小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

飯田蛇笏とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表的な俳句、作品も紹介】

飯田蛇笏(いいだ・だこつ)は、日本を代表する俳人の一人で、1885年に山梨県東八代郡五成村(現在の笛吹市境川村小黒坂)で生まれました。蛇笏は俳号で、本名は武治(たけはる)といいます。

彼の最大の功績は、高浜虚子に師事して日本の俳句文化の発展に寄与したことにあります。格調高い俳句は、いまでも飯田蛇笏の傑作俳句として語り継がれています。

格調高い俳句で知られる飯田蛇笏

幼いころから俳句に親しんだ蛇笏。早稲田大学時代は、俳人の高田蝶衣や歌人の若山牧水と親交をもちますが、家から家業を継ぐよう命じられ退学、帰郷します。帰郷後は、俳誌「雲母」を主宰しつつ、自然風土に根ざした俳句を詠みつづけました。

この記事では、そんな飯田蛇笏の魅力的な俳句を紹介しつつ、彼の生涯や遺したエピソードについて焦点をあててみたいと思います。

飯田蛇笏とはどんな人物か

名前飯田武治
俳号飯田蛇笏
誕生日1885(明治18)年4月26日
没日1962(昭和37)年10月3日
生地山梨県東八代郡五成村
没地山梨県東八代郡境川村
配偶者矢澤菊乃
埋葬場所智光寺
(山梨県笛吹市境川町藤垈)

飯田蛇笏の生涯をハイライト

東行庵(下関市)にある蛇笏の句碑「松風にきき耳たつる火桶かな」

飯田蛇笏は、山梨県で生まれました。地元の境川で学んだ後、中学時代に東京・小石川の中学に転入しています。早稲田大学に進学すると、俳人・高田蝶衣や歌人・若山牧水と出会い、「ホトトギス」にも俳句を投稿するようになりました。

しかし家業である農業・養蚕業を継ぐため、学業を断念し山梨県に戻ります。帰郷後も俳句への情熱が冷めることはありませんでした。結婚し、五男をもうけた蛇笏は、高浜虚子が俳壇に復帰すると、ふたたび「ホトトギス」への投句を再開します。

その後は俳誌「雲母」の主宰となり、芥川龍之介とも親交を深めています。1962(昭和37)年、脳軟化症のため死去しました。蛇笏の五人の息子のうち、戦争・病死で3人が亡くなっており、のこされた4男・隆太が蛇笏のあとを継ぎ俳人となっています。

飯田蛇笏の生まれ

笛吹市境川の藤垈の滝

飯田蛇笏は、山梨県東八代郡五成村(現在の笛吹市境川村小黒坂)で生まれました。父・飯田宇作、母・まきじの夫婦には、蛇笏を含めて8人(男児4人、女児4人)の子どもがあり、蛇笏はその長男です。

飯田家は江戸時代からつづく旧家(地主)でした。蛇笏は幼少期から俳句にふれていますが、それはこのような比較的めぐまれた過程県境があったからだと考えられます。

飯田蛇笏の性格

東京専門学校、早稲田学校と名を変え、1902年から「早稲田大学」と改称

飯田蛇笏の性格をひとことで言うと、情に厚く義理堅い人だと言えます。早稲田大学英文学科に入学した蛇笏は、青春を謳歌するように早稲田吟社の句会に参加したほか、短歌・新体詩といった文学に傾倒してゆきます。

ところが、蛇笏はそうした生活を投げうって、故郷の山梨に舞い戻りました。理由は実家からの「帰郷命令」。当時は、現代と比べて家という存在が大きかったせいもありますが、骨肉の情という言葉を思わずにはいられません。

飯田蛇笏の死因

脳にダメージを受けてしまった飯田蛇笏

飯田蛇笏の死因は「脳軟化症」といわれています。脳軟化症とは、脳梗塞ともよばれ、脳の動脈に閉塞や狭窄が生じて酸欠となり、その結果脳の機能を損なう状態をさしています。

