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ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)とは?出来事や真実、犠牲者を紹介

ツタンカーメンの呪いって何?」
「どのような災が起こったの?」

1922年、20世紀最大の発見ともいわれる出来事がありました。古代エジプトのファラオであったツタンカーメンの墓陵がほぼ完全な形で発見されたのです。

ツタンカーメンの墓陵が何重もの扉によって閉ざされており、約3000年もの間、誰も中に入ることはありませんでした。墓陵の謎を解明するために考古学者ハワード・カーター指揮する調査隊が発掘のため、固く封印された墓陵の中へ入っていきました。

ハワード・カーター(1874~1939):イギリス出身の考古学者で、ツタンカーメンの墓陵発見のために大きく貢献した。

そしてその数ヶ月後、調査の出資者であるカーナヴォン伯爵の急死を皮切りに、調査隊やツタンカーメンの墓陵に関係する人々が謎の死を遂げます。これを「ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)」と人々は騒ぎ立て、恐れました。

ですがツタンカーメンの呪いには不可思議な点が多いのです。この記事でツタンカーメンの呪いに関わる情報をすべてお伝えしていきます。

ツタンカーメンについて簡単に解説

ツタンカーメンの黄金のマスク

ツタンカーメンは父アメンホテプ4世と側妻キヤ(若い方の貴婦人)との間に生まれました。父アメンホテプ4世が亡くなり、ファラオとして跡を継いだツタンカーメンは父が行った改革をすべて翻し、国の安定を図りました。

ファラオとして責務を果たしていましたが、19歳のとき馬から落ち、足を骨折し、これが原因で敗血症になり、追い打ちをかけるようにマラリア感染症にかかったことで早逝します。そして多くの埋葬品や黄金とともに王家の谷に葬られました。

ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)とは?

ツタンカーメンが納められている石棺を調査するカーター

始まりは1923年カーナヴォン伯爵の急死

1922年、考古学者ハワード・カーター指揮する調査隊によってツタンカーメンの墓陵が発見されました。この時代、発掘調査には莫大な資金が必要で、発掘調査には必ず資金を提供する資産家の存在がありました。

ツタンカーメン墓陵の発掘も同じで、資金提供者としてジョージ・ハーバート(第5代目カーナヴォン伯爵)が関与していました。ツタンカーメンの王墓が発見されたと電報が届いてから、わずか2週間以内にエジプトへ飛び、カーターとともに王墓の中に入りました。

ジョージ・ハーバート(カーナヴォン伯爵)

長年、資金を提供し続け、ようやく成果が実ったのです。カーターとカーナヴォン伯爵は抱き合って喜び合いました。

そんな喜びもつかの間、王墓発見より数ヶ月後に突然カーナヴォン伯爵は急死します。死因は髭剃り中にたまたま蚊に刺されたことで、熱病に感染し肺炎を併発したためでした。突然の伯爵の死にカーターや現場は非常に動揺しました。しかし、さらに悲劇は続くのです。

王墓の発掘から立て続けに関係者が死亡

ツタンカーメンの墓陵内部

カーナヴォン伯爵の死去後、発掘関係者やツタンカーメンの墓陵に訪れた人々が立て続けに亡くなります。それらの死因はそれぞれ墓陵とは関係のないものばかりでしたが、この話は世界中の人々を震え上がらせるには十分でした。

ツタンカーメンの墓陵入口にはこのような警告文が刻まれていると、当時のマスコミは報道しました。

偉大なるファラオの墓にふれた者に、死はその素早き翼をもって飛びかかるであろう。

この碑文を刻んだものが誰かはわかっていませんが、あくまで墓荒らしに対する警告文であり、ただの文に人を殺せる力はありません。しかし実際にツタンカーメンの墓陵発掘に関わった多くの人たちが、わずか数ヶ月から数年の間に亡くなっていることも、また事実なのです。

ツタンカーメンの呪いの真実は?

ここまでツタンカーメンの呪いについてお伝えしてきました。この有名な話をよくよく調べてみると、実はマスコミによる過大誇張とでっちあげの連続だったのです。

まずツタンカーメンの入口の警告文。あれは完全なでっちあげで、そのような碑文の存在は確認されていません。

カーナヴォン伯爵の死は事実ではありますが、もとから伯爵の健康状態は良くありませんでした。さらに亡くなった年齢も57歳と、当時の平均寿命などからみても、亡くなったことに驚くような年齢ではありません。

