飯田蛇笏とはどんな人?生涯・年表まとめ【代表的な俳句、作品も紹介】

飯田蛇笏×秋の俳句

秋の句に秀句が多い蛇笏

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり

蛇笏の超有名句です。夏の季語「風鈴」の秋の姿を詠んでいます。惜夏の情とでも言うべきでしょうか。過ぎ去った夏を惜しむところに、黒金づくりの風鈴が澄んだ音色を響かせています。

芋の露連山影を正しうす

蛇笏の超有名句その2です。季語は「芋の露」。芋の葉にたまった朝露。はかなさの代名詞でもある露をまず現出させ、その向こうに威風堂々たる「連山」を描きます。剛柔一如は蛇笏の真骨頂と言えそうです。

をりとりてはらりとおもきすすきかな

季語「すすき」はお月見によく登場することでお馴染みですね。この句の生命は真ん中の「はらりとおもき」です。軽そうにみえたが折り取ってみると重かった、という経過を熟練の措辞で表しました。平仮名表記にした技巧も光ります。

飯田蛇笏×冬の俳句

輝きを帯びている冬の句

炉をひらく火のひえびえともえにけり

寒い季節になると、囲炉裏をひらき火を入れます。いまでは少なくなった、日本家屋の冬の光景が連想されます。火が寒さを押し除けるまでの時間差を「ひえびえともえ」に込めていることがわかります。

山国の虚空日わたる冬至かな

季語は「冬至」つまり一年でもっとも昼の時間が短い日です。太陽の動きを見ていた蛇笏は、「山国の虚空」を「日(が)わたる」と感じたのでした。蛇笏が山盧と呼んだ故郷の空。蛇笏の思いが滲んでいるようです。

手どりたる寒の大鯉光さす

季語「寒」の澄みきった空気感を感じる句です。「手どりたる」「大鯉」という動作の合間に「寒の」「光さす」という景が織り込まれています。大鯉が後光をまとっているかのような、見事な俳句にまとめられています。

飯田蛇笏にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「虚子止まれば止まり、虚子進めば進む」

俳句界の大御所、高浜虚子

飯田蛇笏は、高浜虚子に師事し、1908(明治41)年に虚子の主宰する俳句鍛錬会「俳諧散心」にも参加しています。しかし、この年虚子が俳壇から身を引くことになり、それに合わせて蛇笏も「ホトトギス」への投稿を見合わせました。

蛇笏がふたたび「ホトトギス」への投句を再開したのは、1912(大正2)年。高浜虚子が「春風や闘志抱きて丘に立つ」の句とともに俳壇に復帰したときでした。まさに「虚子進めば進み、虚子止まれば止まる」蛇笏。彼の性格がよく現れた逸話だといえます。

都市伝説・武勇伝2「蛇笏の名の由来とは」

飯田蛇笏・龍太の生家、通称「山廬」
出典:山廬 | sanrobunka

蛇笏(だこつ)という変わった俳号をもつ飯田蛇笏。一見蛇蝎のように見えてしまいますが、蛇蝎(ヘビとサソリ)ではありません。

蛇笏は、一時期小説家を志した時期がありました。その際に使っていたペンネームが「白蛇幻骨」というものでした。「白蛇幻骨」には「つまらない、首尾一貫していない」といった意味が込められていたようです。

略して「蛇」「骨」さらに「骨」に代えて「笏」の字をあてています。というわけで、飯田蛇笏の俳号の由来は、「もともと使っていたペンネーム」でした。

飯田蛇笏の簡単年表

1885年 – 0歳
飯田蛇笏、誕生

1885(明治18)年4月、飯田武治(蛇笏)は、山梨県東八代郡五成村(現在の笛吹市境川町)に生まれました。

1890(明治23)年、蛇笏は、清澄尋常小学校へ入学します。また、当時隆盛していた俳諧(江戸時代以来の月並俳諧)に幼い時分から親しんでいました。

1898(明治31)年、山梨県尋常中学校時代に文学にめざめ、森鴎外や松尾芭蕉、正岡子規に影響を受けます。その後、東京・小石川の京北中学校に編入学し、さらに早稲田大学へと進学しました。

早稲田大学では、早稲田吟社の句会に参加し、同じ下宿の若山牧水と親交を深め、「ホトトギス」への投句もはじめるなど、文学活動に注力しています。

1909年 – 24歳
帰郷命令

1909(明治42)年、蛇笏は実家からの「帰郷命令」を受けます。帰郷後は、農業や養蚕に従事しつつ、松根東洋城の「国民俳壇」に投句をはじめました。

1911(明治44)年、蛇笏は矢澤菊野と結婚します。翌年には長男(聡一郎)が誕生しています。その後も次男・數馬(1914年)、三男・麗三(1917年)、四男・龍太(1920年)、五男・五夫(1923年)と子宝にめぐまれています。