蛇笏辞世の句としては、晩年に詠まれた次の俳句が考えられます。

誰彼もあらず一天自尊の秋

秋の俳句に秀句が多い蛇笏は、まるで秋に溶けこむかのように旅立ってゆきました。

飯田蛇笏の代表的な句集

  • 『山廬集』-(雲母社、1932年)
  • 『霊芝』-(改造社、1937年)
  • 『山響(こだま)集』-(河出書房、1940年)
  • 『白嶽』-(起山書房、1943年)
  • 『心像』-(靖文社、1947年)
  • 『春蘭』-(改造社、1947年)
  • 『雪峡』-(創元社、1951年)
  • 『家郷の霧』-(角川書店、1956年)
  • 『椿花集』-(角川書店、1966年)

飯田蛇笏の代表的な俳句

飯田蛇笏×春の俳句

柔らかな雰囲気をまとう春の句

谷梅にまとふ月光うすみどり

季語は梅です。「谷梅」つまり谷に咲く梅なのですが、詠み手の位置は判然としません。「まとふ月光」からすると、谷梅を目上げているようにも感じられます。が、肝心なのは月を「うすみどり」と言い切ったところです。鋭敏な色彩感覚を感じさせます。

春めきてものの果てなる空の色

季語「春めく」は、春らしくなったの意。空の色はあわい水色をたたえ、これからやってくる春本番そして夏の空の色まで、連想させてくれます。「ものの果てなる」という一見冗長な言葉も、この季節の独特な風情をうまく表しています。

風冴えて高嶺紺青雪のこる

季語は「雪のこる」。暦は春に入ったものの、まだまだ風は冴え大気も澄んでいます。高嶺とは富士でしょうか。紺青の山肌には残雪がまだくっきりと残っています。うつくしいコントラストが印象的な俳句です。

飯田蛇笏×夏の俳句

清涼感あふれる夏の句

白牡丹顎をあらはにくづれけり

季語は「白牡丹」です。そのふくよかな花が頽れてしまったという、ハッとするシーンを詠みました。それも「顎をあらはに」とあります。ありのままの散り際がスローモーションのように連想される俳句です。

朝日さすすだれの外の岩清水

夏の河床を連想するような俳句です。すだれをとおして差しこんでくる朝日。暑さへの予感と、岩清水の涼やかさが同居しています。と同時に岩清水に朝日がきらきらと輝く様子まで伝わってきます。

水替へて鉛のごとし金魚玉

季語の「金魚玉」は球形の金魚鉢です。水を替えたのですから、金魚玉の中には金魚が飼われている状態です。水を替えて金魚もしばらくはじっと身を潜めているのでしょう。動から静へと移り変わる様を「鉛」としました。「動かざること山の如し」のような力を感じる句です。

飯田蛇笏×秋の俳句

秋の句に秀句が多い蛇笏

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり

蛇笏の超有名句です。夏の季語「風鈴」の秋の姿を詠んでいます。惜夏の情とでも言うべきでしょうか。過ぎ去った夏を惜しむところに、黒金づくりの風鈴が澄んだ音色を響かせています。

芋の露連山影を正しうす

蛇笏の超有名句その2です。季語は「芋の露」。芋の葉にたまった朝露。はかなさの代名詞でもある露をまず現出させ、その向こうに威風堂々たる「連山」を描きます。剛柔一如は蛇笏の真骨頂と言えそうです。

をりとりてはらりとおもきすすきかな

季語「すすき」はお月見によく登場することでお馴染みですね。この句の生命は真ん中の「はらりとおもき」です。軽そうにみえたが折り取ってみると重かった、という経過を熟練の措辞で表しました。平仮名表記にした技巧も光ります。

飯田蛇笏×冬の俳句

輝きを帯びている冬の句

炉をひらく火のひえびえともえにけり

寒い季節になると、囲炉裏をひらき火を入れます。いまでは少なくなった、日本家屋の冬の光景が連想されます。火が寒さを押し除けるまでの時間差を「ひえびえともえ」に込めていることがわかります。

