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ツタンカーメンとはどんな人?功績や死因、ミイラの場所、呪いなど紹介

ツタンカーメン(トゥトゥアンクアメン)とは古代エジプト第18王朝のファラオです。ファラオとは古代エジプトにおける王の事を指します。父アメンホテプ4世の跡を継ぎ、わずか9歳にしてファラオとして即位しました。その後大規模な改革を進め、ファラオとしてエジプトの安定に貢献したものの、19歳という若さでこの世を去りました。

ツタンカーメンの像

そんなツタンカーメンですが、20世紀に入るまで、ほとんど認知されていませんでした。彼の名を一躍世に知らしめたのは、20世紀最大の発見とも言われる「ツタンカーメンの墓陵」が見つかったからです。

彼の墓陵は他のファラオの墓陵と違い、偶然の重なりによって見つけにくい状況にあり、上手く隠されていました。そのためファラオの墓陵としては唯一盗掘を避けることができ、中に入った調査隊たちは、墓陵を埋めつくす黄金の数々に驚嘆したそうです。

古代エジプトのロマンに魅了された筆者が、歴代ファラオの中でも、特に謎の多いツタンカーメンについて徹底的に解説し、知られざる少年王の姿と、彼にまつわる逸話や都市伝説も合わせてご紹介します。一緒にツタンカーメンの謎に迫っていきましょう。

ツタンカーメンとはどんな人物か

名前ツタンカーメン(トゥトゥアンクアメン)
誕生日紀元前1342年頃
没日紀元前1324年頃
生地エジプト
没地エジプト
配偶者アンケセナーメン
埋葬場所王家の谷

ツタンカーメンの生涯をハイライト

ツタンカーメンの黄金のマスク

ツタンカーメンは父アメンホテプ4世(アクエンアテン)と母キヤ(若い方の貴婦人と表現される)との間に生まれました。王の子として幼いころから英才教育を受けていたツタンカーメンは、父王亡き後、9歳の時にホルエムヘブやアイといった重臣たちに擁立され、第18王朝のファラオとして即位します。

即位後、ツタンカーメンは父王アメンホテプ4世が定めた「アテン神のみ信仰する一神教化」「テーベからアマルナへの遷都」などを全て翻し、アメン神や他の神々への信仰を復活させ、アマルナからテーベへ首都を移動させました。生まれつき足が悪く、移動には必ず杖が必要な状態でしたが、ヌビアの反乱を収め、ヒッタイトとの戦いに勝利するなど、王としての職務は十分にこなしていました。

ファラオとなってすぐに異母姉弟であるアンケセナーメンを王妃に迎えますが、子どもには恵まれませんでした。そしてツタンカーメンは馬から落ち、その際に足を骨折してしまいます。追い打ちをかけるようにマラリア感染症にかかったことで、わずか19歳という若さでこの世を去りました。

ツタンカーメンはどうやって発見された?

王家の谷

第18王朝のファラオであったツタンカーメンは「王家の谷」と呼ばれる王の墓が集中しているところに葬られました。ツタンカーメンの墓は当時の墓守によって厳重に封印されており、その100年後にラムセス6世の墓陵が築かれた際に、砂や瓦礫によって完全に埋もれてしまったのです。

ツタンカーメンの王墓の調査をするハワード・カーター

多くの苦難がありつつも、1922年11月4日、考古学者ハワード・カーターによってツタンカーメンの王墓は発見・発掘されました。ツタンカーメンの王墓は大きな盗掘を免れ、数々の副葬品たちがほぼ完全な形で出土したことで、一躍世界にその名を轟かせることとなり、エジプト史上最も有名な王となったのです。

ツタンカーメンの墓を彩る黄金の埋葬品たち

ツタンカーメンの王墓見取り図

墓は「前室」、「宝物庫」、「玄室(埋葬室)」、「付属室」の4つに分かれていました。王墓の中は壁画や多くの彫像で埋めつくされ、どこもかしこも黄金であったとハワード・カーターは伝えています。実際、ツタンカーメンの墓の中に治められていた金の総量は、現エジプトの金保有量の約2倍だというのだから驚きです。

現在、最も有名である「ツタンカーメンの黄金のマスク」やその他数々の副葬品たちは、カイロにあるエジプト考古学博物館に所蔵され、一般客にも公開されています。特に黄金のマスクは国外への持ち出しが禁止されており、実物はエジプトでしか見ることができません。エジプトを訪問した際には、ぜひ博物館にも訪れてみてくださいね。

ツタンカーメンのミイラ

ツタンカーメンのミイラ

玄室に封印されていた石棺の調査をしたところ、中に入っていたのは人型の黄金の棺と、そしてその中にツタンカーメンのミイラがありました。ツタンカーメンのミイラは防腐処理の際の樹脂が変質してしまっており、他のミイラと比較すると保存状態は良くありませんでした。しかもミイラの包帯が解かれる段階で、多くの外傷がつけられ脊椎が切断されたり、性器が消失したりしています。

近年の解析結果から、身長は165cmで内反足で一部の骨が腐っていたことなどが判明しています。それだけでなくツタンカーメンの胸骨と肋骨、そして心臓もなくなっており、これは古代の「故人が冥界へ旅立つ際に心臓と同じ重さのスカラベが代わりに置かれる」という風習からも、非常に奇妙なことであることがわかっています。

ツタンカーメンの死因は?