さらに墓陵関係者たちで亡くなった人は22人と報道されましたが、これも過大誇張で、実際亡くなったのはたったの8人でした。しかも関係者だけでなく、観光でツタンカーメンの墓陵に訪れた後に亡くなったという、ツタンカーメンの墓陵発見・発掘にまったく関わりのない人も数に含められていました。

このようにツタンカーメンの呪いは信憑性がなく、マスコミが面白おかしく報道しただけだったのです。もちろん中には比較的早く亡くなってしまった人もいますが、長生きしている人の方が断然多く、「ツタンカーメンの呪いはただのデマ」だという話が広まり、収束していきました。

ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)で亡くなったとされる関係者たち

玄室の調査をするカーター

カーナヴォン伯爵

ツタンカーメンの墓陵発掘のため多くの資金を提供しました。カーナヴォン伯爵は自身で髭剃りをしていた際に蚊に刺されたことで熱病に感染し、もともとの健康状態も良くなかったことから、肺炎にまで悪化したことで死亡しました。

墓陵発見からわずか数ヶ月の出来事であったため、発掘関係者はもちろん、マスコミによるでっちあげに使われてしまいました。

ジェイ・グールド

ジェイ・グールド

アメリカの実業家で、1923年にツタンカーメンの墓陵を観光で訪れました。その後すぐに具合が悪くなり、数ヶ月後肺炎で亡くなりました。

オーブリー・ハーバート

カーナヴォン伯爵の異母兄弟にあたる人物です。彼は実際にツタンカーメンの墓陵を訪れたこともなければ、発掘調査関係者でもありませんでした。カーナヴォン伯爵の親類というだけで、呪いを受けたとされた人物です。

彼の死因は敗血症でした。元よりオーブリーは目が悪く、ほとんど見えていませんでした。

腐った歯が原因であることが分かり、その抜歯のため手術を行いました。しかしこの手術が原因で敗血症にかかってしまい亡くなったのです。

イブリン・ホワイト

イギリスの考古学者で、ツタンカーメンの発掘調査を手伝っていました。1924年、発掘調査に携わっていた人物が次々と亡くなっていく様子に恐れ、自ら命を絶ちました。

彼は死ぬ前に遺書を残しています。

わたしを無理やり消し去ろうとしている呪いの力に負けた

アーロン・エンバー

ボルティモア

アメリカの考古学者で、カーナヴォン伯爵や発掘調査に関わっているメンバーたちと友人関係にありました。彼が亡くなったのは1926年のことで、死因は焼死です。

ボルティモアに彼の家がありましたが、自宅でパーティーを開催した後火事が起こりました。一度は脱出したものの、書きかけの論文を取りに再度火の手の上がる家の中に入り、そして亡くなりました。ちなみに、この時エンバーが執筆していた論文のタイトルは「エジプトの死者の書」というものでした。

リチャード・ベセル

カーナヴォン伯爵の秘書を務め、ツタンカーメンの墓陵発見者であるハワード・カーターに次ぎ、2番目に墓陵の中に入った人物です。べセルは1929年にロンドンにある会員制のクラブの一室で窒息死しています。

なぜ窒息死したのか原因はわかっておらず、「誰かに絞殺されたのでは」と疑惑が上がりましたが犯人は見つかりませんでした。

アーチボルト・ダグラス・リード

ミイラのX線写真

リードは放射線学者で、ツタンカーメンのミイラのX線写真を撮りました。撮影後、何故か翌日から体調を崩しわずか3日後に急死しました。今回の「ツタンカーメンの呪い」騒ぎにおいて、唯一不審な死を遂げた人物です。

ジェームズ・ヘンリー・ブレステッド

エジプトの考古学者で、ハワード・カーターとともに発掘調査に携わりました。エジプト学の解明に大きく貢献し、アメリカの大学で教授として教鞭をふるっていました。

ブレステッドのペットがコブラに食べられてしまうなどの、不吉な兆しも相まって、1935年に亡くなった際に、マスコミによって「ツタンカーメンの呪いの再来」と騒ぎ立てられることとなりました。

ツタンカーメン呪いに関するまとめ

ツタンカーメンの呪いについて解説してきました。いかがでしたでしょうか。

3000年もの間、地下深くで封印されていた墓陵を発見したというだけでも、非常にセンセーショナルな出来事ではありますが、さらに立て続けに関係者が亡くなると言うのはマスコミにとっても格好のネタだったのでしょう。人の死をネタにしてしまうのは、さすがに不謹慎だとは思いますが。

ぜひツタンカーメンの呪いなど気にせず、エジプトを訪れた際にはツタンカーメンの墓陵を見学してみてください。呪いなど吹き飛ばすほどの壮麗さにきっと驚くでしょう。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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