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徳川吉宗の死因とは?体格・体質・性格から病気の原因を徹底解説

江戸幕府には創設から終末までに15人の将軍が存在します。中でも8代将軍である徳川吉宗は、テレビの時代劇にもたびたび登場する人気者です。

時代劇では心身ともに強くたくましいイメージの吉宗ですが、彼の死因について知っている人は少ないのではないでしょうか。

徳川吉宗の死因は何?」
「徳川吉宗はどんな将軍だったの?」

このように思っている人も多いのではないでしょうか?そこで今回は

  • 徳川吉宗の死因となった病気
  • 病気になった後の吉宗の生活

について解説していきます。吉宗の死因を探っていくことで、彼の人間性だけでなく、現代まで伝わる功績についてわかるはずです。

徳川吉宗の死因とは

徳川記念財団所蔵の徳川吉宗像

徳川吉宗の死因は「中風」という病気でした。吉宗は中風を1度だけではなく、2度患いました。1度目に患ったときは、後遺症は残りましたが見事に回復して、快気祝いを行ったという記録があります。

現在耳にすることがない中風というのは一体どんな病気なのでしょうか。

「中風」とはどんな病気?

中風は現代では脳卒中と呼ばれています。これは脳の血管が詰まったり破れたりすることで、脳の細胞に障害が出る病気です。場合によっては命に関わり、さまざまな後遺症が残ることがあります。

吉宗には右半身の麻痺と言語障害が残ったと記録されていますから、脳卒中の典型的な後遺症だったと思われます。

そして2度目の脳卒中によって吉宗は亡くなりました。現代でも1度目よりは2度目の方が重い後遺症が残るために、はるかに危険で注意が必要だとされています。

徳川吉宗の体格と体質、性格

かつて徳川吉宗は身長180cm以上だったと言われていましたが、現在では155.5cmだったという説もあります。体格はかなりの肥満で高血圧症でもあったそうです。後に脳卒中で倒れることからも、これは確実な情報だと思われます。

性格は好奇心旺盛で、新しいものが好きでした。自らゾウを輸入した話は有名です。また、積極的に政治改革を行ったところからも、バイタリティに溢れていた吉宗の姿が目に浮かぶようです。

しかし、その性格ゆえに吉宗はゆっくり休んで、リフレッシュをすることはなかったのかもしれません。吉宗の体格と体質、そして性格が
中風という病気を呼び込んでしまったようです。

隠居してからの吉宗の生活

和歌山市にある徳川吉宗のブロンズ像

1745年に吉宗は長男の家重に将軍職を譲りますが、自らは大御所となり、実権を握り続けます。家重は脳性麻痺により手足が不自由で、言語にも障害があったため、吉宗によるサポートが必要でした。

しかしこのことは人々の憶測を呼ぶことになりました。実権を握り続けるために、扱いやすい家重を将軍にしたのだと受け取られたこともあったようです。

息子「家重」との関係

長男家重と吉宗の関係は決して悪くはなかったと推測できます。吉宗にはほかにも優秀な男子がいたにも関わらず、家重を次期将軍に据えたことがその証拠です。

長男に家を継がせることで、跡継ぎ問題を回避したいという事情もありましたが、障害があることにとらわれず、長男であった家重を重んじたのには親としての愛情があったのでしょう。

家重自信、言語障害はあったものの、人並み以上の知性を持っていたと言われており、吉宗の愛情をよく理解していたようです。それは吉宗が中風で倒れた後の手厚い介護からもよくわかります。

発病してからの生活

吉宗は中風で倒れたのは、将軍職を退いた翌年のことでした。このとき90人の小姓たちが入浴、食事、マッサージなどを担当し、介護にあたりました。

医師により漢方薬も処方されましたが、薬を嫌った吉宗のために、薬を浸した酒までが用意されたのです。この薬用酒は、吉宗が飲みすぎるといけないので、1日1杯までと家重により制限されました。吉宗自身もリハビリに積極的に取り組み、自力で歩けるまでに回復したのです。

吉宗のために結成された介護のためのチームは、とても充実しており、現代でも通用しそうですね。これは当時すでに将軍になっていた家重の尽力がなければできないことです。吉宗が発病してからの生活を見ると、家重の愛情がひしひしと伝わってきます。

徳川吉宗の功績

吉宗が将軍に就任したころ、幕府は経済的に行き詰まっていました。経済改革のために行われたのが、有名な「享保の改革」です。

大幅な増税が行われたため農民たちが困窮し、たびたび百姓一揆が起こるようになりました。また、一般庶民に質素倹約を強要したため、かえって文化や経済が停滞してしまったのです。

幕府を存続させた実力

吉宗は庶民にだけ無理を強いたわけではありません。幕府内でも大奥にいた女性たちを4000人から1300人にまでリストラをした話は有名です。

また、目安箱を設置して庶民の意見を政治に反映させたり、医療政策として小石川養生所を設立するなど、その功績は多岐にわたります。

吉宗の政治と改革がなければ、江戸時代はもっと早く終わっていたかもしれません。吉宗の体格、体質、性格があればこそ改革ができたと言えますが、そのため疲労やストレスも溜まり中風の引き金になってしまったのかもしれません。

現代の私たちにも恩恵がある

桜のイメージ

吉宗の政治と改革は決して過去のものではなく、現代の私たちもその恩恵を感じることができます。春の楽しみ、桜の花見を始めたのは吉宗です。吉宗は江戸の庶民の心を安定させるとともに、火事が多かった江戸の火除地にする目的で隅田川堤などに桜を植樹しました。

また、夏の花火大会も始めたのは吉宗でした。享保の大飢饉で亡くなった人々を慰霊するために水神祭を行い、花火を打ち上げたのです。吉宗が遺したものには人への優しさが感じられます。優しさのある人だったから、病気のときには手厚い介護がなされたのではないでしょうか。

徳川吉宗の死因に関するまとめ

徳川吉宗の死因を探ることで、彼の体格、体質、性格がよくわかりました。このことから、吉宗がどんな将軍だったのかも読み取れたような気がします。

幕府を存続させるため、江戸の街を守るために奔走した吉宗の姿が目に浮かびます。きっと太った体にバイタリティをみなぎらせていたことでしょう。

また、現代にも残っている功績を感じることで、吉宗がもっと身近な存在になったような気がします。
今から300年ほど前を生きた人ですが、彼のことを考えることは現代を生きる私たちの役に立つはずです。

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