マラリア感染症は蚊が媒介する。

ツタンカーメンは骨折部から細菌が入り敗血症になってしまったこと、それと同時期にマラリア感染症にかかってしまい、死亡したといわれています。ミイラのDNA鑑定からも死因はある程度断定されていますが、ミイラには他にも不可解な傷が見つかっており、正確な死因について未だ議論されている状況です。

「暴力で亡くなった」、「生まれつきの障害によって亡くなった」などいろいろな説が提唱され、検証されています。今後の調査や研究によって、正確な死因が判明されることでしょう。

ツタンカーメンの死因とは?最新の科学が解き明かした真の理由

ツタンカーメンの功績

功績1「アメン神の信仰を復活」

アメン神

まずはツタンカーメンの先王であるアメンホテプ4世に時代に遡ります。彼は強大な権力を持っていた神官たちを排除し、王権の絶対性を強調するべく、これまで信仰されていたアメン神を廃止し、アテン神のみを信仰する一神教へと変更しました。

これまでの世を一新しようと行われた宗教改革でしたが、神官たちの反感を買ったたけでなく、民衆の混乱を招きました。ツタンカーメンが王位を継いだ後、この宗教改革によって招いた混乱を収束するために、アメン神の信仰を復活させました。

功績2「首都をテーベに戻す」

古代都市テーベ

アメンホテプ4世によってアメン神信仰の中心地であったテーベから、アマルナへ首都を移し、ペル・アテン・エム・アケトアテン(アテン神の神殿)が建造されました。ツタンカーメン即位後はアメン神信仰を復活させたため、首都もテーベに戻しました。

アメン神信仰復活に伴い、カルナクにあるアメン大神殿に「信仰復活の碑」を造ったり、ペル・アテン・エム・アケトアテンを解体し、資材をテーベの神殿作りに再利用しています。アメン神殿に仕える神官たちも再雇用しました。

功績3「ヌビアの反乱を治める 」

エジプト全図

ツタンカーメンは生まれつき足が悪く、杖がないと歩くこともできませんでした。そんな状態でありながらも、ファラオとして戦場におもむき兵士たちを鼓舞していました。当時のエジプトより南にあったヌビアは中王国時代にエジプトの支配下におかれていましたが、第18王朝に入ってから小規模の反乱が起きるようになりました。

第18王朝のファラオたちはその度に反乱を治めてきましたが、度々起こる反乱にこれでは埒があかないと考えたツタンカーメンは、ヌビアに積極的に遠征を行いエジプト人の官僚や神殿の建設を進め、ヌビアをエジプト化することに成功しました。これによりヌビアで反乱が起きることはなくなりました。

ツタンカーメンの人物相関図

ツタンカーメンにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ツタンカーメンの墓だけ荒らされなかった理由」

奥:ラムセス6世の墓陵 手前:ツタンカーメンの墓陵

ツタンカーメンの墓陵はファラオの中でも、ほとんど墓荒らしの被害を受けませんでした。これは奇跡とも言える多くの条件が重なったからなのです。

ツタンカーメンが死亡し、王家の谷にファラオとして埋葬されました。埋葬された後すぐに、墓荒らしが盗掘にきます。しかしその時は持ち運びのしやすい宝石が主に狙われました。

当時の王家の谷には墓守と呼ばれる墓陵を守る番人がいました。墓守はツタンカーメンの墓陵に侵入された形跡を発見すると、ツタンカーメンの墓を厳重に封鎖し、警備体制をより強化するようになりました。

そして100年ほど経った頃、ツタンカーメンの王墓の近くにラムセス6世の墓が建造されます。この時に砂や瓦礫がツタンカーメンの墓に降り積もりました。さらに建造に携わる人々や神官の家がその土地に建てられました。

