常手に入らないものであることから一説にはこの事件の黒幕は徳川斉昭だとも言われています。

この事件が終わり井伊直弼亡き後日本は井伊直弼がなんとしても避けようとしていた攘夷戦争、そして倒幕運動へと動いていきます。享年は46。

最後に、暗殺者が自分を狙っているという動きを察知していたと言われる井伊直弼が桜田門外にて襲われる直前に詠んだ歌を紹介しておきたいと思います。

春浅みの中の清水氷いて 底の心を汲む人ぞなき (春の浅い氷の張った清水の底にあるような私の心を理解してくれる人はいないであろう)

関連作品

おすすめ書籍・本・マンガ

花の生涯<上>(祥伝社文庫)


直弼の長い下積みの生活から始まる小説です。この小説はドラマ化もされているため、年配の方にはおなじみのはずです。

若いころの交友関係なども描かれているため、時代劇などでおなじみの直弼とは違った姿を見ることができます。

政治家だけではない、人間としての直弼にきっと親しみが湧くはずです。そしてたとえ報われなくても、努力を積み重ね、人生を切り開いていく姿からはきっと大きな希望が与えられるでしょう。

花の生涯<下>(祥伝社文庫)


政治家として頭角を表す直弼の姿が描かれた後編。海外から開国を迫られ、揺れる日本を何とか守ろうとする姿には、胸が熱くなるはずです。

日米修好通商条約を締結した本当の理由を考えると、直弼が一方的な政治を行うだけの人物ではなかったことがわかります。

その後に起こる安政の大獄、桜田門外の変と続く大きな時代の流れを感じれば、日常の些細なことは気にならなくなるかもしれません。

おすすめ映画

桜田門外ノ変


直弼が命を落とした桜田門外の変を水戸藩士の立場から描いた作品。

直弼も水戸藩士も日本を守ろうとする気持ちは同じはずなのに、不幸な血が流れるのはなぜなのか考えさせられます。そして直弼を亡き者にしても、何も解決するわけではありません。このことで国を動かすことの難しさを一層感じます。

直弼を演じているのは伊武雅刀さんです。やはり直弼の悪人としての面を強目に描いているような気がします。

柘榴坂の仇討


桜田門外の変の際に、目の前で直弼を討たれてしまった彦根藩士が仇討ちをするために下手人を追うストーリーです。そのため直弼はあまり出てきませんが、重要な役割を果たしています。

クライマックスの仇討ちの場面で、彦根藩士が下手人を討つのを思いとどまります。理由となったのは『命懸けで国を想う者を無下にするな』という直弼の言葉でした。

直弼を演じているのは中村吉右衛門さんです。温和な表情とこの言葉が相まって、温かな直弼を感じられる作品となっています。そして桜田門外の変は多くの人の人生を変えてしまったことが実感できます。たとえ何年過ぎても、事の大きさは変わらないのです。

参考にさせていただいた文献

まとめ

さて、こうして見るといかがでしょうか。冒頭で井伊直弼という人物は悪役として描かれることが多いと述べました。

その原因は朝廷の許可を得ずにほぼ独断で下した違勅調印や、列強に対する弱腰な態度、また安政の大獄に代表されるように独裁的でワンマンなやり方だとも述べました。

こうして書いていくとこれらも全くその通りではあるのですがそれと同時にそれらのイメージは彼のほんの一面しか描けていないとも思います。

果たして彼を非難できるような人間などいるのでしょうか。井伊直弼が死んだ後、抑えのなくなった日本は攘夷戦争へと向かっていきます。1863年には下関戦争、そして薩英戦争などが起きて日本はようやく海外列強の力を思い知ることになります。

もし海外列強との力の差を認識していた井伊直弼が生きていればそのように一戦を交える手間もなく日本を近代化へと導いたことだと思います。

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2 COMMENTS

レキシル編集部

> 匿名さま

大変失礼しました。修正致しました。
ご指摘ありがとうございます。

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