キュリー夫人の死因は?研究が原因の病気だった?研究内容との関係を解明

「キュリー夫人の死因は何?」
「キュリー夫人って何をした人なの?」

女性の偉人として有名なキュリー夫人ですが、改めて考えてみると彼女が何をした人で、どうして亡くなってしまったのかよく知らない人も多いのではないでしょうか。

若き日のキュリー夫人

彼女がなぜ亡くなったかを知ることで、彼女の人生とさまざまな偉業がわかります。そこでこの記事では

  • 夫ピエールの早すぎる死
  • 明らかになる放射能の悪影響
  • 最期まで認めなかった健康被害

この3つを検証して彼女の死因を探っていきます。もちろんキュリー夫人がなぜこれほど有名になったのか、彼女の偉大な功績も紹介します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

キュリー夫人の死因は?

1903年ころのキュリー夫人

キュリー夫人が生まれたのは1867年11月7日のことです。日本ではやっと明治時代に入るころですが、彼女は当時の女性としては画期的な研究者としての道を進みます。

そんなキュリー夫人は66歳で亡くなりました。直接の死因は「再生不良性貧血」だと考えられていますが、実はこの病気は彼女が長年続けてきた研究に大きな関わりがあったのです。

彼女を再生不良性貧血に追い込んだ真の原因についてこれから探っていきます。

キュリー夫人を死に追いやったもの

実験室でのキュリー夫人

キュリー夫人は研究者であるとともに、幸せな結婚をした1人の女性でもありました。結婚相手のピエールもまた研究者であり、2人は博士号取得という共通の目的を持ちました。そのために選んだ研究が「放射能」についてだったのです。

夫ピエールの早すぎる死

キュリー夫人の夫・ピエール

夫婦の目的に向かい確実に進んでいった結果、キュリー夫人は1903年にノーベル物理学賞を夫婦で受賞しました。夫婦はともに多忙になりましたが、そのわずか3年後、夫ピエールは46歳のときに不慮の事故でこの世を去ります。ピエールはパリ大学の物理学部に教授の職と実験室を用意されていましたが、これを夫人が引き継ぐことになりました。

一時は自分もピエールの後を追いたいと思ったほどに悲しんだ夫人でしたが、夫にふさわしい研究所を作ることこそ、自分の役目だと覚悟を決め、重い遺産を引き継いだのです。

こうしてパリ大学では初の女性教授が誕生し、キュリー夫人は一層研究に没頭しました。

明らかになる放射能の悪影響

1914年の第一次世界大戦後、化学者の間では放射能を浴びる量によっては人体に影響が出ると言われていました。

当時から鉛を使って放射線を遮蔽することや白衣は使い捨てにすることが実行されていましたが、研究に没頭していたためか、キュリー夫人はそのような対策をほとんど取っていませんでした。彼女は素手で放射性物質を扱うこともあったそうです。

それから10年ほどの間に徐々に放射線の悪影響が明らかになり、夫人の周りでも助手や研究者が再生不良性貧血や白血病で死亡しました。ただ当時は明確な因果関係を見つけることはできず、対処法を発見するまでには至りませんでした。

最期まで認めなかった健康被害

キュリー夫人は亡くなる2年ほど前からさまざまな不調に襲われます。右手首の骨折が治らないことから始まり、頭痛や肩こり、さらには胆石症と診断されます。1934年には結核の疑いが見つかり、療養生活に入ります。

その生活の中で血液検査を受けて「再生不良性貧血」であることが発覚しました。結局その年のうちに夫人は亡くなってしまいますが、白内障により目もほとんど見えなくなっていました。

長い間放射線を浴び続けたことで起きた再生不良性貧血が直接の死因だと言われています。亡くなるまでの間に起こった多くの不調も放射線を浴びたことが原因だったと考えられますが、彼女は決して放射能による健康被害を認めませんでした。

放射性物質を素手で扱い、ポケットに入れることもあったキュリー夫人。彼女は亡くなった夫と同じくらい研究を愛していたのかもしれません。

キュリー夫人が遺した功績

ワルシャワのキュリー夫人像

キュリー夫人は研究室の中にだけいたのではありません。第1次世界大戦のときには、車にレントゲンの設備を積み、自らフランス国内を周り負傷者の治療に役立てました。夫人はこのために自動車免許を取り、故障のときの知識も身につけていたそうです。

これは夫人の研究と同じくらいの価値のある功績になりました。彼女は研究を実際の暮らしの中で生かすことで、初めて人間を幸せにするのだということを教えてくれたのです。そして、キュリー夫人の功績はこれだけではありません。

ポーランド人でありながらフランス人である夫と結婚した夫人は、国籍による差別を受けることがありました。さらに女性でありながら研究を続けることにも大きな苦労がありました。夫人には女性初という冠が付くことが多いですが、それは当時の女性たちはが学問や研究に携わることが難しかったことの証でもあります。

しかし、キュリー夫人がこれらの問題を跳ね除けながら生き抜いたことで、私たちは国籍や性別に関係なく自分の人生を生きていけることを学びました。これもまたキュリー夫人が遺した大きな功績だと言えます。

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キュリー夫人の死因に関するまとめ

キュリー夫人の死因は、彼女がライフワークとしてきた放射能の研究に深く関係していたことがわかりました。今ほど放射能が私たちの健康に影響を与えることが知られていなかったとは言え、キュリー夫人ほどの人が60代で亡くなってしまったのは残念です。

キュリー夫人の研究の成果だけでなく、自らの病で放射能の危険を教えてくれたからこそ、現在の私たちの生活は飛躍的に便利になり、医療の質も向上したと考えられます。

キュリー夫人はかけ離れた存在ではなく、彼女の多くの功績の上に今の私たちの生活が成り立っていることを忘れたくないですね。

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