山国の虚空日わたる冬至かな

季語は「冬至」つまり一年でもっとも昼の時間が短い日です。太陽の動きを見ていた蛇笏は、「山国の虚空」を「日(が)わたる」と感じたのでした。蛇笏が山盧と呼んだ故郷の空。蛇笏の思いが滲んでいるようです。

手どりたる寒の大鯉光さす

季語「寒」の澄みきった空気感を感じる句です。「手どりたる」「大鯉」という動作の合間に「寒の」「光さす」という景が織り込まれています。大鯉が後光をまとっているかのような、見事な俳句にまとめられています。

飯田蛇笏にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「虚子止まれば止まり、虚子進めば進む」

俳句界の大御所、高浜虚子

飯田蛇笏は、高浜虚子に師事し、1908(明治41)年に虚子の主宰する俳句鍛錬会「俳諧散心」にも参加しています。しかし、この年虚子が俳壇から身を引くことになり、それに合わせて蛇笏も「ホトトギス」への投稿を見合わせました。

蛇笏がふたたび「ホトトギス」への投句を再開したのは、1912(大正2)年。高浜虚子が「春風や闘志抱きて丘に立つ」の句とともに俳壇に復帰したときでした。まさに「虚子進めば進み、虚子止まれば止まる」蛇笏。彼の性格がよく現れた逸話だといえます。

都市伝説・武勇伝2「蛇笏の名の由来とは」

飯田蛇笏・龍太の生家、通称「山蘆」

蛇笏(だこつ)という変わった俳号をもつ飯田蛇笏。一見蛇蝎のように見えてしまいますが、蛇蝎(ヘビとサソリ)ではありません。

蛇笏は、一時期小説家を志した時期がありました。その際に使っていたペンネームが「白蛇幻骨」というものでした。「白蛇幻骨」には「つまらない、首尾一貫していない」といった意味が込められていたようです。

略して「蛇」「骨」さらに「骨」に代えて「笏」の字をあてています。というわけで、飯田蛇笏の俳号の由来は、「もともと使っていたペンネーム」でした。

飯田蛇笏の簡単年表

1885年 - 0歳
飯田蛇笏、誕生

1885(明治18)年4月、飯田武治(蛇笏)は、山梨県東八代郡五成村(現在の笛吹市境川町)に生まれました。

1890(明治23)年、蛇笏は、清澄尋常小学校へ入学します。また、当時隆盛していた俳諧(江戸時代以来の月並俳諧)に幼い時分から親しんでいました。

1898(明治31)年、山梨県尋常中学校時代に文学にめざめ、森鴎外松尾芭蕉、正岡子規に影響を受けます。その後、東京・小石川の京北中学校に編入学し、さらに早稲田大学へと進学しました。

早稲田大学では、早稲田吟社の句会に参加し、同じ下宿の若山牧水と親交を深め、「ホトトギス」への投句もはじめるなど、文学活動に注力しています。

1909年 - 24歳
帰郷命令

1909(明治42)年、蛇笏は実家からの「帰郷命令」を受けます。帰郷後は、農業や養蚕に従事しつつ、松根東洋城の「国民俳壇」に投句をはじめました。

1911(明治44)年、蛇笏は矢澤菊野と結婚します。翌年には長男(聡一郎)が誕生しています。その後も次男・數馬(1914年)、三男・麗三(1917年)、四男・龍太(1920年)、五男・五夫(1923年)と子宝にめぐまれています。

このころ、山梨の俳壇では、新傾向俳句の波が押し寄せていました。1911年、萩原井泉水(1884-1976)が『層雲』を創刊し、翌年には河東碧梧桐(1873-1937)が山梨を訪れるなどしています。