このころ、山梨の俳壇では、新傾向俳句の波が押し寄せていました。1911年、萩原井泉水(1884-1976)が『層雲』を創刊し、翌年には河東碧梧桐(1873-1937)が山梨を訪れるなどしています。

高浜虚子を師とあおぐ蛇笏は、伝統俳句の立場から、自然風土に根ざした俳句を読むべきだという論を展開し、新聞紙上に掲載しています。

1912(大正2)年に高浜虚子が「ホトトギス」で俳壇に復帰すると、蛇笏もまた「ホトトギス」への投句を再開します。

1915年 – 30歳
俳誌「キララ」を継承「雲母」と改題
1915(大正5)年、蛇笏はまだ創刊まもない『キララ』の選者を依頼されたことがきっかけとなり、2年後から主宰となります。同時に俳誌名を『雲母』と改題し、発行書を甲府市に移転しました。この『雲母』が蛇笏の本拠地となります。

1917(大正6)年、蛇笏は山梨県をおとずれた高浜虚子を増富温泉へ案内しています。また、翌年には、芥川龍之介が「ホトトギス」に投句した俳句を激賞し、ふたりの文通のきっかけとなりました。

大正の後半、蛇笏は江戸時代に蛇笏の家系からでた俳人・成島一斎(1843-1908)の研究に没頭しています。その成果として、1926(大正15)年に遺稿集『明丘舎句集』を著しています。

1929年 – 44歳
蛇笏、旅にでる
1929(昭和2)年、蛇笏は1月から11月までの長期にわたり高室呉龍と関西の旅にでます。

1940(昭和15)年には、小川鴻翔とともに朝鮮半島から中国北部にいたる旅行に出、各地で俳句会や講演を行いました。

1945年 – 60歳
終戦を迎えた蛇笏
戦争は、蛇笏の人生にも大きな影響を与えました。まず俳誌『雲母』は1945年4月号を最後に休刊しています。

また、長男・総一郎はレイテ島にて戦死(1944年)、次男・數馬は病死(1941年)、三男・麗三は外蒙古での抑留後死亡(1946年)しています。

1946(昭和21)年、蛇笏はそれまで山梨県内においていた発行所を東京・世田谷にうつし『雲母』を再開させます。1950(昭和25)年に、ふたたび発行書を山梨県の山廬に戻しました。

1962年 – 77歳
飯田蛇笏、逝く

1962(昭和37)年、飯田蛇笏は、脳軟化症のため死去しました。山廬と称した自宅で迎えた最期でした。

死後、蛇笏の功績をたたえ「蛇笏賞」が創設されます。また、蛇笏が遺した『雲母』は、四男・龍太が継承して1992(平成4)年まで発行をつづけました。

飯田蛇笏の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

飯田蛇笏

飯田蛇笏の弟子である石原八束による評伝。至近距離から親しく接した筆者が、飯田蛇笏の真のすがたを生き生きと描いています。実際のやりとり、交流が描かれており、貴重なものだといえます。

飯田蛇笏全句集 (角川ソフィア文庫)

飯田蛇笏の全句集を一冊のまとめた本です。第一句集『山廬』から遺句集『椿花集』まで掲載されています。一句一句にこめられた力強さ、その秘密は、ふるさとに根をはる生き方にあったのではないかと感じられます。

おすすめの動画

飯田蛇笏の俳句。1

飯田蛇笏について、その歩みを紹介しつつ、俳句が表示されてゆきます。BGMにそって流れてゆく俳句は、とくに解説はありませんが、俳句そのものの醍醐味が伝わってくるようです。続編の動画「飯田蛇笏の俳句。2」「飯田蛇笏の俳句。3」も公開されています。

関連外部リンク

飯田蛇笏についてのまとめ

飯田蛇笏は、故郷・山梨の実家(「山盧」と呼びました)に根を張り、格調高い俳句を詠みつづけました。学生時代親交のあった歌人・若山牧水は、11日間にわたり、蛇笏に東京での活動を促したことがあります。しかし蛇笏は固辞しました。

蛇笏には、故郷で生きるという決意があったのでしょう。俳句に命を吹込むのは、その詠み手の生き方ではないか。蛇笏の俳句を読んでいると、時折そう感じるのです。

この記事から、飯田蛇笏の生き方や俳句について、多くの方に知っていただけたら嬉しいです。

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