まさか誰も建物の下にファラオの墓があるなんて思いもしません。その結果ツタンカーメンの墓は3000年近く、盗掘の被害を受けずにすんだのです。

都市伝説・武勇伝2「ツタンカーメンは暴力によって亡くなった?」

ツタンカーメンの死因を研究

ツタンカーメンの死因は骨折の傷による敗血症とマラリア感染症であることは前述しました。しかし調べれば調べるほど面白い仮説が出ています。

  • 他殺説

ツタンカーメンはファラオとしては若く決定権に乏しかったため、側近たちの影響が非常に大きかったとされています。ツタンカーメンの側近としてホルエムヘブやアイの名が挙げられますが、他殺説はこの2人が王位を狙ってツタンカーメンを暗殺したとする説です。

  • 貧血による死亡説

近年の研究によって出てきた説になります。ツタンカーメンのミイラを入念に調べた結果、足の骨折部から鎌状赤血球貧血症の痕跡が見つかったと発表されたのです。この貧血は直接的に死亡の原因とはなりませんが、体内の酸素運搬機能の低下により微笑血管の閉塞から脳梗塞などの病気を引き起こしやすくなるとされています。

  • 歩行障害説

ツタンカーメンは生まれつき足が悪く、足の指の一部が腐っていたり、内反足があったりと、杖がないと生活できませんでした。そんな歩行障害をもつツタンカーメンは、他の人々よりも転倒しやすい状況にあったと考えられています。ツタンカーメンが骨折した原因に落馬したという説が有力視されているものの、実はこの歩行障害により転倒したためではないかとの声も挙がっているのです。

都市伝説・武勇伝3「ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)とは?」

ツタンカーメン王墓発掘の出資者:ジョージ・ハーバート(カーナヴォン伯爵)

ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)とは、ツタンカーメンの墓陵発掘に携わった人たちが次々と亡くなった出来事のことを指しています。この出来事により亡くなった人物は22人ともされ、世界中の人々を震撼させました。

しかしこれは新聞社によるデマでした。実際に亡くなったのは9人で、しかも死因が判明しているものがほとんどです。なんといっても、ツタンカーメンの墓を発見した立役者であるハワード・カーターが天寿を全うしています。当時の人々のうわさ好きがうかがえますね。

ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)とは?出来事や真実、犠牲者を紹介

ツタンカーメンの簡単年表

紀元前1342年 - 0歳
ツタンカーメン誕生

アメンホテプ4世と若い方の貴婦人の息子として生まれました。血統を大切にする古代エジプトでは、王の息子として幼いころから英才教育を受けました。

紀元前1333年 - 9歳
王位継承

アメンホテプ4世死去により王位を継承し、第18王朝の11代目ファラオとして即位しました。9歳という若さでの即位であったため、側近たちの影響力が非常に強かったとされています。

紀元前1333年~紀元前1324年 - 9~19歳
アメン神への信仰復活、テーベへ首都を戻す

アメンホテプ4世が行った宗教改革を翻し、アメン神の信仰復活、首都をアマルナからテーベへ首都を遷都するなど、元あった姿へと戻していきました。ツタンカーメンは王名表にも名前の記載がなく、具体的にいつ施策を行ったのか、はっきりとした記録は残っていません。

紀元前1324年 - 19歳
ツタンカーメン死去

骨折による傷から敗血症にかかり、それに拍車をかけるようにマラリア感染症にて19歳という若さで死去しました。死去後はミイラとして大量の副葬品や黄金たちとともに王家の谷に埋葬されました。

ツタンカーメンの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

ツタンカーメン 少年王の謎

ツタンカーメンの生まれや親子関係、即位の背景、死亡理由など、ツタンカーメンに関する全てが網羅されている一冊です。2010年に行われたDNA鑑定の結果から大胆な説を提唱しており、非常に興味深い内容となっています。

図説 ツタンカーメン王

ツタンカーメンの王墓に焦点を絞り、カラー写真や図説が豊富に使われています。古代エジプトファンなら誰しもが満足のいく一冊となっています。終盤にはツタンカーメン王墓の発掘者であるハワード・カーターのエピソードも載っており、発掘に関わる苦労話まで詳しく知ることができます。

 ツタンカーメンの謎

ツタンカーメンの人生について振り返るだけでなく、ツタンカーメンの呪い(王家の呪い)などにも触れています。また第18王朝の背景から複合的な考察がされているので、ツタンカーメンだけでなく、古代エジプトのロマンや謎に深く迫ることができるでしょう。

関連外部リンク

ツタンカーメンについてのまとめ

ツタンカーメンについて解説しました。いかがでしたでしょうか。

ツタンカーメンは古代エジプトにおいて最も有名なファラオです。しかし彼を有名にしたのは彼の功績が評価されたわけではなく、盗掘されていない王墓の主だったからという、何とも物悲しいものです。

この記事を読んで、ツタンカーメンの功績やその生涯について興味を持っていただけますと幸いです。長い記事となりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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