高浜虚子を師とあおぐ蛇笏は、伝統俳句の立場から、自然風土に根ざした俳句を読むべきだという論を展開し、新聞紙上に掲載しています。

1912(大正2)年に高浜虚子が「ホトトギス」で俳壇に復帰すると、蛇笏もまた「ホトトギス」への投句を再開します。

1915年 - 30歳
俳誌「キララ」を継承「雲母」と改題
1915(大正5)年、蛇笏はまだ創刊まもない『キララ』の選者を依頼されたことがきっかけとなり、2年後から主宰となります。同時に俳誌名を『雲母』と改題し、発行書を甲府市に移転しました。この『雲母』が蛇笏の本拠地となります。

1917(大正6)年、蛇笏は山梨県をおとずれた高浜虚子を増富温泉へ案内しています。また、翌年には、芥川龍之介が「ホトトギス」に投句した俳句を激賞し、ふたりの文通のきっかけとなりました。

大正の後半、蛇笏は江戸時代に蛇笏の家系からでた俳人・成島一斎(1843-1908)の研究に没頭しています。その成果として、1926(大正15)年に遺稿集『明丘舎句集』を著しています。

1929年 - 44歳
蛇笏、旅にでる
1929(昭和2)年、蛇笏は1月から11月までの長期にわたり高室呉龍と関西の旅にでます。

1940(昭和15)年には、小川鴻翔とともに朝鮮半島から中国北部にいたる旅行に出、各地で俳句会や講演を行いました。

1945年 - 60歳
終戦を迎えた蛇笏
戦争は、蛇笏の人生にも大きな影響を与えました。まず俳誌『雲母』は1945年4月号を最後に休刊しています。

また、長男・総一郎はレイテ島にて戦死(1944年)、次男・數馬は病死(1941年)、三男・麗三は外蒙古での抑留後死亡(1946年)しています。

1946(昭和21)年、蛇笏はそれまで山梨県内においていた発行所を東京・世田谷にうつし『雲母』を再開させます。1950(昭和25)年に、ふたたび発行書を山梨県の山蘆に戻しました。

1962年 - 77歳
飯田蛇笏、逝く

1962(昭和37)年、飯田蛇笏は、脳軟化症のため死去しました。山蘆と称した自宅で迎えた最期でした。

死後、蛇笏の功績をたたえ「蛇笏賞」が創設されます。また、蛇笏が遺した『雲母』は、四男・龍太が継承して1992(平成4)年まで発行をつづけました。

飯田蛇笏の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

飯田蛇笏

飯田蛇笏の弟子である石原八束による評伝。至近距離から親しく接した筆者が、飯田蛇笏の真のすがたを生き生きと描いています。実際のやりとり、交流が描かれており、貴重なものだといえます。

飯田蛇笏全句集 (角川ソフィア文庫)

飯田蛇笏の全句集を一冊のまとめた本です。第一句集『山蘆』から遺句集『椿花集』まで掲載されています。一句一句にこめられた力強さ、その秘密は、ふるさとに根をはる生き方にあったのではないかと感じられます。

おすすめの動画

飯田蛇笏の俳句。1

飯田蛇笏について、その歩みを紹介しつつ、俳句が表示されてゆきます。BGMにそって流れてゆく俳句は、とくに解説はありませんが、俳句そのものの醍醐味が伝わってくるようです。続編の動画「飯田蛇笏の俳句。2」「飯田蛇笏の俳句。3」も公開されています。

関連外部リンク

飯田蛇笏についてのまとめ

飯田蛇笏は、故郷・山梨の実家(「山盧」と呼びました)に根を張り、格調高い俳句を詠みつづけました。学生時代親交のあった歌人・若山牧水は、11日間にわたり、蛇笏に東京での活動を促したことがあります。しかし蛇笏は固辞しました。

蛇笏には、故郷で生きるという決意があったのでしょう。俳句に命を吹込むのは、その詠み手の生き方ではないか。蛇笏の俳句を読んでいると、時折そう感じるのです。

この記事から、飯田蛇笏の生き方や俳句について、多くの方に知っていただけたら嬉しいです。

コメントを残す